響介の不条理なシンフォニー
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響介の不条理なシンフォニー

第一章 荘厳なるチェロの崩壊

倉田響介の人生には、常に重厚なチェロ協奏曲が流れていた。それは彼の魂そのものであり、人々は彼の背後で鳴り響く荘厳な旋律に、彼の誠実さと知性を感じ取っていた。この世界では誰もが生まれながらに「人生のBGM」を持ち、その音色は個人の証明だった。響介のチェロは、彼の揺るぎない日常の象徴だった。

その日、異変は前触れもなく訪れた。

重役たちが集う、息の詰まるような会議室。上司の怒声が、張り詰めた空気をナイフのように切り裂く。原因は響介の些細なミスだった。頭を下げる彼の耳に、いつものチェロではなく、間の抜けた「ピューン…」という効果音が響いた。気のせいか、と顔を上げた瞬間、彼は決意した。この重苦しい雰囲気を打開せねば。

「よし、ここで気の利いたギャグを言おう!」

そう心に誓った刹那、世界が軋んだ。

まず、部屋の照明がディスコボールのように明滅を始め、上司のカツラがふわりと宙を舞い、スローモーションで隣の部長のコーヒーカップに着水した。

「ピチャ!」

という生々しい効果音。それを合図にしたかのように、出席者全員の椅子がドミノ倒しのように一斉に後ろへ倒れ、会議室は阿鼻叫喚の尻餅地獄と化した。床に散らばった重要書類が、まるで意思を持ったかのように竜巻状に舞い上がり、天井のプロジェクターに吸い込まれていく。

響介だけが、その中心で呆然と立ち尽くしていた。彼の背後で鳴り響くBGMは、もはやチェロ協奏曲ではなかった。それは「ドッテン!」「バターン!」「ワッハッハッハ!(録音された乾いた笑い声)」という、悪夢のような効果音メドレーだった。

第二章 半径十メートルの不協和音

あの日以来、響介の半径十メートル圏内は、常時スラップスティックコメディの舞台と化した。

道を歩けば、どこからともなく現れたバナナの皮が面白いように歩行者を滑らせる。カフェに入れば、全テーブルの砂糖がひとりでに塩と入れ替わり、客たちの悲鳴が上がる。彼の頭上では常に「テケテケテケ…(足早なBGM)」や「パフッ!(クラクションの音)」が鳴り響き、周囲の人々は最初こそ驚愕したが、やがて腹を抱えて笑うようになった。

彼の苦悩など、誰も理解しない。

恋人の美咲とのデートも、惨憺たるものだった。公園のベンチで真剣な話を切り出そうとした瞬間、彼のBGMが「アヒルの鳴き声(ガーガー!)」に切り替わり、池のアヒル全羽が陸に上がってきて響介の足元でタップダンスを始めたのだ。

「響介くん…」

美咲は笑いを堪えきれない様子で、しかしその瞳の奥には深い悲しみが揺れていた。

「あなたのチェロの音色が好きだった。静かで、優しくて…今のその音は、まるであなたじゃないみたい」

彼女の言葉が、彼の胸に突き刺さる。彼は自分自身を失ってしまったのだ。世界を笑わせるだけの、意思のない道化に成り果ててしまった。彼の人生は、誰かが書いた悪質なコメディ脚本そのものだった。

第三章 幻のカセットテープ

絶望の淵をさまよう響介の前に、それは現れた。

BGMがコミカルな効果音に変わった時だけ、彼の頭上にふわりと浮かぶ、虹色に明滅する物体。それは、どこか懐かしい形状の、カセットテープ型BGMプレイヤーだった。半透明で、物理的な干渉を一切受け付けないそれは、まるでこの世の理から外れた幻のように存在していた。

再生、早送り、巻き戻し。そして、停止ボタン。

あのボタンを押せば、この悪夢は終わるのではないか。

響介は憑かれたようにその幻影を追い始めた。手を伸ばしてもすり抜け、椅子を積み上げてよじ登っても、プレイヤーはひらりと天井近くまで上昇してしまう。彼の滑稽な挑戦は、BGMの「ドタバタ!」という効果音と相まって、周囲の野次馬たちを大いに沸かせた。人々は彼の奇行を「新しいパフォーマンスアートだ」と喝采し、SNSで拡散した。

彼は孤独だった。世界中の笑い声が、彼を独りにした。

ある夜、響介は決意した。彼は街で一番高いビルの屋上に立った。眼下には宝石をちりばめたような夜景が広がり、遠くからは他人の幸福な人生のBGMが微かに聞こえてくる。

「これで、終わらせる」

彼はフェンスを乗り越え、虚空に浮かぶプレイヤーに手を伸ばした。あの、忌まわしい停止ボタンに指をかけるために。

第四章 世界が音を失くした日

響介の指先が、停止ボタンに触れた瞬間――世界から、すべての音が消えた。

風の音も、街の喧騒も、遠くで鳴っていた救急車のサイレンも。そして、人々の人生を彩っていた無数のBGMも。すべてが、完璧な無に帰した。人々は戸惑い、自分の耳を押さえ、不安げに空を見上げた。音楽を失った世界は、まるで色のないモノクローム映画のようだった。

美咲が何かを叫びながら駆け寄ってくるのが見えた。しかし、その声は響介には届かない。彼女の顔は恐怖に歪んでいた。響介は悟った。自分一人のBGMを止めようとした結果、世界中の音楽を奪ってしまったのだと。

その、 абсолютная (アプスリュートナヤ) な静寂のなかで、声が響いた。

それは耳から聞こえる音ではなく、脳内に直接流れ込んでくるような、奇妙に陽気な声だった。

『おいおい、最高のシーンでチャンネルを変えるなよ、主役』

響介は目を見開いた。声は、彼の目の前、虹色のプレイヤーから発せられているようだった。

『いやあ、驚いた。まさか視聴者が作品に干渉してくるとはね。斬新な演出だ!』

第五章 神様のポップコーン

声の主は、自らを『音響の神』と名乗った。

曰く、この世界は無数の人生という名の「映画」で構成されており、神はそれを高次元の劇場で鑑賞するのが唯一の楽しみなのだという。

『君の人生は、最初は退屈なヒューマンドラマだった。荘厳なチェロ協奏曲。悪くはないが、ありきたりだ。だが、気づいたんだよ。君のあの生真面目な性格と、時折見せるユーモアのセンスのギャップにね』

神は楽しそうに語った。まるでポップコーンでも頬張りながら話しているかのような軽やかさで。

『だから、少し演出を変えてみた。君のBGMを効果音メドレーにしたらどうなるか、ってね。結果は大当たり!君の生真面目さが空回りすればするほど、最高のコメディが生まれる!君の人生は今や、私のお気に入りのチャンネルだ。人類史上、究極のスラップスティックコメディだよ!』

響介は戦慄した。自分の苦悩も、絶望も、孤独も、すべては神の気まぐれな娯楽のためだったというのか。

「元に戻してくれ…!頼む!」

魂からの叫びだった。しかし、神は首を横に振る気配をさせた。

『とんでもない。最高のエンターテイメントを途中で打ち切る監督がどこにいる?観客(=私)を満足させるのが、君の役目だろう?』

絶望が、響介の全身を支配した。

第六章 喜劇王のカーテンコール

神の言葉は絶対だった。響介に残された選択肢は二つ。このまま停止ボタンを押し続け、世界を永遠の無音に沈めるか。それとも、ボタンから手を離し、道化としての人生を受け入れるか。

彼は、恐怖に歪んだ美咲の顔を思い出した。音楽を失い、自分の存在理由すら見失ったかのように立ち尽くす人々の姿を思い出した。自分の悲劇のために、世界中から喜びの音色を奪う権利が、自分にあるのだろうか。

ふと、彼のハプニングで腹を抱えて笑っていた人々の顔が浮かんだ。それは、彼を嘲笑っていたのかもしれない。しかし、彼らがその瞬間、確かに笑っていたことも事実だった。

響介は、ゆっくりとプレイヤーから手を離した。

その瞬間、世界に音が戻った。街の喧騒が、人々のざわめきが、そして一人ひとりの人生のBGMが、まるで堰を切ったように溢れ出す。彼の頭上では、祝福するかのように「テッテレー!」という間の抜けたファンファーレが高らかに鳴り響いた。

彼は涙を流していた。だが、その口元は、確かに微笑んでいた。

美咲に向き直り、彼は深く息を吸った。そして、心に誓う。

「よし、ここで最高のギャグを言おう!」

その決意に応えるように、夜空から無数の色とりどりの紙吹雪と風船が、まるで祝福の雪のように舞い降りてきた。街中の人々が空を見上げ、驚き、やがて歓声を上げた。それは、誰の人生のBGMにもない、この瞬間のためだけの奇跡のシンフォニーだった。美咲もまた、涙を流しながら、心の底から笑っていた。

倉田響介の人生は、神に選ばれた壮大な喜劇。本人の意図とは無関係に、彼の行く先々で笑いの渦が巻き起こる。人々は彼を『世界一の喜劇王』と呼び、熱狂した。

彼のBGMは、今日も賑やかな効果音を奏で続けている。それが彼にとって悲劇なのか、それとも喜劇なのか。答えを知るのは、ポップコーンを片手にスクリーンを見つめる、唯一の観客だけなのかもしれない。

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