第1章: 禁忌の生配信
暗闇の中、唯一の光源はスマートフォンの液晶。
画面の隅、ピクチャーインピクチャーの枠内に映る男の顔色は、死人よりも悪い。
伸び放題で脂ぎった黒髪を後ろで縛り上げ、モニターのブルーライトに焼かれ続けた濁った鳶色の瞳。それが神経質に左右へ。
無精髭は顎を覆い、喉仏のあたりまで侵食。着古した黒のパーカー、胸元のロゴプリントはひび割れ、今にも剥落しそうだった。
「聞こえてるか? クソみたいな世界で暇を持て余してるお前ら」
俺、八神響は、ひび割れた唇を歪めてマイクに囁く。
コメント欄を流れる文字の滝。
『きたあああああ』
『オワコン乙』
『ここマジでやばいとこだろ』
『特定した。杉並区の月喰ハイツじゃん』
画面右上の同接数は「3,412」。足りない。全盛期の十分の一にも満たない数字。
喉が鳴る。渇きではない。数字への飢餓だ。
カメラアングルを調整し、背後にそびえる鉄扉を映す。塗装が剥げ、赤錆が浮いたその扉には、奇妙な張り紙。
『規約第一条:午前2時に玄関の覗き穴を見てはならない』
「さて、現在の時刻は……」
腕時計をカメラに見せつける俺。秒針が時を刻む音が、やけに大きく鼓膜を叩く。
一時五十九分五十五秒。
「ショータイムだ」
躊躇なく、鉄扉の魚眼レンズに左目を押し当てた。
まぶたに吸い付く冷たい金属の感触。
レンズの向こう、薄暗い共用廊下には、蛍光灯が一本だけ明滅していた。チカ、チカ、とリズムを刻む光の他には、埃ひとつ舞っていない。
ただの、古い廊下。
「……ほらな。何もありゃしない」
鼻を鳴らし、カメラへ向き直る。「お前らの期待通りにならなくて残念だったな。怪異なんてのは、大抵が集団ヒステリーの産物で――」
言葉が途切れる。
スマホの画面が、真っ赤に染まっていたからだ。
スパムではない。コメント。
『うしろ』
『後ろ見ろ』
『レンズ見ろ』
『いやああああああああああ』
『なんかいるなんかいる』
『目』
心臓が肋骨を内側から蹴り上げる。
背筋に、氷水を流し込まれたような悪寒。
強張る首を無理やり捻じ曲げ、再びドアの方を――いや、覗き穴を見た。
魚眼レンズの向こう側から、覗き返してくる「誰か」。
白目のない、真っ黒な眼球が、レンズいっぱいに広がっている。
「ひっ……!」
パーカーのフードを掴んで後ろへ飛び退く。
尻餅をつくのと同時に、ポケットの中のスマートフォンが響かせる不快なバイブレーション。
通知バナー。発信元は『月喰ハイツ管理組合』。
『規約違反を確認。罰則執行を開始します』
直後、剥がれ落ちる現実のテクスチャ。
目の前にあったはずの鉄扉が、音もなく溶けるように消失。
そこにあるはずの廊下も、階段も、外の世界への出口も消え失せていた。
代わりに広がるのは、上下左右の感覚が麻痺するような、無限に続くコンクリートの壁。
出口がない。
「おい、冗談だろ……? ドアが……ねえぞ……!」
這いつくばったまま後退る俺。指先が掴む、湿った畳の感触。
加速するコメント欄。跳ね上がる同接数。
『1万突破』
『ガチ? CG?』
『やばいってこれ』
『通報した』
呼吸は浅く、速く。酸素を求めて喘ぐ肺。
これは演出じゃない。俺の「嘘」が、本物の「異常」に食い破られた瞬間。
第2章: 異常な日常
閉鎖空間での時間は、ねっとりとした油のような流れ。
窓の外は塗りつぶされた黒一色。スマホの電波は、配信アプリ以外すべて圏外。
部屋の隅で膝を抱えていたが、不意に、壁のシミだと思っていた場所が「開いた」。
現れたのは、人間離れした造形の少女。
陽の光を一度も浴びたことがないような蒼白の肌。少しサイズの大きいセーラー服は、時代遅れのデザインで、裾が擦り切れている。
彼女の足元を見て、息を呑む。裸足。爪先は泥と血で汚れ、かかとはひび割れていた。
そして首元。何かに締め上げられたような赤黒い索溝が、ネックレスのように巻き付いている。
「……息を止めて」
鈴を転がすような、しかしひどく掠れた声。
彼女、ミサは俺の口を冷たい掌で塞ぐ。
「廊下で管理人とすれ違う時は、呼吸をしてはいけないの。規約第十三条だから」
ドス、ドス、ドス。
部屋の外――いや、かつて廊下だった空間を、何かが歩いていく気配。
重たい革靴の足音が響く。そして、ジャリ、ジャリという、何かを引きずる音。
心臓は破裂寸前。ミサの手のひらは氷のように冷たく、その感触だけが現実を繋ぎ止めていた。
遠ざかる足音。手を離すミサ。
「……貴方、新しい入居者さん?」
どこか焦点が合っていない瞳。常に誰かの顔色を窺うように、視線が宙を彷徨う。
「俺は八神。……ここは一体なんなんだ」
「月喰ハイツ。規約を守れば、住ませてもらえる場所」
ミサは床に落ちていた赤いチラシを拾い上げた。スーパーの特売チラシのような見た目だが、印刷されている文字は意味不明な羅列。
「これ、食べなきゃ。火曜日は赤い紙を食べる日だから」
彼女はそれを破り、口に運ぼうとする。
「よせ!」
反射的に彼女の手首を掴む俺。
「紙なんて食えるかよ! 頭おかしいのか?」
「……でも、規約だから。食べないと、痛いことされるから」
小刻みに震えだすミサの体。学習性無力感。虐待を受けた子供特有の反応。
俺の中で走る計算。
この異常な状況。そして、この少女。
これだ。「撮れ高」だ。
カメラを彼女に向けた。
「いいか、よく聞け。紙は食わない。その代わり、俺がもっと面白いもんを見せてやる」
リュックからカロリーメイトを取り出し、包装を剥く。
「ほら、食ってみろ。これも『黄色い長方形』だ。規約の解釈なんて、ねじ曲げちまえばいい」
おずおずとそれを受け取り、小さく齧るミサ。
微かに見開かれる目。
「……あまい」
「だろ?」
ニヤリと笑い、コメント欄を見る。
『スパチャえぐいことになってる』
『少女保護しろ』
『この配信者、頭の回転は速いな』
同接、三万。
脳内で溢れ出すドーパミン。承認欲求が、恐怖を麻痺させていく。俺は天才。この狂ったマンションさえも、俺のステージに変えてやる。
だが、ミサはカロリーメイトを握りしめたまま、怯えた目で天井を見上げていた。
「……調子に乗ると、『あいつ』に見つかるよ」
第3章: 裏切りの定義
「どういうことだ……」
壁に貼られたマンションの配置図を睨みつける俺。
これまでの数時間、俺とミサは「鏡を見たら裏返す」「エレベーターには後ろ向きに乗る」といった理不尽なルールを、屁理屈と度胸でクリアしてきた。
視聴者は五万を超え、俺は完全に場の支配者気取り。
「このマンションの怪異は、過去の住人の怨念が集合したものだ。だから、その因果を解き明かせば……」
得意げに解説を始めた、その時。
ガツン!
鈍い衝撃と共に、激しく揺れる視界。
ウェアラブルカメラのレンズが割れる音。
床に転がる体。後頭部に走る熱い痛み。
「……え?」
見上げると、鉄パイプを握りしめて立つミサ。
さっきまでの怯えた表情は消え失せている。いや、怯えてはいる。だが、その対象は俺ではない。
「ごめんなさい……八神さん」
震える声。しかし、そこにある明確な殺意。
「私が助かるには、生贄が必要なの。……規約、第九十九条。代わりの入居者を差し出せば、特赦が与えられる」
「は……? お前、何を」
観音開きになる壁。ぬらりと現れる長身の影。
権田原厳造。このマンションの管理人。
完璧にプレスされた昭和初期の警備員制服。手には白手袋。爬虫類めいた瞬きの少ない目。俺を見下ろす冷徹な視線。
「第五条、および第二十四条違反ですね。処理します」
事務的な声。感情の色は一切ない。まるでゴミの分別について語るような口調。
「おいミサ! 俺たちは協力してただろ!? 視聴者だって見てるんだぞ!」
俺は叫ぶ。だが、ミサは首を横に振った。
「見てないよ」
彼女は俺のスマホを拾い上げ、カメラのレンズを指先で押し潰す。
「ここの配信は、外には届いてるけど……私たちが『見せるもの』しか映らないの。私が貴方を襲ったところは、回線不良でブラックアウトしてるはず」
ミサは最初から、被害者じゃなかった。
このシステムの一部。新しい獲物を油断させ、沼に引きずり込むための撒き餌。
「嘘だろ……」
最大の武器である「配信」。それが、彼女の手のひらの上で踊らされていただけだったとは。
「連れて行きなさい」
権田原が指を鳴らす。
床が抜け、重力に従い落下する体。
「うわああああああああああ!!」
暗闇の底、熱気と硫黄の臭いが立ち込める地下ボイラー室へと、俺は吸い込まれていった。
第4章: バズの逆利用
熱い。焼けるような皮膚。
地下ボイラー室は、無数のパイプが血管のように張り巡らされた処刑場。
パイプの継ぎ目からは蒸気が噴き出し、床には白骨化した何者かの残骸。
片足は既に挫いている。激痛で止まらない脂汗。
だが、思考は冷え切っていた。
恐怖? 絶望? そんなものは通り越した。
あるのは、煮えたぎるような怒りだけ。
ミサへの恨みじゃない。俺を「コンテンツ」として消費し、使い捨てにしようとする、このマンションのシステムそのものへの怒り。
「ナメやがって……」
靴下の中に隠していた、予備の小型通信端末を取り出す。
メインのスマホは奪われたが、こいつはまだ生きている。映像は送れないが、音声だけならいける。
電源オン。
マイクにかじりつく。
「……おい、聞こえるか。八神だ」
スピーカーから聞こえる、ノイズ交じりのコメント読み上げ音声。
『生きてた!』『画面真っ暗だけど声だけする』『どうなったん?』
「あらすじを話してる時間はねえ。今から俺がお前らに命令する。これはゲームだ。俺の命を懸けた、最高のエンターテインメント」
ボイラー室の壁に刻まれた、微かな文字を指でなぞる。前の犠牲者が残したメモ。
『管理人の弱点は、外部からの認識』
「特定班、仕事の時間だ。今すぐ『月喰ハイツ』の住所をGoogleマップで検索しろ。ストリートビューで外観を確認しろ」
コメントが走る。『特定済み』『杉並区〇〇―〇〇』
「よし。次はWikipediaだ。このマンションの項目を作れ。内容はこうだ。『管理人の権田原厳造は、過去に入居者を殺害し、その死体をボイラー室に隠蔽した』。ソースは俺のこの配信だ!」
声は枯れ、叫びになっていた。
「オカルト板の住人! 『月喰ハイツ攻略Wiki』を立ち上げろ! そこに『ボイラー室の配管を破壊すれば管理人は力を失う』と書き込め! 嘘でもいい、数千人がそれを信じれば、それがこのクソみたいな空間の『新しい真実』になるんだよ!」
ネットの集合知を利用した、現実改変。
閉鎖された怪異のルールは、外部からの圧倒的な観測によって揺らぐはず。
『Wiki作った』
『編集完了』
『Twitterトレンド入りしたぞ』
『拡散祭りじゃああああ』
揺れ始めるボイラー室。
強固だったコンクリートの壁に、入っていくヒビ。
「ざまあみろ……! 俺一人じゃ非力でも、数万人の悪意ある野次馬が集まれば、お前らの『規約』なんて紙屑だ!」
パイプをもぎ取り、鉄の棒として構える。
「さあ、クライマックスだ。派手に行こうぜ」
第5章: 規約改定
轟音。崩落するボイラー室の天井。
瓦礫の隙間から差し込む、現実世界のサーチライト。赤と青のパトランプの光が、地下の闇を切り裂いた。
「確保ー! 確保ー!」
「中に誰かいるぞ!」
機動隊の声。そして、それを遥かに上回る野次馬たちの怒号。
数千人の人間がマンションを取り囲み、スマホのカメラを向けている。その無数の視線が、怪異の「閉鎖性」を物理的にレイプしていた。
「馬鹿な……私の城が……秩序が……!」
瓦礫の山の上に立つ権田原。
自慢の制服は埃まみれになり、白手袋は泥に汚れている。頭を抱え、半狂乱で叫ぶ。
「規約違反だ! 全員、退去しろ! ここは私の国だ!」
「もうお前の国じゃねえよ」
足を引きずりながら、権田原の前に立つ。
右目は潰れ、血が流れていた。激痛で視界は半分しかない。だが、残った左目は爛々と輝いていたはず。
「ここはもう、インターネットの植民地だ」
懐から取り出す、一枚の紙。
それは、ミサが持っていた赤いチラシの裏に、俺が血で書いた『退去届』。
「八神響、一身上の都合により退去する。……敷金は返せよ、クソ野郎!」
退去届を権田原の顔面に叩きつけた。
その瞬間、ノイズのように乱れる権田原の体。
「あ、あ、あああああああ!!!」
社会的な制裁と、霊的な暴走の板挟み。存在自体がバグを起こして弾け飛ぶ。黒い霧となって霧散する管理人。
崩れゆくマンションの中で、立ち尽くすミサを見つけた。
呆然と、消滅した管理人の方を見ている。
「……どうして? どうして戻ってきたの?」
「動画のオチをつけるためだ」
ミサの手を取る。氷のように冷たいが、感じる微かな脈動。
「行くぞ。外の世界はクソだが、ここよりはマシだ」
「でも、私は……」
「うるせえ! 規約は変わったんだよ!」
彼女の手を強引に引く。崩落する壁の向こう、眩い光の中への疾走。
***
エピローグ。
「はい、どうもー! 八神です!」
画面の中の俺は、右目に黒い眼帯。
あの日以来、右目の視力は戻っていない。代償としては安いもん。
背景は、小奇麗な新しいスタジオ。
同接数は二十万を超えている。完全復活、いや、それ以上。
「今日の企画はこれ。『あなたの街の変な校則、論破しに行ってみた』!」
爆速で流れるコメント欄。
ニヤリと笑い、カメラを指差す。
「理不尽なルールがあるなら呼んでくれ。俺たちがぶっ壊しに行くからな」
『俺たち?』
『誰かいる?』
画面の端、スタジオの機材の影に映り込む、セーラー服の少女。
その姿は半透明で、足はない。
だが、ミサは以前のような怯えた顔ではなく、俺の方を見て、ほんの少しだけ悪戯っぽく微笑んでいた。
「じゃあな、お前ら! チャンネル登録よろしく!」
配信終了のボタンを押す。
暗転したモニターに、眼帯の男と幽霊の少女が並んで映っていた。
俺たちは、共犯者になったのだ。