第一章 【始発駅:孤独の独白】
六畳一間、空気が腐っている。
コンビニ弁当の残骸、ぬるくなったエナジードリンクから立ち昇る甘い死臭。遮光カーテンの綻びから漏れる月光が、部屋の隅の段ボールを暴いた。「私物」と殴り書きされた文字。へし折られた鉛筆の墓標。
アオイの顔面を、液タブの蒼白だけが照らす。
充血した眼球が画面を舐める。瞬きはない。
スタイラスペンが硬質な音を立てる。カツ、カツ、カツ。深夜三時、静寂を切り裂く秒針の如く。あるいは、死神のノック。
配信開始。
タイトル『銀河特急の片道切符』。
マイクオフ。チャット非表示。彼女が求めているのは対話ではない。魂を嘔吐するための「ゴミ箱」としてのインターネットだ。
漆黒のキャンバスに、鉄の獣が顕現する。
蒸気機関車。だが、歪んでいる。煙突は絶叫する喉のように反り、車輪は何かを圧殺するために肥大していた。
『なにこれ、エグい』
『映画のコンテか?』
『線が、生きてる』
視聴者数が跳ね上がる。だが、アオイの網膜に数字は映らない。
彼女は今、釜にくべる「燃料」を描いていた。
石炭ではない。
かつて描いた少女のスケッチ。大手スタジオの社員証。幼い日の表彰状。
黒い鉄塊が、過去をバリバリと咀嚼する。炉が開くたび、画面が赫く爆ぜた。
線を引くたび、アオイの頬がこけていく。爪の間にはインクではなく、自らの皮膚を掻きむしった赤が滲んでいた。
機関車が煤煙を吐く。
崩落するビル、ひび割れた大地を置き去りに加速する。
逃走だ。アオイ自身という、耐え難い現実から。
『……おい、釜の中の絵。あれ、全部あの子の過去じゃねえか?』
『削ってるんだ。命を薪にして、こいつを走らせてる』
誰かが呟いた「美しい」という文字が、数千のディスプレイ越しに冷たい悪寒となって伝播した。
第二章 【乗車:共犯者たち】
深夜四時。世界が色を失う刻。
だが、アオイの配信画面だけが異常な熱を帯びる。
列車は疾走する。しかし、線路が尽きかけていた。
筆致が乱れる。疲労ではない、枯渇だ。燃料となる「過去」を焼き尽くし、進むための熱量が底をついた。
『落ちる』
『止まるな』
コメント欄がざわめく。傍観という安全圏からの逸脱。
一人の男が鍵盤を叩きつけた。重厚な低音が電子の海を渡り、アオイの元へ。
《燃料に使え》
一人の画家が、スキャナに自作の背景を放り込む。
極彩色の星雲。燃える花畑。
《ここを走らせろ》
アオイの手が止まる。眉間に皺が刻まれる。施しなど、唾棄すべき泥。
だが、画面の中の機関車が悲鳴を上げて減速する。このままでは虚無の谷底へ墜落する。
彼女は唇を噛み切り、鉄の味と共にデータを飲み込んだ。
轟音。
モノクロの世界で星々が炸裂する。ピアノの旋律が、車輪の軋みを荘厳なリズムへ変えた。
機関車が息を吹き返す。他者の色彩を喰らい、その車体は玉虫色に輝く鋼鉄へと変貌した。
『乗車完了』
『俺たちの色が、あの子の心臓になった』
ペンが再加速する。もはや孤独な逃避行ではない。
何千もの他人の「意志」が客車に乗り込み、彼女の背中を蹴り飛ばすように押している。
画面の向こう、アオイの表情は見えない。だがペンの動きには、拒絶と受容が入り混じった、火傷しそうな熱が宿っていた。
彼女は知らない。この退屈な夜を、革命前夜に変えてしまったことを。
第三章 【分岐点:残酷な反転】
熱狂は麻薬だ。痛覚を麻痺させ、時間を加速させる。
同接十万超。「銀河特急」はトレンドを埋め尽くした。
だが、光が強まれば影も濃くなる。
特定班がアオイの傷跡を暴いた。
有名監督のパワハラ、盗作の濡れ衣、追放、精神科への通院歴。
『これ、エンタメじゃない』
『遺書だ』
誰かが、Googleマップの航空写真と、アオイの描いた「終着駅」を重ね合わせた。
北陸、断崖絶壁。砕け散る白波。自殺の名所。
画面の中、列車が最終コーナーへ。
線路の先には、空しかない。
銀河へ飛び立つのではない。重力に従い、肉塊へと還るための線路。
『座標一致』
『到着予定、夜明け前。あと三十分』
視聴者たちが積み上げた「共創」の積み木が崩れ去る。
彼らが送った音楽も色彩も、彼女を「死」という終着点へ送り届けるための、手向けの花だった。
『止めろ!』
『描くな!』
『接続を切れ!』
阿鼻叫喚。
だが、アオイのペンは止まらない。
むしろ、その動きは神懸かり的な洗練を帯びていく。死にゆく白鳥の最後の飛翔。この完成こそが、生涯唯一の自己証明なのだから。
第四章 【暗闇のトンネル:断絶】
プツン。
配信途絶。
画面中央に『OFFLINE』の文字。背景には、あと数メートルで崖から飛び出す線路の残像。
「アオイ!」
叫びは届かない。
タイムラインはパニックに陥る。通報、無謀な捜索宣言、祈りのスタンプ。
だが、誰もが悟っていた。間に合わない。
物理的距離も、心の距離も、あまりに遠い。
暗転した画面の前で、数万人が立ち尽くす。
また「名無しの乗客」に戻るのか? 安全な客席から、悲劇の幕引きを眺めるだけの傍観者に?
否。
『ふざけるな』
一人のクリエイターが吠えた。
『ここで終わらせてたまるか』
『続きを描くぞ』
『線路がないなら、敷けばいい』
『彼女が描かないなら、俺たちが描くんだ』
銀河特急は止まらない
カオスが統率された「祈り」へ変質する。
アオイが描けなかった「その先」。死のダイブではなく、明日へ続く軌道を。
無数のイラスト、GIF、合成写真が溢れ出す。
拙い線、歪なパース。構わない。それら全てが、切断されたレールを繋ぐ「枕木」となる。
暗闇のトンネルで、数万の火花が散った。
第五章 【終着駅:継承される銀河】
北陸の海岸線。
海風がアオイの髪を鞭のように打つ。
柵の向こう、暗黒の海が口を開けていた。
スマホのバッテリー残量、2%。
震える指で画面を開く。自分の死が、どれほど美しく完結したかを確認するために。
だが、そこに映ったのは「終点」ではなかった。
配信枠が勝手に再開されている。
ハッキングではない。「ミラーリング」。何千ものユーザーが、彼女の物語をジャックしている。
あのアニメーションの続きが流れていた。
断崖絶壁、途切れた線路。
しかしその先に、光の粒子が凝縮していく。
ある若者が描いた、歪なクレヨンの橋。
ある主婦が撮った、朝焼けの雲。
ある老人が書いた、力強い毛筆の「生」。
画風はバラバラ。技術は拙劣。パッチワークのような、不格好極まりない線路。
美意識の欠片もない、混沌とした泥臭い道。
けれどそれは、どこまでも頑丈に、空の彼方へと伸びていた。
列車は落ちなかった。
数千の手によって支えられ、重力を振り切り、星の海へと駆け上がる。
汽笛が、アオイの知らない無数の「声」となって響き渡る。
『生きろ』
『次は君が、この続きを見る番だ』
「……なに、これ」
唇が震える。
美しくない。私の完璧な絶望が台無しだ。
こんな、継ぎ接ぎだらけの世界なんて。
こんな、お節介で、暑苦しくて、不揃いな他人の温もりなんて。
「……かっこ悪い……」
その場に崩れ落ちる。
アスファルトに爪を立て、慟哭する。
それは芸術家としての敗北であり、一人の人間として初めて上げる産声だった。
東の空が白む。
太陽が海面を黄金に焼き付ける。
スマホの画面がプツンと消え、黒い鏡面に、泣きじゃくるクシャクシャの顔が映った。
風が止む。
アオイは柵を掴み、ゆっくりと、こちらの世界へ足を引き戻す。
銀河特急はもう見えない。
けれど彼女の心臓は、あの機関車よりも力強く、ドク、ドク、と脈を打ち始めていた。
切符はまだ、手の中にある。