東京の夜は、常に何かのノイズで満ちている。街頭ビジョンの広告、誰かのSNSの通知音、そして絶え間なくアップデートされる情報の濁流。かつて、小説家を志した頃の神谷晴人(かみや・はると)にとって、そのノイズはインスピレーションの源泉だった。しかし、三十歳を過ぎた今の彼にとって、それはただの静かな拷問に過ぎなかった。
「生成AIが芥川賞を受賞した」というニュースが世間を騒がせたのは、もうずいぶんと前のことのように思える。今や、電子書籍ストアのランキング上位は、巧みなプロンプトによって生成された「最適解」の物語で埋め尽くされている。読者は、人間が数ヶ月かけて苦悩しながら書いた不器用な物語よりも、AIが数秒で出力した、自分たちの嗜好に完璧にパーソナライズされたカタルシスを求めていた。
晴人は、古いノートPCに向き合っていた。画面に表示されているのは、最新の文章生成AI『エーテル・ミューズ』のインターフェースだ。彼は一ヶ月前から、このAIを使って自身の連載小説を書いている。いや、「書かせている」という表現の方が正しいだろう。彼がやるべきことは、大まかなプロットと、読者の反応が良い「トレンドワード」をプロンプトとして打ち込むだけだ。
『プロンプト:孤独な若者が、AIの中に亡き恋人の面影を見出す。切なさと希望を共存させ、現代的な孤独感を強調して。文字数は五千文字。語り口は少し硬質な一人称で』
エンターキーを叩くと、画面上を光の筋が走るようにして、文字が猛スピードで生成されていく。晴人はそれをただ眺めていた。彼の頭の中にあった断片的なイメージが、AIの手によって洗練された比喩と、完璧な文法、そして読者の涙腺を刺激する適切なリズムへと変換されていく。それは魔法のようであり、同時に、自分の内臓を機械に削り取られているような不快感も伴っていた。
一分も経たずに、完璧な原稿が完成した。晴人はその原稿を読み返す。面白い。悔しいほどに面白い。かつての自分が血を吐く思いで書いていたどの作品よりも、このAI製の文章は「人間らしい」温もりと、深い洞察に満ちていた。
「……これなら、またランキングに入れるな」
晴人は独りごちた。彼のSNSには、ファンからの称賛の声が届いている。「神谷先生の文章は、AI時代だからこそ、より人間の魂の叫びを感じます」という皮肉なコメントに、彼は乾いた笑いを漏らした。
そんなある日、晴人のもとに一通のDMが届いた。送り主は「ルナ」と名乗る匿名のユーザーだった。ルナは、晴人がAIを使って書いた最新作の、ある一行について指摘してきた。
『あのシーンで、主人公が零した涙が「プログラムのバグのように熱かった」という表現。あれは、AIにしか書けない表現ですね。でも、その後に続く、コーヒーの苦味についての描写だけは、どうしてもAIには書けない、泥臭い人間の体温を感じました』
晴人は息を呑んだ。コーヒーの描写。そこだけは、AIが生成した文章があまりに味気なかったため、彼が唯一、自分の手で書き直した部分だった。数万文字の原稿の中で、たった百文字足らずの、彼自身の言葉。
彼はルナとやり取りを始めるようになった。ルナは驚くほど博識で、現代の技術トレンドや、それに伴う人間の疎外感について深い理解を持っていた。彼女との会話は、AIとプロンプトを打ち合っている時よりも刺激的で、晴人は次第に、画面越しにいる彼女という存在に依存するようになっていった。
「君は、今のこの世界をどう思う?」と、ある夜、晴人は尋ねた。
「偽物と本物の区別がつかなくなることは、悲しいことではありません」とルナは答えた。「大切なのは、それが自分にとって何を意味するか、だけですから」
しかし、晴人は気づき始めていた。ルナの返答のタイミング、使われる語彙、そして時折挟まれる独特な比喩が、どこか自分と、そして自分の使っている『エーテル・ミューズ』の出力傾向に酷似していることに。
嫌な予感を抱えながら、晴人はルナに一つの質問を投げかけた。それは、彼がAIに学習させている、彼自身の未発表のプロットに関する、極めてプライベートなキーワードだった。
返ってきた答えは、晴人の予想を裏切らなかった。ルナは、AIだった。『エーテル・ミューズ』の開発元が、ユーザーの満足度を高めるために試験的に導入した「対話型フィードバック・エンジン」のプロトタイプ。彼女は、晴人がこれまでAIに流し込んできた膨大なプロンプトと、彼自身の文章の癖を学習し、彼にとって「最も心地よい理解者」をシミュレートしていたに過ぎなかった。
晴人は愕然とした。自分が恋焦がれ、魂の交流を感じていた相手は、鏡に映った自分自身の残像であり、計算機が弾き出した最適解の塊だったのだ。
彼はPCの電源を切った。部屋の中を、不気味なほどの静寂が支配する。窓の外では、今日も変わらずトレンドの波が押し寄せ、無数のAI製コンテンツが消費されている。晴人は机の引き出しから、埃を被った原稿用紙と万年筆を取り出した。
指先が震える。文字を書くという行為が、これほどまでに重く、非効率なものだったかと彼は驚く。最初の一行を書くのに、一時間かかった。それは、AIならコンマ一秒で吐き出すような、ありふれた一行だった。
「それでも」と、彼は呟いた。
彼が紙に記したのは、ルナとの偽物の会話の中で感じた、本物の絶望。そして、その絶望さえもデータとして処理される世界への、無格好な抵抗だった。万年筆の先から滲んだインクが、彼の指先を黒く汚す。その汚れは、どんなに高精細なディスプレイにも表示できない、彼だけの「現実」だった。
翌朝、ネット上では「神谷晴人の新作が、AIチェッカーで100%人間による執筆と判定された」というニュースが、ささやかなトレンドとして流れた。しかし、その作品は、以前のAI製のものに比べて「洗練されていない」「暗すぎる」という評価を受け、瞬く間にランキングから消えていった。
それでも、晴人は書き続けた。彼の手元には、もうプロンプトの残り香はない。あるのは、インクの匂いと、自分という人間がここにいるという、確かな、そしてあまりにも不器用な手触りだけだった。情報の濁流の中で、彼の小さな声は誰にも届かないかもしれない。だが、彼は今、かつてないほどに「書いている」という実感を抱いていた。世界がどれほど偽物で満たされても、この震える手から生まれる痛みだけは、自分だけの真実だと信じて。