忘却のフォトグラフ

忘却のフォトグラフ

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第一章 色褪せた笑顔

僕、高槻海渡(たかつき かいと)の部屋の壁には、一枚だけ写真が飾られている。セピア色に変色した古いものではない。つい最近撮られたかのように鮮やかな、ポラロイド写真だ。

そこに写っているのは、僕ではない。知らない女性が一人、向日葵畑を背景に、太陽そのものみたいな笑顔を浮かべている。夏の日差しを弾く白いワンピース。風に揺れる栗色の髪。楽しげに細められた目尻。

僕は、この女性を知らない。

なぜこの写真が部屋で最も目立つ場所に飾られているのか、いつ、どこで撮ったのか、何一つ思い出せない。けれど、この写真を見るたびに、胸の奥がきゅっと締め付けられる。懐かしさと、息が詰まるほどの切なさが、波のように押し寄せてくるのだ。まるで、身体が忘れてしまった大切な何かを、魂だけが必死に記憶しているかのように。

だから僕は、この写真を捨てることができない。

大学のキャンパスは、僕にとって透明な壁に囲まれた水槽のような場所だった。周囲の喧騒は耳をすり抜け、人々の楽しげな会話も、水中の音のようにぼんやりとしか届かない。僕は自ら望んで、その水槽の中にいた。誰かと深く関わることは、面倒で、そして少し怖かった。レンズ越しに世界を眺め、シャッターを切る。ファインダーの中だけが、僕が心から安らげる唯一のテリトリーだった。

そんな僕のテリトリーに、彼女は土足で、しかしあまりにも軽やかに踏み込んできた。

「高槻くん、だよね? そのカメラ、いい機種使ってるね」

昼下がりの中庭。ベンチでカメラの手入れをしていた僕に、明るい声が降り注いだ。顔を上げると、そこにいたのは、太陽の光を一身に浴びてキラキラと輝くような女性だった。

「……どうも」

僕は短く答え、再びレンズに視線を落とす。関わらないでくれ、という無言のオーラを全身から放っていたはずだ。しかし、彼女は気にも留めず、僕の隣に腰を下ろした。

「私、相沢ヒカリ。同じ学部の。高槻くんの写真、コンクールで見たことあるよ。すごく、優しい色をしてた」

「……そうですか」

「ねえ、今度私を撮ってくれないかな? モデル、なんてガラじゃないけど、高槻くんが撮る世界を見てみたいんだ」

彼女――ヒカリは、僕が築き上げた透明な壁を、いとも簡単にすり抜けてきた。その真っ直ぐな瞳に見つめられると、僕はなぜか「ノー」と言えなかった。それは、彼女の笑顔が、部屋に飾られたあの写真の女性に、どこか似ている気がしたからかもしれない。

その日を境に、僕の世界はヒカリという色で急速に染め上げられていった。彼女は僕を様々な場所に連れ出した。騒がしい商店街のコロッケを食べ歩き、雨上がりの公園で虹を探し、深夜のファミレスでどうでもいい話に笑い転げた。僕は夢中で彼女の写真を撮った。ファインダー越しの彼女は、いつも生命力に満ち溢れていた。

生まれて初めて、僕は「親友」と呼べる存在を得た。孤独だった水槽に温かい光が差し込み、世界がこんなにも鮮やかだったのかと、僕は知ったのだった。

第二章 霧の中の輪郭

ヒカリとの日々は、万華鏡のようにきらびやかで、目まぐるしかった。彼女といると、時間があっという間に過ぎていく。分厚い氷で覆われていた僕の心は、彼女の陽気さによって少しずつ溶かされ、いつしか感情を素直に表に出せるようになっていた。

しかし、幸せの絶頂で、僕は奇妙な違和感に襲われ始めた。

それは、記憶の欠落だった。

ヒカリと過ごした、間違いなく楽しかったはずの時間のディテールが、まるで朝霧の中に消えていくように、思い出せないのだ。

先週一緒に観た映画のタイトルは何だったか。彼女が感動して泣いていたシーンは? 昨日、電話で話した彼女の悩みは何だったか。あれほど真剣に耳を傾けたはずなのに。

覚えているのは、「楽しかった」「嬉しかった」「大切に思った」という、温かい感情の残滓だけ。具体的なエピソードや彼女の言葉は、指の間からこぼれ落ちる砂のように、掴もうとすればするほど失われていく。

初めは、自分の記憶力の問題だと思っていた。もともと物事に執着しない性格だったから、そのせいだろうと。しかし、忘却の速度は日に日に増していく。ヒカリの好きな花の色、得意料理、大切にしている小説の題名。昨日知ったばかりのことさえ、翌朝には綺麗さっぱり頭から消えている。

焦りと不安が、じわりと心を蝕んでいく。僕はヒカリに気づかれまいと、必死に会話を合わせた。彼女の話に相槌を打ちながら、頭の中では必死に過去の会話ログを検索する。だが、そこにあるのはいつもエラーメッセージだけだった。

「カイト、前に話したこと、覚えてる?」

ヒカリが無邪気にそう尋ねるたびに、僕の心臓は凍りついた。

「……ああ、もちろん」

笑顔で嘘をつく。その嘘が、僕と彼女の間に薄い膜を一枚ずつ重ねていくような気がして、苦しかった。なぜだ。なぜ、一番忘れたくないはずの君との記憶だけが、こんなにも脆く、儚いのだろう。

僕は、ヒカリの写真を撮る頻度を増やした。記憶がダメなら、記録に残せばいい。そう思ったからだ。僕の部屋の壁は、少しずつヒカリの笑顔で埋め尽くされていった。それでも不安は消えない。写真の中の彼女は笑っているのに、僕の心は鉛のように重くなっていくばかりだった。

第三章 共感性記憶消失

その日は、ヒカリが珍しく体調を崩し、大学を休んだ。心配になった僕は、スポーツドリンクとゼリーを手に、初めて彼女のアパートを訪れた。チャイムを鳴らすと、少し掠れた声で「開いてるよ」と返事があった。

部屋に入ると、ベッドの上でヒカリが辛そうに体を丸めていた。額に手を当てると、かなりの熱がある。

「薬は飲んだのか?」

「うん……。ごめんね、来てもらっちゃって」

「いいから、寝てろ」

僕は彼女を寝かしつけ、濡れたタオルで額を冷やしてやった。静かな部屋に、彼女のかすかな寝息だけが響く。ふと、枕元に置かれた一冊のノートが目に入った。何気なく手に取ると、表紙に『カイトへ』と書かれていることに気づいた。

それは日記だった。僕宛の。

見てはいけない。頭では分かっていた。人のプライベートを覗き見るなんて、最低の行為だ。しかし、自分の記憶に巣食う謎を解く鍵がここにあるかもしれないという強い予感に、僕は抗えなかった。ごめん、ヒカリ。心の中で謝罪し、僕は震える手でページをめくった。

そこに綴られていたのは、僕の知らない「僕とヒカリの物語」だった。

『○月×日。今日、初めて高槻くんに声をかけた。緊張で心臓が張り裂けそうだった。案の定、すごく警戒されたけど、写真の話をしたら少しだけ心を開いてくれた気がする。ここから、また始めよう』

『△月□日。カイトと水族館に行った。大きなジンベイザメの水槽の前で、カイトが子供みたいに目を輝かせていた。その顔をずっと見ていたくて、写真を一枚撮った。彼が私を忘れても、この気持ちだけは忘れない』

『×月○日。カイトが私の名前を呼んでくれなくなった。話しかけても、どこか戸惑ったような顔をする。兆候だ。そろそろ、私は彼の記憶から消える。分かっていたことなのに、涙が止まらない。友情が深まれば深まるほど、別れが早まるなんて、神様はなんて残酷なんだろう』

ページをめくるごとに、呼吸が浅くなる。日記には、僕とヒカリが何度も出会い、親友になり、そして僕が彼女を完全に忘れてしまう、というサイクルが、克明に、痛々しいほど詳細に記録されていた。

日記の最後のページに、その理由が書かれていた。

『共感性記憶消失』

それは、彼女が持つ特異な体質だった。誰かと強い感情的な絆――特に友情を築くと、その相手の脳が、ヒカリに関する記憶だけを選択的に消去してしまうという、呪いのような現象。絆が深ければ深いほど、忘却のスピードは加速し、最後にはその存在自体を認識できなくなる。

僕が部屋に飾っていた、あの見知らぬ女性の写真は、何度も僕が忘れてきたヒカリの姿だったのだ。僕が写真を撮り続けていたのは、消えゆく彼女を無意識に繋ぎ止めようとする、魂の抵抗だったのかもしれない。

ヒカリは、僕が彼女を忘れるたびに、絶望し、涙を流しながらも、また「初めまして」と僕に声をかけ続けてくれていた。僕の孤独な水槽に、何度も何度も光を届けようとしてくれていたのだ。

「……うそだろ」

声が漏れた。僕が感じていた温かい友情の裏側で、彼女はたった一人、これほどの孤独と悲しみを抱えていたというのか。友情を育むという、最も美しいはずの行為が、彼女の存在そのものを僕の中から奪い去っていく。その残酷な真実に、僕は立っていることさえできなかった。床に崩れ落ち、声を殺して泣いた。

第四章 さよならを、もう一度だけ

僕が泣き止むのを、ヒカリは静かに待っていた。彼女はいつの間にか目を覚まし、ベッドに上半身を起こして、全てを悟ったような穏やかな顔で僕を見ていた。

「……ごめん。勝手に読んだ」

「ううん、いいの。いつかは、話さなきゃって思ってたから」

彼女の声は、不思議なほど落ち着いていた。

「もう、やめにしよう、カイト。君をこれ以上、苦しませたくない。私のせいで、君は何度も混乱して、苦しんできた。もう、会うのはやめよう」

ヒカリの言葉は、優しい刃物のように僕の胸を抉った。彼女は、僕のために、自分自身の存在を僕の世界から消し去ろうとしている。

僕はゆっくりと立ち上がり、彼女のベッドのそばに膝をついた。そして、熱で潤んだ彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。

「嫌だ」

はっきりと、そう言った。

「記憶がなくなっても、君と過ごした時間が僕という人間を変えた事実は、絶対に消えない。僕は、君と会う前の自分をもう思い出せない。人と話すのが怖くて、自分の殻に閉じこもっていた頃の僕を。今の僕がいるのは、忘れられても、忘れられても、君が何度も僕を見つけてくれたからだ。その事実が、記憶よりずっと大切なんだ」

涙が、僕の頬を伝った。ヒカリの瞳からも、大粒の涙がこぼれ落ちた。

「だから、僕から提案がある」

僕は息を吸い込んだ。

「忘れることを、前提にした友情を築こう。僕たちはきっと、またすぐに、お互いのことを忘れてしまう。だったら、それでいい。毎日が『初めまして』でもいい。その一瞬一瞬を、これまで以上に大切にして、全力で楽しむんだ」

そして、僕はいつも首から下げているカメラに手を触れた。

「そして、その証に、毎日一枚だけ、君の写真を撮らせてほしい。いつかこの部屋が、君の写真で埋め尽くされる頃には、僕は君が誰なのか、どうしてこの写真があるのか、分からなくなっているかもしれない。でも、この無数の笑顔が、僕が誰かと、かけがえのない時間を過ごした証になる。僕が孤独じゃなかったっていう、何よりの証明になるんだ」

それからの僕たちの友情は、少しだけ形を変えた。

僕たちは、思い出を語り合うことをやめた。代わりに、「今」この瞬間だけを共有し、心の底から笑い合った。そして一日の終わりに、僕は必ずヒカリの写真を一枚撮る。その写真は、翌朝には「見知らぬ女性の笑顔」に変わっている。

僕の部屋の壁は、今、何百枚ものヒカリの写真で埋め尽くされている。

僕は、そこに写る女性が誰なのか、もう思い出せない。

けれど、この写真たちに囲まれていると、胸の奥から温かいものがこみ上げてくるのを感じる。それは、確かな幸福感の記憶。僕の心と身体に深く刻み込まれた、友情の痕跡。

記憶は失われても、この温もりは消えない。

窓の外に目をやると、大学へ向かう道で、栗色の髪の女性がこちらを見て、小さく手を振った。彼女は、これから僕に会いに来るのだろう。

僕たちの、何度目かの「初めまして」のために。

僕は、理由も分からないまま、彼女に向かってそっと微笑み返した。

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