クロノ・レイヤーの弔鐘

クロノ・レイヤーの弔鐘

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第一章 硝子の地層

アスファルトの下には、歴史が眠っている。人々が忘れた約束も、流された血も、喝采も、全てが透明な硝子の地層となって、この街の足元に幾重にも重なっている。俺の名はカイ。歴史地層鑑定士。俺の仕事は、その脆い硝子を読み解くことだ。

「ここだ。『自由広場』。百年前、革命家アデルが最後の演説をした場所」

依頼主である市の歴史保存局の男が指し示す。広場の中心、敷石が数枚剥がされた地面の下には、淡い琥珀色に輝く地層――『アデルの時代』の層が剥き出しになっていた。しかし、その輝きは弱々しく、所々が砂のように崩れ、輪郭が曖昧に溶け出している。これが、近年世界中で問題になっている『歴史侵蝕』だ。

俺は膝をつき、ひび割れた地層の縁にそっと指を触れた。冷たい。まるで死期の近い生き物の肌のようだ。

「遺品は?」

「これだけです」

男が差し出したのは、錆びついた銀の懐中時計。革命家アデルが、処刑台の露と消えるその瞬間まで持っていたという代物だ。

手袋を外し、冷たい金属の感触を直接肌で受け止める。

その瞬間、世界が軋む音を立てた。

視界が白く染まり、無数の声が鼓膜を突き破る。熱狂、怒号、祈り。民衆の熱気が肌を焼き、鉄の匂いが鼻をつく。俺は広場を見下ろす演説台の上に立っていた。いや、俺は『アデル』になっていた。眼下には、未来を渇望する数万の瞳。震える手で懐中時計を握りしめ、俺は、いや『彼』は叫んだ。

「同胞よ! 我々が求めるは鎖からの解放か、安寧という名の隷属か!」

声が枯れる。だが、魂が燃えていた。そして、決断の瞬間が訪れる。背後に迫る裏切り者の刃の冷気。民衆の顔に浮かぶ絶望。それでも彼は、笑った。未来を信じて、その身を投げ出したのだ。

「――ッ!」

現実に戻った俺は、激しく息を吸い込んだ。額には脂汗が滲む。これが俺の能力であり、呪いだ。歴史上の人物の『最期の決断』だけを、五感の全てで追体験する。

ふと顔を上げると、周囲の空気が変わっていた。先ほどまでアデルの名を口にしていた局員たちの顔から、確信の色が消えている。「確か……自由のために戦った、誰かだったかな」一人が首を捻る。

足元の地層が、さらさらと音を立てて崩れていく。歴史が、今この瞬間にも世界から消えていく。俺は懐から、古びた黒曜石の砂時計を取り出した。人呼んで、『時を蝕む砂時計』。逆さまにすると、中の銀砂が重力に逆らい、下から上へと流れ始める。失われた時を、僅かな間だけ可視化する禁断の遺物。

俺は、崩壊の震源を突き止めるため、逆流する砂に全てを賭けることを決めた。

第二章 逆流する砂

歴史保存局の一室は、古い羊皮紙の匂いと、最新のモニターが放つ無機質な光が混じり合う奇妙な空間だった。

「また使ったのね、その呪いの道具」

コーヒーカップを片手に現れたのは、研究者のエラだ。彼女だけが、俺の能力とこの砂時計の秘密を知っている。

「侵蝕の速度が上がっている。もう、悠長なことは言っていられない」

「分かってる。でも、カイ。その砂時計は、観測した時間の地層を代償に、痕跡を映し出すのよ。砂が全て昇りきった時、あなたが追っていた歴史は、本当に、永遠に消える」

エラの声には、俺を案じる響きがあった。彼女の言う通りだ。この砂時計は、歴史を救うための最後の希望であり、同時に歴史を完全に破壊する刃でもある。俺たちは、消えゆく歴史の断片を燃やし、その光でさらに深い闇を照らそうとしているに過ぎない。

俺は窓の外に目をやった。高層ビルのガラスに映る街並みの、さらに奥。そこには、目には見えない幾千もの歴史の地層が眠っているはずだった。だが、今の俺には、その幾つかが欠けた、歯抜けの景色に見えた。

「それでも、やるしかない」

俺は決意を固め、机の上に置いた砂時計を逆さにした。

銀色の砂が、囁くような音を立てて、ゆっくりと上部のガラスへと昇り始める。すると、部屋の空気がゼリーのように粘性を帯び、空間が歪んだ。壁に飾られた地図の上に、青白い光の筋が糸のように現れ、ある一点へと収束していく。それは、遥か北の海域を指し示していた。

「これは……『名もなき船長』の航路……」

エラが息をのむ。かつて新大陸を発見したとされるが、船員もろとも海に消え、今やその功績さえ曖昧になっている伝説の航海士だ。彼の歴史の地層は、最も侵蝕が激しい場所の一つだった。

砂が昇るたびに、俺の脳裏から、先ほど体験したアデルの顔が少しずつ霞んでいくのを感じた。代償は、既に支払われ始めている。

第三章 忘れられた英雄

霧が深い港町だった。潮の香りと魚の臓物の匂いが混じり合い、カモメの鳴き声だけがやけに大きく響いている。人々は皆、どこか虚ろな目をしていた。まるで、大切な記憶の一部を抜き取られてしまったかのように。

「船長? ああ、そんな人もいたかねえ」

酒場の老主人は、そう言って曖昧に笑った。この港は、かつて『名もなき船長』が出航した栄光の地だったはずだ。だが今、彼の名を正確に覚えている者は誰もいなかった。

俺たちは小型の潜水艇で、港の沖合に沈む難破船の調査に向かった。砂時計が示す崩壊の中心は、この船にあるらしかった。濁った海水の中、巨大な船の骸が静かに横たわっている。その姿は、鯨の骨格標本のようにも見えた。

船倉の中から、一つの遺物を引き上げた。真鍮製の、緑青に覆われた羅針盤。俺は潜水艇の中で、それを受け取り、ゆっくりと掌に載せた。

ひやりとした感触。そして、再び時が歪む。

轟音と、叩きつけるような雨。マストが折れる寸前の悲鳴を上げている。甲板は氷のように冷たく、塩水が容赦なく体温を奪っていく。俺は船長室で、海図を睨みつけていた。周囲では、壊血病で倒れた船員たちの呻き声が聞こえる。

「船長! もう限界です! 引き返しましょう!」

「いや……進む。この先に、必ず……新しい世界がある」

彼の決断は、狂気か、それとも揺るぎない信念か。彼は震える手で羅針盤を握りしめ、未知の暗黒へと舵を切ることを命じた。その瞳には、絶望と、それでも消えない一条の希望の光が宿っていた。

意識が戻った時、俺はひどい疲労感に襲われていた。羅針盤はただの冷たい金属塊に戻っている。

「……船長の名前が、思い出せない」

俺は愕然とした。あれほど鮮明に彼の魂に触れたというのに、彼の名を示す記憶だけが、綺麗に抜け落ちている。歴史の侵蝕は、ついに俺の体験そのものにまで及んできたのだ。

恐怖が背筋を駆け上った。

第四章 時の震源

砂時計の光の糸は、今や世界中から集まり、一つの座標を指し示していた。人跡未踏の極地。凍てついた大地の下に広がる、巨大な地下洞窟。そこは、この世界の歴史地層が最初に生まれたとされる『原初の地層』が眠る場所だった。

俺とエラは、特殊な耐寒装備に身を包み、その氷の迷宮へと足を踏み入れた。洞窟の壁は、様々な時代の地層が美しいマーブル模様を描き、それ自体が壮大な芸術作品のようだった。だが、その輝きも奥へ進むにつれて弱々しくなり、やがてモノクロームの、死んだ色へと変わっていった。

そして、最深部で俺たちはそれを見た。

洞窟の中心に、巨大な黒い結晶体のような機械が鎮座していた。それは明らかにこの世界の技術ではない、未来的な意匠を凝らした装置だった。表面は脈動するように明滅し、周囲の空間を陽炎のように歪ませている。そして、足元の『原初の地層』から、光の粒子――歴史の根源そのものを、まるで掃除機のように吸い上げていた。

これが、侵蝕の正体。『歴史の消去装置』。

装置の傍らには、青白いホログラムが浮かび上がっていた。それは、流れるような未知の言語で、あるメッセージを綴っていた。エラが携帯端末で翻訳を試みる。

「『過去の罪、憎しみの連鎖、繰り返される過ち』……」

エラの声が震える。

「『我々は、この重荷から解放される権利がある。歴史とは、未来を縛る呪いだ。我々は、平和のために過去を葬る』……」

悪意ではない。むしろ、それは歪んだ善意だった。未来の人類が、自らの過去という名の亡霊から逃れるために、歴史そのものを消し去ろうとしていたのだ。敵は、歴史に絶望した、俺たちの子孫だった。

第五章 未来からの声

「止めないと……!」

エラが叫び、装置に駆け寄ろうとする。だが、見えない力場が彼女を弾き飛ばした。強力な防衛システムだ。

どうすればいい。このままでは、全ての歴史が『無』に帰す。俺は覚悟を決めた。この装置もまた、未来人が強い感情を込めて作り上げた『遺物』のはずだ。ならば、俺の能力が通じるかもしれない。

俺は力場をこじ開けるように、ゆっくりと装置へと歩み寄った。そして、脈動する黒い結晶体に、掌を押し当てた。

世界が、砕け散った。

それは、一人の人間の記憶ではなかった。何億、何十億という未来の人類の『集合的な決断』の記憶だった。彼らの世界で繰り返される戦争の映像。環境破壊によって汚染された大地。憎しみ合う人々の瞳。歴史から何も学ばず、同じ過ちを延々と繰り返す自分たちへの絶望。

『もう、たくさんだ』

『この苦しみを、子供たちに背負わせたくない』

『歴史さえなければ、我々は新しく始められる』

彼らの悲痛な叫びが、祈りが、解放への渇望が、巨大な津波となって俺の精神を飲み込もうとする。意識が引き裂かれそうになる。彼らの苦しみが、痛いほどに理解できてしまった。

第六章 番人の決断

未来人の苦悩の奔流の中で、俺はアデルの最期を、名もなき船長の決断を思い出していた。彼らは絶望的な状況の中で、それでも未来を信じた。過ちも、悲しみも、全てを引き受けた上で、次の一歩を踏み出した。

そうだ。歴史は重い。だが、その重さこそが、人間を人間たらしめているのだ。この重荷を投げ捨てた先に、本当の未来などありはしない。

「エラ……」

俺は、かろうじて意識を保ちながら振り返った。涙を浮かべて俺を見つめる彼女に、最後の言葉を告げる。

「ありがとう。あとは、俺がやる」

俺は装置のコア、最も強く光を吸い込んでいる中心部へと向かった。そして、自らの胸に手を当て、もう片方の手で再び装置に触れた。俺の能力の本質は、歴史の『決断』への同調。ならば、この『歴史を消す』という未来の決断を、俺自身の『歴史を守る』という決断で上書きする。

「うおおおおおおっ!」

俺の全身から金色の光がほとばしった。装置が拒絶反応を起こし、洞窟全体が激しく揺れる。俺の身体が、徐々に光の粒子へと分解されていくのが分かった。意識が薄れゆく中、俺は自分の魂が、崩壊しかけていた世界中の歴史の地層へと流れ込んでいくのを感じていた。これでいい。これが、俺の『最期の決断』だ。

第七章 クロノ・レイヤー

装置は、沈黙した。

世界中で侵蝕されていた歴史の地層が、まるで傷が癒えるように、次々とその輝きを取り戻していく。人々は、忘れかけていた英雄の名を、革命の詩を、再びその胸に刻み始めた。

遥か未来。人々は、突如として回帰してきた膨大な歴史の情報に打ちのめされていた。先人たちの過ち、罪、そして栄光。その全ての重みが、彼らの両肩に再びのしかかる。解放は終わった。彼らは、真の意味で未来へ歩むための、重く、しかし不可欠な荷物を背負うことになったのだ。

エラは、静まり返った洞窟に一人立っていた。装置はただのオブジェと化し、カイの姿はどこにもない。彼のものだった黒曜石の砂時計が、ころりと床に転がっているだけだった。

彼女はそれを拾い上げ、そっと指で触れた。

その瞬間、暖かな声が、直接脳裏に響いた。

『大丈夫だ、エラ。俺はここにいる。全ての時間の、全ての決断の中に。永遠に、この歴史と共に』

カイは、歴史の地層そのものになったのだ。世界から忘れられることのない、永遠の『歴史の番人』として。

エラは一粒の涙をこぼしたが、すぐにそれを拭った。そして、光を取り戻した地層が照らす洞窟の出口へと、力強く歩き出す。

歴史という、重く、しかし限りなく愛おしい未来への贈り物を、その両腕に抱きしめて。

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あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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