時の残響、影のゆりかご
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時の残響、影のゆりかご

第一章 影を宿す者

都市は緩やかな死の淵にいた。かつて琥珀色の輝きで満ちていた『時間の泉』は澱み、人々は自らの存在が薄れていく恐怖に喘いでいた。時間は液体のように流れ、消費され、そして枯渇していく。街角には、陽炎のように輪郭の揺らぐ人々が、失われた過去の幻影を探して彷徨っている。

俺、カイの影は、そんな都市の悲しみを吸って生きている。

俺には、他人が失った『時間』を、自らの影に一時的に宿す力があった。影は正直だ。宿した時間が喜びならば淡く広がり、悲しみならば底なしの沼のように深く沈む。今日の影は、ひときわ重く、アスファルトに粘りつくように伸びていた。

「ありがとう、カイさん」

老婆が皺の刻まれた手で俺の手を握る。その触れた箇所から、俺の影に宿っていた温かな時間の断片が、するすると老婆の中へと還っていく。それは、彼女が昨日失くしたばかりの、幼い孫と公園で過ごした午後の記憶。影が少しだけ軽くなり、俺の足取りも心なしか楽になった。これが俺の仕事、『失われた時間』の拾い屋だ。

アトリエに戻ろうとしたその時、息を切らした少女が俺の前に立ちはだかった。その瞳は切迫した光を宿し、彼女自身の存在が、今にも消え入りそうに揺らいでいた。

「カイさんですね! お願い、父を助けてください!」

少女の名はリナ。彼女の背後に伸びる影は、恐怖で細く震えている。

「父が……父の大切な時間が、ごっそりと奪われたんです」

その言葉を聞いた瞬間、俺の足元の影が、ぞくりと不吉に蠢いた。

第二章 黒曜石の囁き

リナの家は、都市の古い区画にあった。漂う空気は時間の澱みが濃く、壁の染み一つ一つに、忘れられた誰かの溜息が染み込んでいるようだった。ベッドに横たわる彼女の父親は、ほとんど透明に近かった。シーツの向こうの木目が透けて見え、その呼吸音は、遠い風の音のようにか細い。

「父さん……」

リナの悲痛な声が、静寂を震わせる。

俺は静かに父親の枕元に膝をつき、彼の周りに漂う『失われた時間』の残滓に意識を集中させた。それは、まるで凍てつく霧のようだった。俺が手を伸ばすと、その冷たい霧が俺の影に吸い込まれていく。ずしり、と魂に直接重りが乗ったかのような感覚。影は一瞬で黒さを増し、冷たい絶望の色を帯びてどっぷりと床に広がった。これまで宿したどんな悲しみよりも、深く、冷たい時間だった。

アトリエに戻った俺は、ベルベットの布に包まれた一枚の鏡を取り出した。影を映すことのない、黒曜石の鏡。だが、俺の影に宿った他者の時間をかざすと、その記憶を映し出す不思議な力を持っていた。

鏡面に、深く濃くなった俺の影を映す。

最初は砂嵐のようなノイズだけが流れていたが、やがて映像が結ばれた。リナの父親が、ふらつく足取りで都市の中央にある『大泉』へと向かっている。そして、その傍らには、人の形をしていない、巨大で揺らめく影が寄り添っていた。その影が父親に触れた瞬間、父親の身体から光の粒子が滝のように流れ出し、影の中へと吸い込まれていく。鏡から、声にならない悲鳴が聞こえた気がした。

第三章 時の墓標

「やはり、『大泉』だ」

俺の呟きに、リナは息を呑んだ。都市の生命線であるはずの大泉は、ここ数ヶ月で急速にその輝きを失い、今や枯渇の噂がまことしやかに囁かれていた。

二人で向かった大泉は、想像を絶する光景だった。かつて黄金色の時間が絶え間なく湧き出ていた場所は、巨大なクレーターのように乾ききっていた。ひび割れた底には、死んだ時間の結晶が、墓標のように点々と突き刺さっているだけ。泉の周囲には、リナの父親と同じように時間を奪われた人々の家族が集まり、虚ろな目で乾いた泉を眺めていた。

「あの影に……黒い霧のようなものに、夫の時間を吸い取られたのです」

「私の娘も……あの日から、私の顔さえ思い出せなくなって……」

集まった人々の口から語られるのは、黒曜石の鏡で見たあの巨大な影の目撃談ばかりだった。それは時間泥棒などという生易しいものではない。もっと根源的で、抗いようのない存在。俺は自分の足元に広がる、他人の悲しみを溜め込んだ影を見下ろした。この影は、彼らの絶望と繋がっている。

その夜、俺は決意を固めた。リナの父親から宿した時間の記憶が、俺を導いていた。それは恐怖だけでなく、奇妙な使命感のようなものも含まれていた。あの影の正体を突き止めなければならない。この都市が、完全に沈黙する前に。

第四章 影との対峙

リナの父親の記憶の断片が、道標となった。それは、大泉の乾いた底に隠された、古びた地下遺跡への入り口を示していた。湿った石の匂いと、遥か昔に失われた時間の残滓が空気に満ちている。俺は一人、その暗闇へと足を踏み入れた。

遺跡の最深部、広大な空洞の中央で、俺は『それ』と対峙した。

無数の影が寄り集まってできたような、揺らめく人型の存在。黒曜石の鏡で見た、あの影だ。それは一体ではなく、何体も、静かにそこに佇んでいた。彼らは集めた時間を、中央の巨大な黒曜石の石板に注ぎ込んでいるようだった。

俺の存在に気づくと、一体の影がこちらを向いた。声はない。だが、直接脳内に響くような思念が流れ込んできた。

《同類か。だが、その器はあまりに小さい》

「お前たちが時間を奪っているのか! なぜこんなことを!」

俺が叫ぶと、思念は静かに、そして明確に返ってきた。

《我々は奪ってはいない。ただ、集めているだけだ》

その言葉の意味が分からなかった。だが、影――彼らが自らを『影守(かげもり)』と名乗った――は、俺の混乱を見透かしたように続けた。

《この世界そのものが、死にかけている。時間の泉が枯渇しているのは、その兆候にすぎない。星が寿命を終えるように、世界もまた、その時間を使い果たしたのだ》

衝撃的な事実だった。彼らは悪意を持って時間を奪っていたのではない。消えゆく世界から、その最後の記憶を救い出そうとしていたのだ。人々から失われた時間は、世界の断末魔の叫びそのものだった。

第五章 世界の終焉と始まりの種

《見せてやろう。我々が集める理由を》

影守の一体が、中央の巨大な黒曜石の石板に触れるよう促した。俺がおそるおそる手を伸ばすと、石板から膨大な記憶の奔流が流れ込んできた。

それは、この世界の叙事詩だった。最初の生命が生まれ、人々が愛を育み、都市を築き、笑い、泣いた、全ての時間の記録。リナの父親が失った時間も、老婆が孫と過ごした午後の記憶も、その中できらめいていた。彼らは、この世界の全ての歴史と記憶を『失われた時間』として集め、新たな世界の『種』にしようとしていたのだ。

《この世界は、もう救えない。だが、その魂を、生きた証を、次へ繋ぐことはできる》

影守たちは、世界の葬儀を執り行う、気高くも悲しい神官のようだった。そして彼らは、俺の影にも気づいていた。

《お前の影は、我々とは異なる形で時間を保存しているな。それは純粋な記憶の器。多くの魂のゆりかごだ》

その時、ゴウ、と地鳴りのような音と共に遺跡が激しく揺れた。天井から砂がこぼれ落ち、壁の亀裂から光の粒子が漏れ出してくる。世界の終わりが、始まったのだ。都市の喧騒が遠のき、あらゆる存在が希薄になっていく感覚が、肌を粟立たせた。

第六章 最初の時間

空がガラスのように砕け散り、街並みが光の塵となって舞い上がる。終焉の光景は、恐ろしいほどに静かで、美しかった。

《さあ、選べ。我々と共に新たな世界の礎となるか。それとも、この消えゆく世界と運命を共にするか》

影守の問いかけが響く。俺の脳裏に、リナの泣き顔が、助けを求めてきた人々の顔が、そして俺の影の中で眠る無数の名もなき人々の記憶が、次々と浮かび上がった。彼らの時間は、決して無に帰してはならない。彼らが生きた証は、誰かが覚えていなくてはならない。

俺は、決意した。

「俺は、泥棒じゃない。ただの器でもない」

俺は自分の影を見つめ、静かに告げた。

「俺は、この時間を次の世界に届ける。彼らが生きた証として、この温もりを」

俺は自らの意志で、影に宿した全ての時間を解放した。それは俺の存在そのものを賭けた行為だった。影から溢れ出した無数の光の粒子――人々の喜び、悲しみ、愛、その全てが、影守たちが集めた時間の種へと注ぎ込まれていく。光は渦を巻き、一つの巨大な奔流となった。俺の身体は足元から透き通り始め、意識が急速に薄れていく。リナ、すまない。君の父親の時間は、きっと新しい世界で花開くだろう。

やがて、全てが真っ白な光に包まれた。

どれほどの時が経ったのか。俺が次に気づいた時、完全な無の中にいた。だが、孤独ではなかった。目の前に、生まれたての星のように、か弱くも温かな光が一つ、瞬いていた。

ああ、そうか。

これが、新しい世界。

そして俺は、この世界の『最初の時間』になったのだ。

俺という個の意識はもうない。だが、俺が抱きしめてきた無数の人々の記憶は、この新しい世界の最初の温もりとなり、これから生まれるであろう無数の命を、優しく包み込むゆりかごとなるだろう。

静かで、満ち足りた感覚の中、俺の物語は終わった。そして、新しい世界の物語が、今、始まった。


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