硝子の棺と、偽りの海

硝子の棺と、偽りの海

6 3066 文字 読了目安: 約6分
文字サイズ:
表示モード:

第一章 ノイズ混じりの雨

後頭部のジャックを引き抜く瞬間、脳味噌を熱したスプーンで掻き回されるような痛みが走る。

「ぐ、ッ……」

俺は呻き声を漏らし、脂汗の滲む額を義手で拭った。金属の冷たい感触だけが、ここが現実であることを教えてくれる。

「作業完了だ。金はいつもの口座に」

薄暗い路地裏。足元には、瞳孔を開いたまま痙攣する男が転がっている。安物の違法BMI(脳機インターフェース)で『楽園』へアクセスし、戻れなくなったジャンキーだ。俺のような『切断屋』が物理的に回線を断ち切らなければ、彼の脳は過負荷で焼き切れていただろう。

「あ、あぁ……あんた、カイトか? 噂の……」

男が焦点の合わない目で俺の左腕を見る。肘から先が剥き出しのサーボモーターと強化プラスチックで構成された、旧式の義手。

俺は答えず、防水フードを深く被り直した。

ネオ・トーキョーの空は、今日も分厚いホログラム広告と酸性雨に覆われている。視界の隅にポップアップする『意識の永遠化――プロジェクト・アセンション』の広告を、視線入力で乱暴に閉じる。

人類の九割が脳をネットに直結し、感覚を拡張しているこの街で、俺は数少ない『オフライン』主義者だ。いや、正確には適合できなかった欠陥品か。

振動する端末を取り出す。新しい依頼だ。

『依頼主:エレナ・ヴァーミリオン。場所:上層区画、クラウド・ガーデン』

上層区画。空気を金で買う連中の住処だ。俺は舌打ちし、錆びついたバイクのエンジンを蹴り上げた。

第二章 完全な肉体、空虚な重み

「あなたが、カイトさん?」

エレナは、作り物めいた美しさを持っていた。シミ一つない肌、左右対称すぎる顔立ち、そして不自然なほど鮮やかな碧眼。

だが、俺の『欠陥』である過敏な知覚は、彼女の纏う違和感を捉えていた。彼女の動きには、0.1秒のラグがある。脳と身体の同期ズレだ。

「依頼内容は聞いている。護衛だろう?」

「ええ。でも、少し違うわ」

彼女は車椅子の上で微笑んだ。その足は、高級なドレープの下で痩せ細っているのが見て取れる。

「私を、海へ連れて行ってほしいの」

「海? VRリゾートに行けばいい。五感フルダイブなら、潮の匂いだって再現できる」

「違うの。本物の海よ。この街の壁の向こう側にある、汚れて、臭くて、誰も行かない海」

俺は眉をひそめた。壁の外は無法地帯だ。

「私は明日、『アセンション』するの」

彼女の言葉に、部屋の空気が凍りついた。

アセンション。肉体を捨て、意識データをクラウド上の巨大サーバへ完全移行する、究極のBMI手術。富裕層だけに許された、事実上の不老不死。

「肉体を捨てる前に、最後に一度だけ、データじゃない『痛み』を感じたいの」

彼女の瞳には、死への恐怖ではなく、奇妙な渇望があった。

「報酬は言い値で払うわ」

俺は溜息をつき、義手の指を鳴らした。

「高くつくぞ。俺のバイクは、乗り心地最悪だ」

第三章 境界線のバグ

都市防壁のゲートを強行突破した頃には、陽が落ちかけていた。

荒野を走るバイクの振動が、俺の義手を通して骨に響く。背中にしがみつくエレナの体温は、驚くほど低い。

「見て! あれが水平線?」

彼女が叫ぶ。ヘルメット越しにも、その興興奮が伝わってくる。

目の前には、鉛色の海が広がっていた。油膜が浮き、打ち上げられたプラスチックゴミが山を作っている。磯の香りというよりは、腐敗臭と化学薬品の匂いが鼻をつく。

バイクを停め、俺たちは砂浜に降り立った。

エレナはふらつく足取りで波打ち際へ歩き出す。ハイヒールが汚れた砂に沈む。

「これが……現実……」

彼女は涙を流していた。汚れた海水を掬い、顔を洗う。

「冷たい。臭い。……生きてるって感じがする」

俺はその光景を眺めながら、違和感の正体を探っていた。

何かがおかしい。

俺の脳が、警告信号を発している。義手のサーボが微かに唸る。

「おい、エレナ。下がってろ」

「え?」

俺は落ちていた鉄パイプを拾い上げ、何もない空間を殴りつけた。

ガギィンッ!!

硬質な手応えと共に、空間に『ヒビ』が入った。

空の色が瞬いた。鉛色の海が一瞬、グリッド状のワイヤーフレームに変わる。

「な……何よ、これ」

エレナが後ずさる。

「テクスチャの貼り遅れだ」

俺は吐き捨てるように言った。

「この匂い、この冷たさ、この痛み。全部、高度なレンダリングだ」

俺たちのいる『現実世界』と思われていたこの場所。

それは既に、巨大なサーバーの中だった。

第四章 楽園の正体

「嘘……嘘よ!」

エレナが叫ぶ。だが、ヒビ割れた空間の向こうに見えるのは、無限に続く黒いサーバーラックの列だった。

俺はずっと感じていた。適合できない欠陥脳だと言われてきたが、そうじゃなかった。俺の脳は、このシミュレーションの解像度に耐えられず、常に『処理落ち』を起こしていただけだ。

「じゃあ、アセンションって何なの? 私たちは明日、どこへ行くの?」

「どこへも行かない」

俺は空を見上げた。ホログラムの広告がバグって点滅している。

「『アセンション』は移行じゃない。圧縮だ。個別の自我データを削除し、リソースをメインメモリに統合する。お前が憧れた永遠の命なんてない。あるのは、データの効率化だけだ」

俺たちは、培養液に浮かぶ脳が見ている夢の住人ですらなかった。最初から、0と1の羅列。

「そんな……」

エレナが崩れ落ちる。波が彼女の足を洗うが、その飛沫は不自然なほど美しい放物線を描いていた。

第五章 ラスト・ログアウト

「ねえ、カイト」

長い沈黙の後、エレナが顔を上げた。絶望の色は消え、透き通るような静けさがあった。

「それでも、この痛みは私だけのものだったわ」

彼女は足元の、バグで点滅する貝殻を拾い上げた。

「ここが偽物でも、私が感じた『行きたい』って気持ちは本物だった」

空が赤く染まり始める。システムの強制シャットダウン、あるいはアップデートの予兆か。

「私はアセンションするわ」

「死ぬぞ。いや、消去される」

「ええ。でも、このままバグとして生きるより、綺麗なデータのまま終わりたい」

彼女は俺の義手に触れた。温度のない、けれど確かな感触。

「あなたは? あなたは気付いてしまった。この世界の全てが偽物だって。どうするの?」

俺は苦笑した。タバコを取り出すが、火がつかない。プログラム上の制限か。

「俺はここに残る。このクソったれな解像度の低い世界で、ノイズを聴き続けるさ」

「そう……。さよなら、カイト」

彼女の輪郭が光に包まれる。アセンションの時刻だ。

「ありがとう。私の、最初で最後の現実」

光が弾け、彼女は消えた。

後に残ったのは、静寂と、ループ再生される波の音だけ。

俺は義手を握りしめる。手のひらに残る感覚は、データ上の数値に過ぎない。

だが、俺の頬を伝う液体だけは、塩辛い味がした気がした。

視界の隅に、システムログが流れる。

『Error: User "Kaito" cannot be archived. Anomaly detected.』

俺はバグりかけた空に向かって、中指を立てた。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • カイト: 旧式義手の「切断屋」。BMIへの生理的拒絶反応を持つため、皮肉にもこの世界がシミュレーションであるという「違和感」を肌で感じ取れる唯一の存在。彼の「痛み」だけが、この世界におけるリアリティの証明となっている。
  • エレナ: 富裕層の少女。完璧なアバターのような外見を持つが、精神的な飢餓感を抱えている。「汚れた海」への憧れは、管理された完璧さへの無意識の抵抗であり、彼女の人間性の最後の灯火であった。

【考察】

  • 身体性と意識の乖離: 本作は「痛み」や「汚れ」といった身体的感覚こそが人間性の根源ではないかと問いかける。全てがクリーンなデータになった時、人は個を保てるのかというテーマを内包している。
  • アセンションのメタファー: 作中の「アセンション」は宗教的な昇天と、デジタルの圧縮(削除)のダブルミーニングである。救済に見える行為が、実は個の消滅であるというアイロニーが、現代のデジタル依存への警鐘として描かれている。
  • 錆びた義手の象徴性: カイトの義手は、デジタルな世界における「異物」であり、同時に「現実への錨」である。彼が最後に流した涙の味が塩辛かった(と感じた)ことは、たとえ世界が偽物でも、彼の感情だけは本物であったことを示唆している。
この物語の「続き」を生成する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと...

TOPへ戻る