第一章 モノクロームの依頼人
時枝蒼の世界から、色彩が消えて三年が経つ。
かつて相棒だった男の血がアスファルトに染み渡る光景を最後に、彼の視界は古いモノクロ映画のように、光と影、そして無限の階調を持つ灰色だけで構成されるようになった。鮮烈な赤も、澄み渡る青も、目に優しい緑も、すべては記憶の中の褪せた絵葉書に過ぎない。元刑事という肩書も、その時失った色と一緒に過去へ葬り去った。今では、埃っぽいビルの二階で「時枝探偵事務所」の看板を掲げ、退屈な日常という名の灰色の海を漂っている。
その日、事務所の曇りガラスの向こうに現れた人影は、ひどく輪郭のくっきりとした男だった。上質な黒のコートと、丁寧に整えられた濃灰色の髪。時枝にはそうとしか見えなかったが、その佇まいには、モノクロの世界にあってもなお、滲み出るような気品があった。
「時枝さん、ですね。月島蓮と申します」
男は静かな声で名乗った。彼は若手の著名な画家で、その作品は「色彩の魔術師」とまで評されているらしい。色彩を失った探偵には、なんとも皮肉な依頼人だった。
月島蓮の依頼は、失踪した妹・栞の捜索だった。警察は家出と判断し、まともに取り合ってくれなかったという。彼はテーブルの上に一枚のメモを置いた。栞が残した唯一の手がかりだ。そこには、インクの濃淡が美しい、繊細な筆跡でこう記されていた。
『お兄様、ごめんなさい。私は「色」のない世界へ行きます』
時枝の心臓が、錆びついた振り子のように小さく揺れた。色のない世界。それは、時枝が三年間閉じ込められている牢獄そのものではないか。なぜ、若い女性が自らそんな場所へ向かおうとするのか。彼の無気力な日常に、初めて微細な亀裂が入った。
「妹さんにとって、『色のない世界』とは何を意味するのでしょう?」
時枝の問いに、蓮は苦しげに顔を歪めた。
「分かりません。栞は…昔から少し、感受性が強すぎるところがありました。ですが、こんなことをするなんて」
時枝は、メモ用紙の灰色の文字を指でなぞった。他人の失踪事件に、これほど奇妙な引力を感じたのは初めてだった。それは同情でも共感でもない。自分と同じ牢獄を目指したという、栞という未知の存在への、歪んだ好奇心だった。
「分かりました。この依頼、お受けします」
時枝は、灰色の依頼請負書にサインをしながら、窓の外に広がる、のっぺりとした灰色の空を見上げた。この捜査は、自分自身の世界を覗き込むことになるのかもしれない。そんな予感が、胸の奥で冷たい煙のように渦巻いていた。
第二章 色彩の洪水と白い部屋
月島栞の部屋は、彼女の書き置きが示す世界を体現しているかのようだった。都心のお洒落なマンションの一室は、壁も、家具も、床も、すべてが真っ白に統一されていた。時枝には白と明るい灰色のグラデーションに見えるその空間は、まるで色彩そのものを拒絶しているかのような、異常なまでの潔癖さを湛えていた。生活感という名の「色」が、徹底的に削ぎ落とされている。
「栞は、いつからこんな部屋に…?」
「半年前からです。突然、持っていたものをほとんど処分してしまった。理由を訊いても、ただ『眩しすぎるから』とだけ…」
蓮の声が、静寂な部屋に虚しく響く。時枝は、ほとんど空っぽの部屋を見渡した。しかし、その無彩色な空間の中で、一点だけ、異質な存在感を放つものがあった。壁にかけられた、一枚のキャンバス。そこに描かれていたのは、一羽の鳥だった。
「…青い鳥、ですね」
蓮がぽつりと呟いた。時枝の目には、濃淡の異なる灰色で描かれた鳥にしか見えない。だが、蓮の言葉を借りるなら、その青は「夜明け前の空の最も深い場所から掬い取ってきたような、静かで、それでいて強い生命力を感じさせる青」なのだという。なぜ、彼女はすべての色を排除した部屋に、この鮮烈な「青」だけを残したのか。
栞の人間関係を洗ううち、時机は衝撃的な事実に突き当たる。彼女は「共感覚」の持ち主だった。音に色を感じ、人の感情がオーラのような色彩として見える。蓮の話によれば、幼い頃はそれを「特別な才能」として喜んでいたという。だが、成長するにつれ、その感覚は彼女を苛む呪いへと変わっていった。
街の喧騒は不協和音を奏でる暴力的な色彩の洪水となり、人々の負の感情は、彼女の視界をどす黒い絵の具で塗りつぶした。彼女にとって、世界は美しすぎ、そして同時に、あまりにも残酷な色彩で満ち溢れていたのだ。栞が純白の部屋に逃げ込んだのは、その暴力的な色彩から身を守るための、最後の砦だったのかもしれない。
捜査線上に、一人の男が浮かび上がった。調律師の、風間響。栞の恋人だった人物だ。時枝が彼の仕事場であるピアノ工房を訪ねると、風間は憔悴しきった様子で迎えた。彼は、栞の失踪について「僕のせいです。彼女の苦しみに気づいてあげられなかった」と自らを責めた。
「栞さんは、どんな方でしたか?」
「彼女は…世界で最も美しいものを見て、同時に、最も残酷なものを見ていました」
風間は、調整中のグランドピアノの鍵盤を静かに撫でながら言った。
「僕が奏でる音だけが、彼女を安らかにすると言ってくれました。僕の音には『色』がないから、と。…透明な音なのだと、彼女は笑っていました」
透明な音。色のない世界。断片的な言葉が、時枝の頭の中で不穏なパズルを組み上げていく。風間の瞳の奥には、深い悲しみとは少し違う、どこか凪いだような静けさがあった。時枝は、その灰色の瞳の奥に潜む感情の正体を、まだ掴めずにいた。
第三章 無色のレクイエム
捜査は行き詰まりを見せていた。栞の足取りは、彼女が部屋を出た日からぷっつりと途絶えている。時枝は再び、あの白い部屋を訪れた。何か見落としがあるはずだ。本棚の裏、ベッドの下、カーペットの隙間。彼は執拗に探し続け、そして、クローゼットの奥に隠された小さな木箱を見つけ出した。中に入っていたのは、一冊の古い日記帳だった。
ページをめくるたび、時枝の心は締め付けられた。そこには、色彩の洪水に溺れる魂の叫びが、インクの染みとなって刻まれていた。
『今日、街で怒鳴り声を聞いた。視界が真っ赤な棘で埋め尽くされて、息ができなかった』
『人の優しさは暖かいオレンジ色だけど、その裏にある嫉妬の緑色が透けて見えて、もう何も信じられない』
『美しいはずの夕焼けが、空が流す血のように見えて怖い。虹は、私を焼き尽くす七色の炎だ』
彼女にとって世界は、耐え難い刺激に満ちた拷問部屋だったのだ。時枝は、自らが失った色彩が、彼女にとっては絶望の源だったという事実に、言葉を失った。そして、日記の最後のページに、時枝は決定的な一文を見つけた。
『響の音だけが、優しい「無色」をくれる。彼が、私の世界から色を消してくれると言った。明日、湖へ行く。それが私の、たった一つの救い』
心臓が氷水に浸されたように冷たくなった。「色を消す」。それは、命を消すことの隠喩ではないのか。救いとは、死を意味するのか。
時枝は風間の工房へ急いだ。工房には、鎮魂歌のような静かなピアノの旋律が流れていた。時枝は、日記を突きつけ、風間を問い詰めた。
「栞さんはどこだ! あなたが彼女の世界から『色を消した』のか!」
ピアノの音が止んだ。風間はゆっくりと立ち上がると、窓の外の灰色の空を見つめ、静かに、すべてを語り始めた。
「…その通りです。私が、彼女を解放しました」
彼の告白は、時枝の予想を遥かに超えるものだった。栞は、日に日に増していく共感覚の苦痛に耐えきれず、自ら死を望んでいた。何度も自ら命を絶とうとし、その度に風間が止めてきた。だが、彼女の魂の摩耗は限界に達していた。
「彼女は言ったんです。『もう、どんな色も見たくない。響の音みたいな、静かで、透明な世界へ行きたい』と。私は…彼女を愛していました。だから、彼女の最後の望みを、叶えてあげることしかできなかった」
風間は、栞が最も安らぎを感じるという、霧深い早朝の湖畔へ彼女を連れて行った。そこで、彼女の望み通り、その命を穏やかに絶ったのだという。
「彼女は最後に、僕の腕の中で、微笑んでいました。『やっと、静かになれる』と言って。そして、穏やかな灰色の世界へ旅立って行ったんです。彼女が生まれて初めて手に入れた、安らかな『無色』の世界へ」
それは、殺人という罪の告白であると同時に、あまりにも純粋で、歪んだ愛の告白だった。時枝は、かける言葉を見つけられなかった。彼の信じてきた正義が、白と黒の単純な二元論が、足元から音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。
第四章 灰色のパレットに灯る色
風間響は、時枝の通報によって、静かに警察へ連行されていった。彼は一切抵抗せず、その表情は罪悪感というよりも、むしろ大役を終えたかのような、不思議な安堵感に満ちていた。
事件は解決した。しかし、時枝の心には、これまで経験したことのない重く、複雑な感情が渦巻いていた。彼にとって「色のない世界」は、未来も希望も奪われた喪失の象徴だった。だが、月島栞にとっては、それは焦がれてやまない救済の地だったのだ。一つの世界が、見る者によって絶望にもなれば、至福にもなる。その当たり前の事実に、彼は根底から揺さぶられた。
数日後、時枝は事務所の窓辺に立っていた。長く続いた雨が上がり、灰色の雲の切れ間から、弱々しい光が街を照らしている。彼はぼんやりと外を眺めていた。その時だった。
彼のモノクロームの世界に、信じられない光景が広がった。
西の空に、巨大な虹が架かっていた。もちろん、彼に見えるのは濃淡の違う灰色のアーチだ。栞が「私を焼き尽くす七色の炎」と恐れた、あの虹。
その灰色のアーチを眺めていた、まさにその瞬間。彼の視界の片隅で、何かが微かに瞬いた。それは、あまりにも淡く、儚い色。三年間、決して見ることのなかった、確かな色彩。
――青だ。
栞が部屋に残した、あの鳥の絵のような、夜明け前の空の最も深い場所から掬い取ってきたような、静かで、それでいて強い生命力を感じさせる「青」。それは、かつて相棒が好きだと言っていた、雨上がりの空の色でもあった。
涙が、知らずに頬を伝っていた。
世界は、まだ灰色に沈んでいる。失われた色彩がすべて戻ったわけではない。だが、その灰色のパレットに、確かに一滴の青が灯ったのだ。それは、栞が追い求めた「無色」の救済とは違う、時枝自身のかすかな希望の色だった。
喪失と救済、罪と愛、絶望と希望。世界は、単純な白と黒では到底割り切れない、無数の複雑な色彩でできている。時枝は、まだそのほとんどを見ることができない。けれど、それでいいのかもしれない。
彼は窓を開け、雨上がりの湿った空気を深く吸い込んだ。これから、少しずつ色を取り戻していくのだろう。あるいは、この淡い青一つを抱えたまま、残りの人生を歩んでいくのかもしれない。それでも、彼はもう一度、自分の足でこの世界を歩き出すことを決意した。灰色のパレットに灯った小さな青を、道標にして。