オーラ・アレルギーな僕と、虹色の闖入者

オーラ・アレルギーな僕と、虹色の闖入者

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***第一章 虹色オーラの特異点***

僕、灰谷奏(はいたに そう)の人生の目標は、可能な限り「凪」であることだ。感情の波風を立てず、他人の感情の荒波に巻き込まれず、水面のように静かで平坦な日々を送る。それが、僕にとっての幸福の定義だった。なぜなら、僕は物心ついた時から、他人の感情が「オーラ」として見えてしまう、実に厄介な体質だったからだ。

喜びは、シャンパンの泡のように弾ける黄金色の粒子。悲しみは、足元にまとわりつく重たい藍色の霧。怒りは、空気を歪ませるトゲトゲした深紅の陽炎。市役所の戸籍係という僕の職場は、まさに感情の坩堝だ。婚姻届を出すカップルからはピンク色の綿あめが、離婚届を出す夫婦からはヒビの入った灰色のオーラが立ち上る。僕はそれらを巧みに避け、心のシャッターを下ろし、今日も完璧な「凪」を維持していた。そう、彼女が現れるまでは。

「本日付で配属になりました、天野ひかりです!光るっていう字です!太陽みたいに周りを明るく照らせる職員になりたいです!」

その瞬間、僕の視界は暴力的なまでの色彩にジャックされた。彼女の全身から放たれるのは、単色ではない。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。七色の光が、まるでオーロラのように揺らめき、混ざり合い、僕のオフィスという小さな水槽の中で、巨大なクジラが舞い踊るように空間を席巻した。それは純粋な好奇心、希望、そして途方もない量の善意がごちゃ混ぜになった、規格外の虹色オーラだった。僕は思わず目を細め、特殊コーティングを施した(と自分に言い聞かせている)伊達メガネを指で押し上げた。間違いなく、人生で遭遇した中で最も強烈な「感情汚染源」だった。

「隣の席の灰谷さん、ですね!よろしくお願いします!」
彼女が屈託なく笑いかける。虹色のシャボン玉が、僕の周囲に築き上げた透明な防壁にパチン、パチンとぶつかっては弾けた。その度に、僕の完璧な「凪」だった心に、小さなさざ波が立つ。
「……ああ、よろしく」
僕は、壁に貼られた『冷静沈着』という標語を睨みつけながら、どうにかそれだけを絞り出した。この虹色の特異点から、いかにして距離を置くか。それが、僕の新たな、そして極めて困難なミッションの始まりだった。

***第二章 感情遮断メガネと濁った霧***

天野ひかりという存在は、僕の平穏な日常に対する組織的なテロ行為だった。彼女は、僕が築き上げた対人関係のミニマリズムを根本から破壊しにかかった。

「灰谷さん!この書類の書き方、どこがポイントですか?」
彼女の頭上では、知的好奇心を示すエメラルドグリーンの光がくるくると回転している。
「灰谷さん!さっき窓口で対応したお婆ちゃん、すごく喜んでましたね!」
彼女の周りには、共感の温かいオレンジ色の光がふわりと浮かぶ。
「灰谷さん!お昼、一緒に食べませんか?」
期待に満ちたレモンイエローのオーラが、まぶしくて直視できない。

僕は、彼女の質問には必要最低限の単語で答え、彼女の称賛は無視し、昼食の誘いは「一人で考え事をしたい」という常套句で断り続けた。しかし、彼女の虹色オーラは全く衰える気配がない。むしろ、僕の無愛想な態度をものともせず、その輝きを増しているようにすら思えた。

「灰谷さんって、クールに見えて、本当はすごく優しいですよね」
ある日の帰り際、彼女が唐突に言った。僕が、離婚届を提出し、青い悲しみの霧をまとって俯く女性に、ただ事務的にティッシュの箱を差し出したのを見ていたらしい。
「合理的配慮だ。涙で書類が濡れると困る」
「でも、箱を差し出す角度が、すごく優しかったです」
「角度に優しさなどない」
僕がそう言い捨てると、彼女は「やっぱり優しい」と呟きながら、花が咲くようなピンクと黄色のオーラをふわりと放った。僕は訳が分からず、ただ逃げるように職場を後にした。僕には、自分の感情が見えない。他人のオーラは嫌というほど見えるのに、自分自身がどんな色をしているのか、そもそも色を持っているのかさえ、知らなかった。だから、彼女の言葉の意味も、僕の胸に広がるこの奇妙な波紋の正体も、全く理解できなかった。

そんなある日、事件は起きた。庁内の重要ファイルが、保管庫から忽然と姿を消したのだ。すぐに庁内は騒然となり、疑心暗鬼の黒く濁った霧が、じわじわとオフィス全体に充満し始めた。誰もが互いを探るような視線を交わし、普段は温厚な上司たちのオーラも、焦燥感を示すどす黒い赤色に染まっている。僕は、この淀んだ空気から逃れるように、自分のデスクで息を潜めていた。関わってはいけない。僕の「凪」が、嵐に変わってしまう。

しかし、最悪の形で、僕はその嵐の中心に引きずり込まれることになる。監視カメラの映像に、最後に保管庫に入っていく天野ひかりの姿が映っていたのだ。彼女のデスクから、ファイルのインデックスシールの一部が見つかったことが、決定打となった。
「そんな…私じゃありません!」
ひかりの悲痛な声が響く。彼女を囲む人々のオーラは、疑惑の灰色と、好奇の茶色が混じり合った、醜いマーブル模様をしていた。そして、ひかり自身から放たれるオーラは。
かつて僕の視界を埋め尽くした虹色は、見る影もなかった。代わりに、彼女の周りには、光を飲み込むような、深く、冷たい漆黒の渦が生まれ始めていた。それは、僕がこれまで見たどんな悲しみや絶望よりも、濃密で、救いのない色をしていた。

***第三章 はじめて見えた黄金色***

漆黒の渦が、ひかりの存在そのものを侵食していく。彼女の肩が小さく震え、顔は青ざめていた。その光景を見た瞬間、僕の胸の奥で、何かが軋むような、鈍い痛みが走った。論理的思考が警鐘を鳴らす。「関わるな。これはお前の問題じゃない。下手に首を突っ込めば、お前の『凪』は木っ端微塵だ」と。その通りだ。僕はただの戸籍係で、探偵ではない。面倒はごめんだ。

だが、僕の足は動かなかった。視線は、消えかかった虹色の残滓と、それを飲み込もうとする漆黒の渦に釘付けになっていた。あの、鬱陶しいほどに輝いていたオーラが、消えてしまう。その事実が、なぜか耐え難いほど恐ろしかった。僕は今まで、他人の感情のオーラを、ただ避けるべき障害物としてしか見ていなかった。しかし今、初めて、そのオーラが失われることに、明確な喪失感を覚えていた。

「違う」

自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。会議室の全員の視線が、僕に突き刺さる。疑惑の灰色のオーラが、一斉に僕の方を向いた。
「天野さんは、やっていない」
根拠はない。ただ、あの虹色のオーラを放つ人間が、そんなことをするはずがないという、非論理的な確信だけがあった。

僕は、生まれて初めて、自分の意志でオーラを見ることに集中した。逃げるためじゃない。真実を見つけるために。僕は伊達メガネを外し、庁内の人々を一人一人、注意深く観察した。誰もが動揺し、オーラは濁っていたが、犯人特有の感情の色があるはずだ。それは恐怖か、あるいは達成感か。

視線が、普段は温厚で知られる五十嵐課長で止まった。彼は心配そうな顔でひかりを見つめている。彼のオーラは、表面的には同情を示す薄紫色をしていた。だが、その奥に、ほんの僅か、ヘドロのような濁った緑色の靄が、粘りつくように漂っているのが見えた。嫉妬と、自己嫌悪の色だ。新人であるひかりが企画した市民交流イベントが、大成功を収めたことを、彼は苦々しく思っていた。僕の脳裏に、課長が最近、上層部から評価が伸び悩んでいると叱責されていた光景が蘇る。

僕は、ゆっくりと五十嵐課長に歩み寄った。
「課長。ファイルが無くなった時間、課長はどちらに?」
「私かね?私は自分の席にいたはずだが…」
彼の言葉とは裏腹に、足元の緑色の靄が、濃くなった。
「そうですか。でも、妙ですね。課長のデスクのゴミ箱から、ファイルのインデックスシールと同じ紙質の、シュレッダーにかけられた紙片が見つかったら、どう説明しますか?」
完全な、ハッタリだった。だが、課長のオーラが激しく揺らぎ、緑色の靄が渦を巻いて膨れ上がったのを見て、僕は確信した。彼は動揺のあまり、証拠の隠滅を怠っていたのだ。観念した課長は、やがて全てを白状した。ひかりの才能への嫉妬心から、彼女を陥れるために犯行に及んだ、と。

ひかりの疑いは晴れた。彼女は泣きながら、僕の元へ駆け寄ってきた。
「灰谷さん…!ありがとうございます…!信じてくれて…!」
彼女の周りに、漆黒の渦を吹き飛ばすように、再び力強い虹色の光が溢れ出した。それは以前よりもさらに強く、温かい光だった。そして、その光が僕を包み込んだ瞬間、僕は信じられないものを目撃した。

僕自身の胸の中心から、一条の光が立ち上っていた。
それは、僕が今まで誰のオーラにも見たことのない、眩い、純粋な黄金色の光だった。まるで、小さな太陽がそこにあるかのように、力強く、温かく輝いていた。
これが、僕の感情…?
僕は呆然と、自分の胸から放たれる光を見つめていた。それは、達成感、安堵、そして…名付けようのない、誇らしいような、胸が熱くなるような感覚。これが、「喜び」というものなのか。生まれて初めて、僕は自分の感情の色を見た。

***第四章 この世界は案外まぶしい***

事件から数週間が経ち、僕の日常には、新しい「凪」が訪れた。それは以前のような、全ての刺激を遮断した無菌室のような静けさではなかった。風が吹き、さざ波が立ち、光が水面に反射する、生き生きとした穏やかさだった。

あの日以来、僕は自分の感情のオーラが見えるようになった。もちろん、四六時中ではない。心が大きく動いた時だけ、胸元に様々な色の光が灯る。書類の不備を見つけてイラっとした時は、チリチリと燃える小さな赤い火花が。難しい案件を無事にやり遂げた時には、誇らしげな黄金色の光が。そして、時々、理由もなく胸が締め付けられるような感覚に襲われると、淡い青色の靄が揺らめいた。

自分の感情は、思った以上に厄介で、面倒で、そして騒がしかった。しかし、不思議と嫌ではなかった。むしろ、自分が今、何を感じているのかが分かることは、暗闇の中で手に入れたコンパスのように、僕が進むべき道を照らしてくれた。

「灰谷さん、お疲れ様です。一緒に帰りませんか?」
終業後、デスクでぼんやりしていた僕に、天野ひかりが声をかけた。彼女の周りには、相変わらずキラキラとした虹色のオーラが舞っている。以前なら、そのまぶしさに目を背けていただろう。でも今は、その光を心地よく感じることができた。
「……ああ」
僕が短く答えると、彼女は花が咲くように笑った。

並んで歩く帰り道。夕日が僕たちの影を長く伸ばしている。
「灰谷さん、なんだか最近、雰囲気が変わりましたね。前より…キラキラしてるっていうか」
ひかりが不思議そうに僕の顔を覗き込む。
「気のせいだ」
僕はぶっきらぼうにそう答えながら、自分の胸元に、いくつもの小さな黄金色の光の粒が、ホタルのように生まれては消えていくのを感じていた。彼女の虹色に呼応するように。

自分の感情が見える世界は、決して平坦ではない。これから僕は、自分の中から生まれるであろう、見たくもない濁った色や、凍えるような冷たい色のオーラとも、向き合っていかなければならないのだろう。それは少し、怖い。
でも、この胸に灯る黄金色の光の温かさを、僕はもう知ってしまった。

だから、きっと大丈夫だ。
この世界は、僕が思っていたよりもずっと騒がしくて、面倒で、そして、どうしようもなくまぶしい。僕は、夕日を反射して輝くひかりの虹色のオーラと、自分の胸に灯る小さな太陽を交互に見ながら、ほんの少しだけ、口の端を緩めた。

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