第一章 砕ける静寂
ヘルメットのバイザーを叩く音がした。
カツン、カツン、と。
もちろん、真空の月面で音が聞こえるはずがない。これは俺の脳味噌が作り出した幻聴だ。もしくは、酷使しすぎた聴覚神経の悲鳴。
「おい、カイト。酸素濃度がイエローゾーンだ。戻れ」
通信機からレインの声が響く。ノイズ混じりの、それでいて氷のように冷たい声。
「まだだ」
俺はマニピュレーターを操作し、ドリルの回転数を上げた。
「聞こえるんだよ。この下だ」
「またそのオカルトか。地質センサーは反応なしだと言っている」
「センサーは石の硬度しか測れねえだろ。俺が聞いてるのは、石の『痛み』だ」
俺には特異な共感覚がある。岩盤の歪み、空洞の共鳴、レアメタルの鉱脈が放つ微弱な磁場。それらが音として脳内に直接響くのだ。
今の音は、これまで聞いたどの鉱脈とも違った。
まるで、心臓の鼓動のような重低音。
ガガガガッ!
ドリルの先端が何か硬質なものに当たり、火花が散る様子がモニターに映る。
「ヒットだ」
「チッ……座標を送れ。回収班を回す」
俺はシートに深く沈み込み、ため息をついた。汗と再生フィルターの独特な酸っぱい匂いが鼻につく。
掘削孔の奥、舞い上がったレゴリス(月の砂)が晴れていく。
そこに露出したのは、鈍色に輝くチタンでも、白銀のプラチナでもなかった。
透き通るような、紅色の結晶。
そしてそれは、呼吸をするように明滅していた。
「……レイン、これなんだ?」
「質問は許可されていない。戻れ」
通信が切れる。明滅のリズムが、俺の動悸とシンクロしていくのを感じた。
第二章 アルテミスの嘘
月面都市『セレーネ・プライム』の第4区画は、いつだって湿気と絶望の匂いがする。
ネオンサインが「地球への片道切符、当選確率アップ中!」と虚しく点滅する路地裏のバーで、俺は合成ウイスキーを煽っていた。
「あれはヘリウム3の結晶なんかじゃない」
俺の独り言に、隣に座ったスーツ姿の女が反応する。
「声が大きいわよ、カイト」
レインだ。仕事中の冷徹なオペレーターとは別人のような、艶やかなドレス姿。だが、目は笑っていない。
「あんた、知ってるんだろ。俺たちが掘ってるものの正体を」
「資源開発。公式にはね」
彼女はグラスの縁を指でなぞる。
「でも、変だと思わない? アルテミス計画が再開されて五十年。これだけの資源を地球に送っているのに、地球のエネルギー問題は解決するどころか、貧富の差が広がるばかり」
「上の連中が懐に入れてるだけだろ」
「いいえ。資源は地球に届いていないのよ」
レインは声を潜め、端末のホログラムを俺の目の前に展開した。そこには、月の断面図が表示されている。
俺たちが掘り進めている坑道の配置。
それは、血管のようだった。
「私たちは採掘しているんじゃない。……『給油』しているのよ」
「は?」
「私たちが掘り当てたあの紅い結晶。あれは高純度の生体エネルギー凝縮体。それをパイプラインで月の核(コア)へ送っている」
俺の脳内で、あの時の鼓動音が蘇る。
ドクン、ドクン。
「月は、死んだ岩塊じゃない。休眠状態の『船』なの。アルテミス計画の真の目的は、この船を目覚めさせ……選ばれた特権階級だけを乗せて、汚染された地球を脱出すること」
「馬鹿げてる。月が船だとして、動力は?」
「あなたが今日、見つけたわ。……点火プラグを」
店内の空気が凍りついた気がした。俺の才能(イヤー)が、不協和音を捉える。
店の外。重いブーツの音。安全装置を解除する音。
「囲まれたな」
「私のせいね。でも、あなたしかいなかった。あの『声』を聞けるのは」
レインが懐から何かを取り出し、俺の手に握らせた。
「行って。中央制御室へ。点火シークエンスを止めるのよ。でなきゃ、月が動き出す際の重力崩壊で、地球は引き裂かれる」
第三章 星を喰らうもの
都市の警報が鳴り響く中、俺はメンテナンス用シャフトを這いずっていた。
脳内に響く音が、もはや轟音となって思考を塗りつぶそうとする。
『目覚めよ』
『飢えた』
『喰らわせろ』
岩の声ではない。もっと直接的な、意志を持った何かの叫び。
制御室の扉をこじ開けると、そこには全面ガラス張りの展望デッキが広がっていた。眼下に見えるのは、俺たちが掘り続けた巨大な空洞。
いや、それは空洞ではなかった。
巨大な眼球だ。
月の裏側に隠されていた大空洞には、都市一つ分ほどもある巨大な有機的な「眼」が鎮座し、無数のパイプがそこに突き刺さっていた。
「美しいだろう?」
制御コンソールの前に、白衣の男が立っていた。開発局長のミラーだ。
「カイト君、君の『聴力』は素晴らしかった。おかげで、最も活性化した神経節を見つけることができた」
「あんた……地球を見捨てる気か」
「見捨てる? 誤解だ。我々は『餌』を与えているに過ぎない」
ミラーがスイッチを押す。
ズズズズズ……。
月全体が震える。俺の足元の床が軋む。
「この船、通称『ルナ・アーク』は、有機生命体を燃料とする。だが、休眠期間が長すぎた。再起動には膨大なカロリーが必要でね」
窓の外、あの紅い結晶の輝きが増していく。
そして、俺は理解した。レインの言っていた「給油」の意味を。
パイプの中を流れているのは、エネルギー凝縮体だけじゃない。
セレーネ・プライムの居住区から、強制吸引された「何か」が流れている。
「住民を……溶かして送っているのか!?」
「リサイクルだよ。君も、その一部になる光栄を与えよう」
ミラーが銃口を向ける。
その瞬間、俺の耳にキーンという甲高い音が走った。
違う。これは警報音じゃない。
あの「眼」が、俺を見ている音だ。
俺は直感的にコンソールへ飛び込み、緊急パージボタンを殴りつけた。
「やめろ! リンクを絶てば制御不能になる!」
「知ったことかよ! 俺は、俺の耳が嫌がる音を止めるだけだ!」
ガコンッ!
パイプラインが強制解除される。行き場を失った紅い奔流が、制御室内に逆流し、ミラーを飲み込んだ。
そして、轟音と共に月が「叫んだ」。
エピローグ 蒼き墓標
静寂が戻った。
俺は、崩壊した制御室の瓦礫の上に座り込んでいた。バイザー越しに見える地球は、変わらず青く、美しく輝いている。
だが、俺の耳には聞こえていた。
月は目覚めてしまった。
制御を失った『船』は、地球を脱出するのではない。
目の前にある、最も手近で、最も豊かな有機エネルギー源――地球そのものを捕食しようとして、ゆっくりと軌道を変え始めた音を。
「……レイン、悪い」
俺はポケットから、彼女に渡された小さなデータチップを取り出し、砕いた。
「止めることはできなかった。ただ、晩飯の時間を早めただけみたいだ」
重力が歪み始める。
俺は最期に、ヘルメットの通信機能を切った。もう、どんな音も聞きたくなかったから。
目の前で、地球がゆっくりと、月の影に飲み込まれていった。