第一章 硝子細工の夏
埃の匂いが好きだった。
それは停滞の香りだ。何も変わらず、誰も老いず、ただ静寂だけが降り積もる。
路地裏の古道具屋『永遠堂』。
私の城。
「ねえ、お婆ちゃん。これ直せる?」
カラン、とドアベルが鳴り、無遠慮な声が静寂を切り裂いた。
カウンター越しに顔を上げる。
そこにいたのは、煤(すす)と油にまみれた人間の少年だった。
「……誰がお婆ちゃんだ」
私は文庫本を閉じることなく、冷ややかに答える。
見た目は十五歳の少女。けれど、瞳の奥に宿る光は三百年分の倦怠を孕んでいる。
「だって、耳。長いじゃん。エルフって何百年も生きるんだろ?」
少年は悪びれもせず、歯を見せて笑った。
その笑顔が、ひどく眩しい。
夏の陽射しをそのまま固めたような、暴力的なまでの生命力。
私はため息をつき、彼がカウンターに置いたものを一瞥する。
砕けた懐中時計だ。
「無駄よ。中のヒゲゼンマイが死んでいる。金属疲労」
「直してよ。母さんの形見なんだ」
「人間の作るものは脆い。直したそばから壊れていく。それに、私は修理屋じゃない」
追い返そうと視線を戻す。
けれど、少年は引かなかった。
「俺はレン。時計職人の見習いだ。あんたが直さないなら、俺がここで直す」
「は?」
「ここ、すごい部品がいっぱいあるから。場所貸して!」
拒絶する間もなく、レンは店の隅に座り込んだ。
以来、私の平穏は崩れ去った。
人間とは、なんと騒がしい生き物なのだろう。
彼らは秒針に追われている。
心臓という名の未熟なクロックが、一分間に何十回も鼓動を打ち、そのたびに死へと近づいていく。
「シルフィ、見て! 歯車が噛み合った!」
「……うるさい」
「シルフィ、外すごい雨だよ!」
「……知っている」
「シルフィ、笑ってよ。シワが増えるぞ」
「増えないわよ、エルフだもの」
レンは毎日やってきた。
私の店のガラクタをいじり、新しいガラクタを作り出し、そして帰っていく。
私はそれを、ただ眺めていた。
水槽の中の金魚を見るように。
あるいは、朝露が葉から落ちるのを待つように。
彼にとっての「必死の毎日」は、私にとっては「あくびが出るほどの一瞬」だ。
どうせ、すぐにいなくなる。
人間は飽きっぽいし、何より儚い。
そう思っていた。
「ねえ、シルフィ」
ある夕暮れ、レンが作業の手を止めて私を見た。
逆光で表情が見えない。
「俺さ、すげえ時計を作るよ」
「へえ。どんな?」
「あんたの時間を計れる時計」
私は鼻で笑った。
「無理ね。私の時間は、貴方たちのそれとは流れる速度が違う。貴方の一生なんて、私の季節一つ分にも満たない」
「だからさ」
レンは立ち上がり、真っ直ぐに私を指差した。
「俺が死んでも動き続けて、いつかあんたが『あ、時間が経ったな』って思えるようなやつ。俺の鼓動を、あんたの永遠に刻み込んでやる」
「……馬鹿な子」
私は再び本に視線を落とす。
けれど、文字は頭に入ってこなかった。
心臓の奥が、ほんの少しだけ騒がしかったからだ。
第二章 錆びゆく黄金
瞬きを数回した。
それだけの感覚だった。
気づけば、店の前の街路樹は五十回ほど枯れては芽吹いていたらしい。
「……ごほっ、ごほっ」
乾いた咳が店内に響く。
作業机に向かう背中は、随分と小さくなっていた。
白髪混じりの頭。
震える指先。
曲がった腰。
あの、太陽のようだった少年は、もういない。
そこにいるのは、死期を悟った一人の老人だ。
「レン、もう休めば?」
私は変わらぬ姿のまま、彼に声をかける。
声色に優しさが混じってしまったことが、自分でも不愉快だった。
レンはゆっくりと振り返る。
顔には深い皺が刻まれている。
けれど、その瞳だけは、あの夏の少年のままだった。
「まだだ……あと、少し……」
「何を作っているの? もう何十年も」
「……秘密、だ」
彼は悪戯っぽく笑おうとして、また激しく咳き込んだ。
人間は残酷だ。
勝手に私の日常に入り込み、勝手に親しくなり、そして勝手にボロボロになっていく。
「私を置いていくのね」
思わず、口をついて出た。
それはエルフとしての傲慢さではなく、ただの、独り身の少女の弱音だった。
レンは作業の手を止め、震える手で私の頬に触れた。
その手は冷たく、乾いた木の皮のようだった。
「置いていかないさ」
「嘘つき。貴方はもう、歩くのもやっとじゃない」
「身体はな。でも、俺の時間は……ここに残る」
彼は作業机の上の、大きな布に覆われた「何か」を愛おしそうに撫でた。
「シルフィ。俺が死んだら、これを動かしてくれ。でも、すぐじゃない。あんたが心から『寂しい』と思った時にだ」
「……私は寂しくなんてならない。エルフだもの」
「はは、強がりだなあ……昔から……」
その夜、レンは帰らなかった。
私の店の、あの隅っこの椅子で、眠るように息を引き取った。
私は泣かなかった。
涙は水分と塩分の排出に過ぎない。
それに、覚悟はしていた。
人間を飼うということは、その死を看取るということだ。
ハムスターが死んだ程度の悲しみ。
そう自分に言い聞かせた。
ただ、翌朝の紅茶が、泥のように不味かったことだけは覚えている。
第三章 加速する孤独
レンがいなくなってから、世界は早回しの映像のように変わっていった。
石畳はアスファルトになり、馬車は蒸気自動車へ、そして電気のリニアカーへと変わった。
レンが作った小さな時計店はビルになり、やがて取り壊され、巨大な空中庭園の一部になった。
私の店だけが、時間のエアポケットのように取り残されている。
百年。
二百年。
三百年。
私は変わらない。
鏡の中の私は、あの夏の日と同じ十五歳のままだ。
けれど、何かが磨耗していた。
「いらっしゃいませ」
客は来る。
けれど、誰も私を「シルフィ」とは呼ばない。
「変わった店主」「美少女のアンドロイド?」そんな囁き声が聞こえるだけ。
退屈だ。
世界は騒がしく、眩しく、そして薄っぺらになった。
ある雨の日。
私はふと、店の隅に置かれたままの「それ」を見た。
埃を被った布。
三百年前、レンが遺した最期の作品。
『あんたが心から寂しいと思った時に』
呪いのような言葉。
私は立ち上がり、布に手をかける。
埃が舞い、咳き込む。
寂しい?
私が?
まさか。
ただ、退屈なだけだ。
この永遠に続く無味乾燥な時間に、少しの刺激が欲しいだけ。
「……見せてみなさいよ、人間の作ったガラクタを」
布を引き剥がした。
そこにあったのは、奇妙な機械だった。
無数の歯車と、硝子の管。
そして中央には、一台の蓄音機のようなラッパがついている。
動力源が見当たらない。
けれど、台座には一つの鍵穴があった。
私は首から下げていたペンダントを手に取る。
レンが死ぬ間際に私に握らせた、小さな鍵。
「動かなかったら、墓を掘り返して文句を言ってやる」
鍵を差し込み、回した。
カチリ。
硬質な音が響く。
次の瞬間、世界が、震えた。
第四章 千年の共鳴
ゴーン……ゴーン……
重低音が響き渡る。
それは機械の音ではなかった。
ドクン、ドクン。
鼓動だ。
しかも、信じられないほど遅い。
一分間に、たった一回。
それは、長命種(エルフ)である私の心拍リズムと完全に同期していた。
機械が淡い光を帯び始める。
硝子の管の中を、黄金色の粒子が流れていく。
「……なっ」
窓の外を見た私は、息を呑んだ。
雨が、止まっている。
いや、違う。
雨粒が空中に静止している。
道を走るリニアカーも、傘をさして歩く人々も、空を飛ぶドローンも。
すべてが凍りついたように止まっていた。
世界が静止しているのではない。
私が、加速しているのだ。
『よう、シルフィ』
ラッパから、懐かしい声が流れた。
ノイズ混じりの、けれど温かい、あの少年の声。
『この声が聞こえてるってことは、あんたはようやく退屈してくれたってことかな』
「レン……?」
『エルフの時間感覚は、人間の数百倍遅いんだろ? あんたらにとって、俺たちの動きはハエみたいに忙しなく見えるはずだ』
その通りだ。
人間はいつもセカセカとして、生き急いでいた。
『だから、俺は一生かけて計算した。あんたの体感時間に、世界を合わせるための周波数を』
機械が唸りを上げる。
この装置は、周囲一帯の空間に干渉し、私の認識速度に合わせて「人間の時間を引き伸ばして」いるのだ。
『これを使えば、一時間だけ。たった一時間だけ、世界はあんたと同じ速度で歩く』
窓の外を見る。
止まっているように見えた雨粒が、極めてゆっくりと、宝石のようにきらめきながら落ちていく。
『雨の美しさも、花の散る儚さも、あんたの速度で味わってくれ。……ああ、それと』
声が、少し照れくさそうに揺れた。
『俺はもういないけど、この機械の動力は、俺の“記憶”だ。俺が一生分の時間で見てきた景色、あんたへの想い、その全てをエネルギーに変換してる』
視界が歪んだ。
私の周りに、半透明の影が現れる。
作業机に向かう若いレン。
私に笑顔を向ける中年のレン。
震える手でこの機械を組み立てる老年のレン。
三百年の時を超えて、彼が私の隣に重なる。
「馬鹿ね……こんなことのために、一生を……」
『馬鹿でいいさ。俺は、あんたの“一瞬”になりたかったんだ』
涙が溢れた。
三百年分の感情が、決壊したダムのように押し寄せる。
彼は知っていたのだ。
私が置いていかれる恐怖を。
時間のズレが生む孤独を。
だから、彼は自分の一生という「時間」を圧縮し、私へのプレゼントとして残した。
私が寂しくなった時、世界を私と同じ歩幅にして、寄り添うために。
「……遅いわよ、レン」
私は空中に浮かぶ、かつての彼の幻影に触れようと手を伸ばす。
指はすり抜けたけれど、確かな温かさを感じた。
「お婆ちゃんって呼んだら、怒るんでしょ?」
幻聴だろうか。
耳元で、悪戯っぽい囁きが聞こえた気がした。
静止した雨の中、私は初めて、心からの笑顔で泣いた。
最終章 秒針は進む
一時間の魔法は解けた。
世界は再び、忙しない速度で回り始めた。
機械は完全に沈黙し、二度と動くことはなかった。
中の部品が焼き切れ、役目を終えたのだ。
私は店の窓を開ける。
新しい風が入ってくる。
街の喧騒。
人々の足音。
かつては騒音としか思えなかったそれらが、今は愛おしい音楽のように聞こえる。
「いらっしゃいませ!」
ドアが開く音に合わせて、私は声を張り上げた。
店に入ってきた学生風の男の子が、驚いたように目を丸くする。
「え、あ、古い時計を探してるんですけど……」
「ええ、ありますよ。とびきり頑丈で、素敵な物語のある時計が」
私は笑う。
かつてのレンのような、無邪気な笑顔で。
永遠は長い。
けれど、その中にある「一瞬」の輝きを知っているなら、私はもう孤独ではない。
私の時間はゆっくりと、けれど確実に進んでいく。
彼が愛してくれた、この世界と共に。