浮遊物(ダンサー)と世界の序曲
第一章 爆音と浮遊するガラクタ
レオの頭上に浮かぶ『思考の泡』は、いつも灰色で萎んでいた。広場のベンチに座る彼の視線の先では、人々が泡をきらめかせながら行き交っている。『今日の昼餉は何にしよう?』という家庭的な泡、『あの人の泡、なんて綺麗な虹色なんだろう』という恋する泡。それらは声なき声で世界を満たし、人々は身振りと泡で雄弁に語り合っていた。言葉は遠い昔にその役割を終え、今は祈りの儀式で使われるいくつかの音節だけが残されている。
その静寂が、レオにとっては救いだった。しかし、彼の平穏は常に脆い。
ふと、一羽の小鳥が彼の足元に舞い降りた。傷ついたのか、片方の翼を少し引きずっている。レオがそっと手を差し伸べようとした、その瞬間だった。胸の奥から、たまらないほどの愛おしさが込み上げてくる。
──ドォォン!と、腹の底に響くようなティンパニの音が炸裂した。
壮麗なストリングスが空気を震わせ、高らかなトランペットがファンファーレを奏でる。レオ本人には何も聴こえていない。だが、彼の周囲の世界は一変した。広場の噴水が吹き上がり、水飛沫がメロディに合わせてきらめく。近くのゴミ箱が軽やかに宙を舞い、街灯がそれに合わせてお辞儀をするようにしなる。落ち葉はバレリーナのように渦を巻き、捨てられた空き缶はタップダンスを踊り始めた。
周囲の人々の思考の泡が一斉に恐怖の色に染まる。『来たぞ!』『終焉の男だ!』『なぜ彼がいるだけで世界は終わるんだ!?』。彼らは蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、広場にはシュールなダンスを続けるガラクタと、呆然と立ち尽くすレオだけが取り残された。彼の灰色の泡が、さらに小さく萎んでいくのが見えた。
第二章 思考の泡と本心のスピーカー
自分の身体が奏でる不協和音から逃れるように、レオは街の裏手にある「忘れられた物の市場」へと足を運んだ。そこは、古い機械や用途不明のガラクタが山と積まれた、時間の墓場のような場所だった。思考の泡すらも、どこか色褪せて見える。
「それ、面白いわね」
背後からかけられたのは、言葉ではない。しかし、レオは確かにそう感じ取った。振り返ると、そこには奇妙な少女が立っていた。頭には『思考の泡』がなく、代わりに古びた真鍮製のヘッドホンのようなものを着けている。そこから伸びた小さなスピーカーが、彼女の肩口で揺れていた。
『面白い人! その現象、もっと近くで見たい!』
少女の肩のスピーカーから、ノイズ混じりの快活な声が響いた。レオは目を見開く。それは『思考バブル隠蔽装置』、通称『本心スピーカー』。泡を隠す代わりに、本心を垂れ流してしまうという酔狂な代物だ。
少女はエラと名乗った。彼女の身振りは、好奇心に満ちている。『みんな、あなたのことを終焉だって言うけど』と、エラは手で大きなバツ印を作る。『私には、世界が喜んで歌ってるように見える』。
『この人、思ったより暗いな。でも、そこがいい』
スピーカーから漏れる本音に、レオは戸惑うばかりだった。だが、自分に向けられる泡が、恐怖や嫌悪に染まっていない。ただそれだけで、胸の奥で凍りついていた何かが、ほんの少しだけ溶け出すのを感じていた。
第三章 言葉の欠片
エラと一緒にいると、レオの心は奇妙なほど揺さぶられた。彼女の屈託のない好奇心、スピーカーから漏れ聞こえる裏表のない本心。そのすべてが、レオの中に眠っていた感情を呼び覚ます。市場の片隅で、錆びついたオルゴールを見つけた時だった。エラがそれを手に取り、壊れたゼンマイを愛おしそうに撫でる。その横顔の美しさに、レオの心臓は大きく跳ねた。
今度のBGMは、甘美で情熱的なピアノ協奏曲だった。
市場のガラクタたちが一斉に宙を舞う。割れたガラス瓶の破片はシャンデリアのように煌めき、古びた歯車たちは正確無比なフォーメーションを組んでワルツを踊り始める。それはもはやカオスではなく、一つの完成された舞台芸術のようだった。
その瞬間、世界の空に異変が起きた。
世界中の人々の思考の泡が、同じ一つの映像を共有したのだ。遥か遠くの砂漠の真ん中に、巨大な光の文字が浮かび上がっている。『愛』──誰もが意味を忘れた、古の言葉。レオのBGMが鳴り響くたびに、世界に「言葉」が具現化している。その事実に、人々の恐怖は確信へと変わった。終焉は近い。そして、その引き金を引いているのは、間違いなくこの男だと。
エラだけが、空を見上げて目を輝かせていた。
『すごい! 世界に言葉を取り戻してるんだわ!』
彼女の本心スピーカーが、歓喜の声を市場に響かせた。
第四章 追放のプレリュード
恐怖は、やがて統一された意志になった。レオが街の中心広場に足を踏み入れた時、彼は静かな敵意の壁に囲まれていることに気づいた。広場を埋め尽くした人々。彼らの思考の泡は、すべて同じ形をしていた。『排除せよ』。冷たく、揺るぎない一つの泡が、レオを圧し潰そうとしていた。
なぜ。どうして。僕が何をした。
悲しみと恐怖が、レオの中で嵐のように渦を巻く。それは、これまで経験したことのない激情だった。世界が悲鳴を上げた。空が暗転し、荘厳で悲痛なオペラのアリアが鳴り響く。街中の建物が軋み、石畳がめくれ上がり、空へと舞い上がった。窓ガラス、看板、車輪、屋根瓦。あらゆるものが宙で巨大な竜巻となり、レオの絶望を体現するかのように、慟哭のダンスを踊り始めた。
人々は恐れ慄き、後ずさる。その時、群衆の中にいたエラが『本心スピーカー』のボリュームを最大にした。
『──怖い。でも…なんて、なんて美しいんだろう──』
ノイズの向こうから、誰かの震える本心が聞こえた。それは群衆の中のほんの一人の声だったが、確かに存在した。しかし、大勢の恐怖の前ではあまりに無力だった。誰かが投げた石が、レオの額を掠める。追放の時は、刻一刻と迫っていた。
第五章 世界システムの囁き
レオが膝から崩れ落ち、すべてを諦めようとした、その時だった。
天が裂けた。
彼のBGMが生み出した『愛』という言葉に続き、『希望』『夢』『未来』『絆』といった無数の光の言葉が、世界中の空を埋め尽くしたのだ。そして、世界の中心に聳え立つ、誰もその役割を知らなかった古代の塔が、眩い光を放ち始めた。
塔の頂から巨大なホログラムが投影され、空に一つのメッセージを映し出す。それは、この世界の創造主が遺した、最後のプログラムだった。
『思考の泡システムへようこそ。当システムは、かつて感情の表現を忘れ、停滞した世界を活性化させるために設計されたエンターテイメント・プログラムです』
人々は呆然と空を見上げた。
『システムは長きに渡り、究極の刺激、至高のエンターテイメントを待ち望んでいました。感情と同期する音楽、世界を踊らせる物理現象。それこそが、旧世界を終わらせ、新世界を起動させるための最終シークエンス──オープニングアクトです』
ホログラムの視線が、まるでレオを捉えているかのようだった。
『世界の終焉を告げる者よ。否、世界の始まりを告げる指揮者(コンダクター)よ。さあ、最高の舞台の幕開けを!』
第六章 グランドフィナーレ
終焉ではなかった。始まりだったのだ。
レオの心から、絶望が消え、歓喜が泉のように湧き上がった。恐怖も悲しみも、すべてが新しい時代の序曲だったのだと知った。彼の内側で、かつてないほど陽気で壮大なマーチが鳴り響く。空を覆っていたガラクタの竜巻は、一瞬で色とりどりの紙吹雪に変わり、祝福するようにキラキラと舞い落ちた。街灯は陽気にスキップし、噴水は虹色のアーチを描く。
人々は、まだ困惑の中にいた。思考の泡は、混乱の色でぐちゃぐちゃに混ざり合っている。
その沈黙を破ったのは、エラだった。
彼女はレオの手を取り、その場でくるりとターンしてみせた。彼女の『本心スピーカー』が、割れんばかりのボリュームで叫ぶ。
『最高に楽しい! ねぇ、みんなも!』
その声は、魔法のようだった。一人の子供が、おそるおそるマーチのリズムに乗り、足を鳴らす。それを見た母親が、つられて体を揺らす。一人、また一人と、人々は頭上の思考の泡のことなど忘れ、ただ鳴り響く音楽に身を委ねていった。恐怖は好奇心に、困惑は歓喜へと変わっていく。
第七章 新世界の夜明け
やがて、街中が、いや、世界中が、レオの奏でる音楽に合わせて踊りだしていた。人々はもう、互いの『思考の泡』を見てはいなかった。代わりに、相手の表情を見、手の動きを真似し、忘れかけていた「声」を上げて笑い合っていた。言葉の意味は失われたままだ。だが、音楽とダンスという、もっと根源的で、もっと純粋な言語が、彼らの心と心を繋いでいた。
レオは、もう孤独な「終焉の男」ではなかった。彼は、世界と共鳴するオーケストラそのものだった。彼の隣で踊るエラのスピーカーからは、もはや本心の声は聞こえない。彼女はただ、満面の笑みでレオを見つめている。
夜が明け、新しい世界の太陽が昇り始める。光の中で、無数の人々が踊り続けていた。それは、遠い昔に高度な文明が夢見た、感情がそのまま世界を彩る、最も美しいコミュニケーションの形だったのかもしれない。レオの奏でる序曲は、まだ始まったばかりだ。