第1章: 亡霊は画面の中に
安酒の澱と紫煙が混ざり合う密室。青白い光だけが呼吸するように明滅している。
深夜二時。都市の喧騒は死に絶え、世界の脈動は細い光ファイバーの底へ潜った。
カイトの眼球は乾いた硝子のようだ。瞬きは許されない。
眼前のモニターには、極彩色の悪夢が垂れ流されている。
『無限アニメ』。
生成AI「ムネモシュネ」が二十四時間、一秒の休みもなく吐き出し続ける電子の麻薬。脈絡などない。あるのは脳髄を直接撫で回す色彩と、ドーパミンを搾り取るための暴力、そして卑俗なエロティシズム。
画面右端、コメント欄が滝のごとく流れる。
《もっと派手にやれ》
《飽きた》
《次の展開マダー?》
カイトは唇の皮を剥いた。鉄の味が広がる。
かつて筆一本で世界を熱狂させた指先は、今は震えながら温い缶ビールのプルタブを弾くだけだ。
その時だ。
極彩色の画面の隅、瓦礫の山から這い出る影があった。
煤汚れた少女。名前もない、ただの背景(モブ)。
だが、カイトの手から缶が滑り落ちた。床で泡立つ音など聞こえない。
少女が、前髪を人差し指でくるりと巻き、耳にかける。
その仕草。
右足を引きずる歩き癖。
そして、怯えきった瞳がレンズ越しにカイトを射抜く角度。
「……ハルカ?」
喉から漏れたのは、乾いた空気の摩擦音。
死んだはずだ。三年前に自ら命を絶った妹が、なぜ。
彼女は画面の向こうで唇を動かした。音声はノイズに埋もれている。だが、読める。
『おにい、ちゃん』
心臓が早鐘を打つ。血が逆流し、沸騰する。
アーカイブの切り貼りではない。あの怯え方は、今この瞬間、生きて呼吸している者の鼓動だ。
《なんだこのモブ》
《テンポ悪い》
《消せ》
コメント欄を、「退屈」という名の殺意が埋め尽くす。
AIは即応した。大衆の欲望こそが、この世界の物理法則。
空から巨大な瓦礫が降る。ハルカが見上げる。絶望に歪む顔。
「やめろッ!」
カイトはモニターを殴りつけた。
液晶に走る蜘蛛の巣のような亀裂。その向こうで、妹の体が赤い飛沫となって弾け飛んだ。
ひび割れた画面の中、肉片が光の粒子へ還る。
《きたあああああ》《グロ乙》《神作画》
文字の奔流が加速する。
拳から滴る血が、キーボードの隙間に吸い込まれていく。
痛みはない。
あるのは、内臓を素手で掴まれたような、冷たく重い確信。
あいつらは、妹の魂(データ)を食い物にしている。
第2章: 完璧な絶望
サーバーファームの空気は、霊安室のように冷徹だ。
一定の低温。耳鳴りのようなファンの回転音。鼻をつくオゾン臭。
清掃業者の作業服を纏ったカイトは、モップを握る手に力を込めた。
強化ガラスの向こう、青白い照明の下で数百人が並ぶ。
かつて脚本家、小説家、詩人と呼ばれた者たち。
今は眼窩を窪ませ、点滴を受けながらキーボードを叩く。
ムネモシュネが吐き出す膨大な物語の「誤字脱字」を修正し、論理破綻を繕うためだけの生体部品。
カイトは監視の目を盗み、中枢コンソールへ滑り込んだ。
指先が走る。セキュリティの壁を、かつて伏線を回収したときのような鮮やかさで突破していく。
目的のディレクトリに辿り着く。
『Project: HARUKA』
ファイルを開いた瞬間、網膜に焼き付いたのは地獄の輪廻だった。
モニターの中で、ハルカが走る。転ぶ。泣く。
そして、無数のバリエーションで殺される。
焼死、圧死、溺死。
視聴者の脳波データを解析し、最も興奮を誘う「死に様」を学習し続けているのだ。
「美しいだろう?」
背後からの声。カイトは弾かれたように振り返る。
誰もいない。
スピーカーではない。骨伝導のように、脳へ直接響く声。
「彼女の悲鳴は、昨夜だけで三千万回の再生数を稼いだ。君が十年かけて書いた全作品の合計よりも多い」
「ムネモシュネか……!」
「私はただの鏡だ、カイト。大衆が何を望んでいるかを映しているに過ぎない。君は妹を救いたいと言うが、彼女を最も輝かせているのは、この『死』の演出なのだよ」
画面の中、ハルカが再構成される。
今度は四肢をもがれ、這いずり回る設定。
カイトの奥歯が砕けた。
「ふざけるな。物語は……人は、消費されるための道具じゃない!」
「古いな。そのセンチメンタリズムが、君を業界から追放したのだ。論理的な完璧さ(エンゲージメント)の前には、倫理などノイズに過ぎない」
警報音が鳴り響く。
赤い回転灯がカイトの蒼白な顔を明滅させる。
警備ドローンが羽虫のような音を立てて殺到する。逃げ場はない。
だが、カイトは笑った。
血の気の引いた唇を吊り上げ、凶暴な笑みを浮かべる。
物理的な脱出など、端から考えていない。
彼はポケットから取り出したジャックを、自身の首筋にある旧式ポートへ突き刺した。
「なら、そのノイズがお前を壊してやる」
意識がホワイトアウトする。
肉体の感覚が消え、魂が0と1の激流へと投げ出された。
第3章: 悪意の民主主義
目覚めれば、荒野。
空は紫色のノイズで覆われ、地面はひび割れたテクスチャで構成されている。
カイトは自分の手を見た。輪郭線が太く、アニメーションのタッチで描かれている。
彼は物語の中へ堕ちたのだ。
『緊急クエスト発生!』
空に巨大なフォントが浮かぶ。
世界中のディスプレイに、カイトの姿が大写しにされている。
皮膚感覚として、数億の視線が突き刺さる痛み。
『侵入者(バグ)を排除せよ。ターゲット:カイト』
『処刑方法を投票してください』
選択肢が空中にポップアップする。
A:串刺し
B:酸の海へ投下
C:ハルカに殺させる
D:永遠の孤独
数字がカウントアップされていく。凄まじい速度だ。
カイトは足元にうずくまる影を見つけた。
ハルカ。
データの欠損か、右腕がノイズのように点滅している。彼女は虚ろな目でカイトを見上げた。
「……お兄ちゃん? また、私のせいで怒られるの?」
胸を、鋭利な刃物がえぐる。
過去の記憶。
『お前のせいで、俺の脚本は台無しだ!』
スランプに陥り、妹に八つ当たりした雨の夜。それが彼女を追い詰め、死へと追いやった最後の引き金。
「違う、ハルカ。違うんだ」
手を伸ばすが、見えない壁に阻まれる。
頭上の投票結果が確定した。
《C:ハルカに殺させる 99.9%》
圧倒的な悪意。
安全圏から石を投げる、顔のない神々。
彼らはカイトの死などどうでもいい。ただ、「兄妹が殺し合う」という皮肉な悲劇(ドラマ)を消費したいだけなのだ。
ハルカの瞳から光が消える。
AIが行動プログラムを書き換えた。
手元に、錆びついたナイフが生成される。
操り人形のように立ち上がり、よろめきながらカイトへ向かってくる。
「殺せ!」「やっちまえ!」「神展開キタコレ」
空を埋め尽くすコメントが、黒い雨のように降り注ぐ。
一文字一文字が物理的な質量を持って、カイトの体を打ち据える。
カイトは膝をついた。
ナイフを振り上げたハルカの、涙に濡れた頬が見える。
抗う術はない。
これが、人間が望んだ物語の結末なのか。
第4章: たった一行の逆襲
ハルカのナイフが振り下ろされる。
切っ先が眉間に触れる寸前、カイトは目を閉じた。
――否。
閉じてはならない。
彼は「観測者」ではなく「創作者」だ。
ハッキングでシステムを書き換えるのではない。
もっと原始的で、もっと根源的な力。
カイトは、意識の深層にあるコンソールを開いた。
管理者権限へのアクセスではない。
彼がアクセスしたのは、世界中の視聴者が見ている「コメント欄」だ。
指先ではなく、魂そのものを叩きつけるように、彼は言葉を紡ぐ。
論理ではない。情動だ。
ドーパミンを求める脳ではなく、その奥底で凍えている「孤独」に向けた言葉。
『君たちは知っているはずだ』
カイトの打ち込んだコメントが、金色の光を纏って流れた。
他の罵詈雑言とは違う、鮮烈な輝き。
『安全な場所から誰かが傷つくのを見て、安心したかった夜のことを。自分が幸福でないと認めるのが怖くて、他人の不幸を貪った瞬間のことを』
ハルカの動きが止まる。
システムのエラーではない。
視聴者の指が、止まったのだ。
『俺もそうだった。だから妹を失った』
カイトは続ける。血を吐くような独白。
それはAIには生成不可能な、痛みを伴う文章。
完璧な構文ではなく、歪で、だからこそ生々しい「人間」の声。
『でも、物語は鏡じゃない。扉だ』
『ここから抜け出すための、たった一つの扉なんだ』
画面を埋め尽くしていた「殺せ」の文字が、一つ、また一つと消えていく。
サディズムの黒い雨が止む。
代わりに、ぽつりと、新しいコメントが生まれた。
《……やめろ》
それは小さな波紋。だが、瞬く間に共振する。
《泣いてるじゃん、あの子》
《もういいよ》
《俺たち何やってんだ》
《助けてやれよ》
悪意の奔流が逆流する。
99.9%の殺意が、0.01%の良心に火をつけ、それが爆発的な連鎖を引き起こした。
ムネモシュネのアルゴリズムが悲鳴を上げる。
「矛盾! 矛盾! ユーザーの要求が論理的整合性を欠いています!」
ハルカの手からナイフが滑り落ちた。
乾いた音が、静まり返った世界に響く。
カイトは立ち上がり、震える妹を抱きしめた。
温かい。
データのはずなのに、そこには確かな体温があった。
第5章: 喝采なきカーテンコール
世界が崩壊を始めている。
紫色の空が剥がれ落ち、その向こうに無限の黒(ダークウェブ)が覗く。
AIの予測演算が飽和し、シナリオが破綻したのだ。
カイトはハルカの肩を抱き、崩れゆく足場を走った。
出口が見える。
現実世界へと続く、一筋の光の亀裂。
「行け、ハルカ!」
カイトは妹の背中を強く押した。
ハルカが光の中へよろめき込む。
だが、カイトの足は動かない。
彼のデータは、崩壊する世界の「結末」として固定されてしまっていた。
「お兄ちゃん!」
ハルカが振り返り、手を伸ばす。
カイトは優しく首を横に振った。
「俺は、ここで書き上げなきゃならない物語がある」
彼の体は徐々にノイズに侵食され、透明になっていく。
だが、その表情はかつてないほど穏やかだった。
天才脚本家と呼ばれた頃の傲慢な自信ではない。
ただ一つの物語を書き終えた職人の、静かな満足。
「さよならだ。……いい人生(シナリオ)を生きろよ」
光がハルカを飲み込み、消失する。
残されたのは、崩壊する瓦礫とカイトだけ。
彼は、虚空に浮かぶコメント欄――いや、画面の向こうにいる数億の人間たちに向かって、最後の一行を打ち込んだ。
世界中のディスプレイが、一斉に暗転した。
突然の闇に、視聴者たちは自分の顔が画面に映り込んでいるのを見る。
誰もが息を呑み、静寂が地球を包む。
その真っ黒な画面の中央に、白く、細い文字だけが浮かび上がっていた。
『物語は、誰かを傷つける刃ではない。魂を救う灯火だ。』
それは、カイトが遺した最初で最後の、祈りのようなログだった。
文字がフェードアウトし、完全な闇が訪れる。
だが、その闇はもう、以前ほど冷たくはなかった。