シンパシー・ゼロの君へ

シンパシー・ゼロの君へ

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この世界では、恋の告白なんてものは、もはや過去の遺物だ。

誰もがインプラント式の『シンパシー・グラス』を装着し、自分に向けられた他人の好意が、頭上に浮かぶハートのアイコンとして可視化される。友情なら黄色いハート、尊敬なら青。そして、恋愛感情は、燃えるようなピンク色。数の多さが感情の強さを表す。おかげで人間関係のすれ違いは激減し、世界は随分と円滑になった。

けれど、私、水野美玲(みずの みれい)にとって、それは時々、ひどく息苦しいものだった。

「水野さん、今日の企画書も最高だったよ」

営業部のエース、佐藤先輩がウインクと共に通り過ぎる。彼の頭上には、私へのピンクのハートが大小取り混ぜて10個ほど、シャボン玉みたいに浮かんでいる。ありがたいけれど、その下心も透けて見えて、素直に喜べない。

オフィスを見渡せば、あちこちでハートが飛び交っている。後輩からの尊敬を示す青いハート。同僚との間に浮かぶ友情の黄色いハート。そして、秘められた恋心を示す、はかない一個のピンクのハート。全部、見えてしまう。

ただ一人、隣の席の黒田春樹(くろだ はるき)を除いては。

彼だけは、いつも完璧な『ゼロ』だった。誰に対しても、誰からも、ハートが一つも表示されない。無口で、無表情。PCに向かう横顔は彫刻のように整っているけれど、感情の温度が全く感じられない。社内でのあだ名は『アンドロイド』。彼に好意を寄せた女性社員が、全くハートが浮かばないことに絶望し、次々と諦めていったという伝説まである。

そんな彼と、新規プロジェクトでペアを組むことになったのは、まさに青天の霹靂だった。

「よろしく、水野さん」
「は、はい! よろしくお願いします、黒田さん!」

差し出された手は、見た目に反して温かかった。けれど、やはり彼の頭上は空っぽのまま。私の頭上には、緊張と期待がないまぜになった黄色と青のハートがいくつか浮かんでいるはずなのに、彼はそれに一切気づかない素振りを見せる。

共同作業が始まると、黒田さんの印象は少しずつ変わっていった。彼は無口なのではなく、的確な言葉だけを選ぶ人だった。私が深夜まで残って作業に詰まっていると、黙って温かいコーヒーを差し出してくれたり、膨大なデータの中から、私が見落としていた重要な一点を「ここ、面白いかも」と静かに指摘してくれたり。

そのたびに、私の頭上で、ピンクのハートがぽん、ぽんと生まれるのを自覚した。一つ、また一つと増えていく。気づけば、佐藤先輩に向けられるよりもずっと大きく、鮮やかなハートが、黒田さんを見るたびに明滅していた。

でも、彼は何も言わない。私の巨大なハートの群れが、まるで存在しないかのように。

「もしかして、私のこと、嫌いなのかな……」

ある晩、二人きりのオフィスで、思わず呟いてしまった。黒田さんのキーボードを打つ指が、ぴたりと止まる。

「どうして?」
「だって、黒田さん、私に対して何のハートも浮かばないから。迷惑なのかなって」

私の視線は、彼の空っぽの頭上に釘付けになる。すると彼は、ふっと、初めて見たかもしれないほど微かに、口元を緩めた。

「シンパシー・グラス越しのものだけが、本当の気持ちなのかな」
「え……?」
「俺は、そうは思わない」

そう言って、彼は再び作業に戻ってしまった。その言葉の意味が分からなくて、私の心臓はますます大きく音を立てる。私のピンクのハートは、きっと今、はち切れんばかりに輝いているだろう。

プロジェクトの最終プレゼンを前日に控えた夜、事件は起きた。大規模なシステム障害で、街中のシンパシー・グラスが機能を停止したのだ。オフィスも例外ではなく、人々の頭上から一切のハートが消え去った。

途端に、世界から色が失われたような感覚に襲われた。誰が誰をどう思っているのか、全く分からない。みんなが不安そうに顔を見合わせている。私も同じだった。けれど、そのとき。

「大丈夫。今までやってきたことを、そのまま話せばいい」

隣から聞こえたのは、黒田さんの落ち着いた声だった。見れば、彼はいつもと何も変わらない。不安がる私を、まっすぐな瞳で見つめている。

「君の言葉で、伝えればいいんだ」

その瞬間、すとん、と胸のつかえが取れた気がした。そうだ、ハートが見えなくたって、私の気持ちはここにある。彼に伝えたい、この感謝と、尊敬と、そして何よりこの熱い想いを。

翌日、システムは復旧しないまま、私たちはプレゼンに臨んだ。不思議と緊張はなかった。黒田さんが隣にいる。それだけで十分だった。私たちのプレゼンは成功を収め、会場は大きな拍手に包まれた。

オフィスに戻る道すがら、二人で並んで夕暮れの街を歩く。まだ、誰のハートも見えない。

「黒田さん」
「うん」
「私、黒田さんのことが好きです」

言ってしまった。ハートの助けなんてない、ただの、私の言葉。

彼は驚いたように目を見開いた。そして、ゆっくりと自分の目元に手をやり、何かを外す仕草をした。コンタクトレンズだ。

「ごめん。俺、これ、着けてないんだ」
「え……?」
「先天的に、このシステムに適合しない体質でね。だから、俺には何も見えない。君のハートも、他の誰のハートも」

彼は少し照れたように笑った。感情がないなんて、とんでもない。その笑顔は、今まで見たどんなものより温かかった。

「だから、知りたかったんだ。自分の目で見て、自分の心で感じて。君が必死に頑張っている姿も、時々見せる笑顔も、全部。……俺も、君が好きだよ、美玲さん」

世界から色が戻った。いや、今まで見ていたどんな景色よりも、鮮やかで、輝いて見えた。彼の頭上にハートはなくても、彼の瞳の中に、言葉に、確かに私への想いが映っている。

私たちは、シンパシー・グラスに頼らない、世界で一番ワクワクする恋を始めるのだ。

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