第一章 ノイズ混じりの雨
後頭部のジャックを引き抜く瞬間、脳味噌を熱したスプーンで掻き回されるような痛みが走る。
「ぐ、ッ……」
俺は呻き声を漏らし、脂汗の滲む額を義手で拭った。金属の冷たい感触だけが、ここが現実であることを教えてくれる。
「作業完了だ。金はいつもの口座に」
薄暗い路地裏。足元には、瞳孔を開いたまま痙攣する男が転がっている。安物の違法BMI(脳機インターフェース)で『楽園』へアクセスし、戻れなくなったジャンキーだ。俺のような『切断屋』が物理的に回線を断ち切らなければ、彼の脳は過負荷で焼き切れていただろう。
「あ、あぁ……あんた、カイトか? 噂の……」
男が焦点の合わない目で俺の左腕を見る。肘から先が剥き出しのサーボモーターと強化プラスチックで構成された、旧式の義手。
俺は答えず、防水フードを深く被り直した。
ネオ・トーキョーの空は、今日も分厚いホログラム広告と酸性雨に覆われている。視界の隅にポップアップする『意識の永遠化――プロジェクト・アセンション』の広告を、視線入力で乱暴に閉じる。
人類の九割が脳をネットに直結し、感覚を拡張しているこの街で、俺は数少ない『オフライン』主義者だ。いや、正確には適合できなかった欠陥品か。
振動する端末を取り出す。新しい依頼だ。
『依頼主:エレナ・ヴァーミリオン。場所:上層区画、クラウド・ガーデン』
上層区画。空気を金で買う連中の住処だ。俺は舌打ちし、錆びついたバイクのエンジンを蹴り上げた。
第二章 完全な肉体、空虚な重み
「あなたが、カイトさん?」
エレナは、作り物めいた美しさを持っていた。シミ一つない肌、左右対称すぎる顔立ち、そして不自然なほど鮮やかな碧眼。
だが、俺の『欠陥』である過敏な知覚は、彼女の纏う違和感を捉えていた。彼女の動きには、0.1秒のラグがある。脳と身体の同期ズレだ。
「依頼内容は聞いている。護衛だろう?」
「ええ。でも、少し違うわ」
彼女は車椅子の上で微笑んだ。その足は、高級なドレープの下で痩せ細っているのが見て取れる。
「私を、海へ連れて行ってほしいの」
「海? VRリゾートに行けばいい。五感フルダイブなら、潮の匂いだって再現できる」
「違うの。本物の海よ。この街の壁の向こう側にある、汚れて、臭くて、誰も行かない海」
俺は眉をひそめた。壁の外は無法地帯だ。
「私は明日、『アセンション』するの」
彼女の言葉に、部屋の空気が凍りついた。
アセンション。肉体を捨て、意識データをクラウド上の巨大サーバへ完全移行する、究極のBMI手術。富裕層だけに許された、事実上の不老不死。
「肉体を捨てる前に、最後に一度だけ、データじゃない『痛み』を感じたいの」
彼女の瞳には、死への恐怖ではなく、奇妙な渇望があった。
「報酬は言い値で払うわ」
俺は溜息をつき、義手の指を鳴らした。
「高くつくぞ。俺のバイクは、乗り心地最悪だ」
第三章 境界線のバグ
都市防壁のゲートを強行突破した頃には、陽が落ちかけていた。
荒野を走るバイクの振動が、俺の義手を通して骨に響く。背中にしがみつくエレナの体温は、驚くほど低い。
「見て! あれが水平線?」
彼女が叫ぶ。ヘルメット越しにも、その興興奮が伝わってくる。
目の前には、鉛色の海が広がっていた。油膜が浮き、打ち上げられたプラスチックゴミが山を作っている。磯の香りというよりは、腐敗臭と化学薬品の匂いが鼻をつく。
バイクを停め、俺たちは砂浜に降り立った。
エレナはふらつく足取りで波打ち際へ歩き出す。ハイヒールが汚れた砂に沈む。
「これが……現実……」
彼女は涙を流していた。汚れた海水を掬い、顔を洗う。
「冷たい。臭い。……生きてるって感じがする」
俺はその光景を眺めながら、違和感の正体を探っていた。
何かがおかしい。
俺の脳が、警告信号を発している。義手のサーボが微かに唸る。
「おい、エレナ。下がってろ」
「え?」
俺は落ちていた鉄パイプを拾い上げ、何もない空間を殴りつけた。
ガギィンッ!!
硬質な手応えと共に、空間に『ヒビ』が入った。
空の色が瞬いた。鉛色の海が一瞬、グリッド状のワイヤーフレームに変わる。
「な……何よ、これ」
エレナが後ずさる。
「テクスチャの貼り遅れだ」
俺は吐き捨てるように言った。
「この匂い、この冷たさ、この痛み。全部、高度なレンダリングだ」
俺たちのいる『現実世界』と思われていたこの場所。
それは既に、巨大なサーバーの中だった。
第四章 楽園の正体
「嘘……嘘よ!」
エレナが叫ぶ。だが、ヒビ割れた空間の向こうに見えるのは、無限に続く黒いサーバーラックの列だった。
俺はずっと感じていた。適合できない欠陥脳だと言われてきたが、そうじゃなかった。俺の脳は、このシミュレーションの解像度に耐えられず、常に『処理落ち』を起こしていただけだ。
「じゃあ、アセンションって何なの? 私たちは明日、どこへ行くの?」
「どこへも行かない」
俺は空を見上げた。ホログラムの広告がバグって点滅している。
「『アセンション』は移行じゃない。圧縮だ。個別の自我データを削除し、リソースをメインメモリに統合する。お前が憧れた永遠の命なんてない。あるのは、データの効率化だけだ」
俺たちは、培養液に浮かぶ脳が見ている夢の住人ですらなかった。最初から、0と1の羅列。
「そんな……」
エレナが崩れ落ちる。波が彼女の足を洗うが、その飛沫は不自然なほど美しい放物線を描いていた。
第五章 ラスト・ログアウト
「ねえ、カイト」
長い沈黙の後、エレナが顔を上げた。絶望の色は消え、透き通るような静けさがあった。
「それでも、この痛みは私だけのものだったわ」
彼女は足元の、バグで点滅する貝殻を拾い上げた。
「ここが偽物でも、私が感じた『行きたい』って気持ちは本物だった」
空が赤く染まり始める。システムの強制シャットダウン、あるいはアップデートの予兆か。
「私はアセンションするわ」
「死ぬぞ。いや、消去される」
「ええ。でも、このままバグとして生きるより、綺麗なデータのまま終わりたい」
彼女は俺の義手に触れた。温度のない、けれど確かな感触。
「あなたは? あなたは気付いてしまった。この世界の全てが偽物だって。どうするの?」
俺は苦笑した。タバコを取り出すが、火がつかない。プログラム上の制限か。
「俺はここに残る。このクソったれな解像度の低い世界で、ノイズを聴き続けるさ」
「そう……。さよなら、カイト」
彼女の輪郭が光に包まれる。アセンションの時刻だ。
「ありがとう。私の、最初で最後の現実」
光が弾け、彼女は消えた。
後に残ったのは、静寂と、ループ再生される波の音だけ。
俺は義手を握りしめる。手のひらに残る感覚は、データ上の数値に過ぎない。
だが、俺の頬を伝う液体だけは、塩辛い味がした気がした。
視界の隅に、システムログが流れる。
『Error: User "Kaito" cannot be archived. Anomaly detected.』
俺はバグりかけた空に向かって、中指を立てた。