第一章 災いを呼ぶ口角
佐藤健太、32歳、市役所職員。彼の人生は、灰色の定規で引かれた一本の線のように、正確で、退屈で、そして何よりも平坦だった。所属は「市民サービス課・その他なんでも係」。住民票の写しを渡す隣の窓口が行列を作る中、健太の席には「落とし物(生もの以外)」「市営駐輪場のカラス対策について」「その他、分類不能なご相談」といった、奇妙で閑散とした案件だけが舞い込んでくる。
彼が無表情を貫くのには、理由があった。
その日も、健太は背筋を伸ばし、ディスプレイの明滅を虚無の眼差しで見つめていた。隣の席の田中先輩が、昨日見たテレビ番組の話で場を温めようと試みる。
「それでさあ、その芸人がカバのモノマネするんだけど、これが全然似てなくて!『グワッパァァ…』って、カバっていうか、風呂の栓を抜いた時みたいな音なんだよ!」
田中先輩が、喉を不自然に膨らませてその音を再現する。部署の数人が、愛想笑いの乾いた音を立てた。健太は眉一つ動かさない。笑ってはいけない。絶対に。
しかし、その時だった。田中先輩が再現した「グワッパァァ…」という音が、健太の脳のある一点を、予期せずピンポイントで刺激した。それは、幼い頃に飼っていたハムスターが、水を飲む時に立てていた音と奇跡的なまでに酷似していたのだ。記憶の扉が、錆びた蝶番の悲鳴をあげて開く。愛くるしいハムスターの姿が瞼の裏に浮かび、健太の口角が、彼の断固たる意志に反して、0.1ミリほど持ち上がった。
「フッ…」
漏れたのは、息だった。笑い声と呼ぶにはあまりに慎ましい、空気の振動。
だが、それで十分だった。
パリンッ!
鋭い破裂音と共に、オフィスの天井に並ぶ蛍光灯の一本が、まるで内側から弾けるように粉々に砕け散った。ガラスの破片が、キラキラと光を反射させながら床に降り注ぐ。
「うわっ、なんだ!?」
「またかよ、このオフィス、絶対なんかいるって!」
同僚たちが騒ぎ立てる中、健太だけが、背筋に氷の川が流れるのを感じていた。彼はゆっくりとデスクの下に潜り込み、誰にも見られないように、硬く、硬く、唇を噛みしめた。
(まただ……。また、やってしまった)
彼の笑いは、災いを呼ぶ。それは、彼が幼い頃から抱える、呪いにも似た秘密だった。
第二章 ポルターガイストと新人
その呪われたオフィスに、一人の天使、あるいは悪魔が舞い降りた。
「初めまして!本日からこちらでお世話になります、鈴木はるかと申します!趣味は人を笑わせることです!よろしくお願いしゃーす!」
太陽を無理やり人間の形に押し込んだような、眩しい笑顔の新人。彼女の配属が、健太の平坦な人生に、巨大なクレーターを穿つことになるのを、彼はまだ知らなかった。
鈴木さんは、その自己紹介通り、健太を笑わせることに異常な情熱を燃やした。
「佐藤先輩、聞いてください!布団が吹っ飛んだ、ってありますけど、じゃあマットレスが待っとれす、ってどうです?……あれ?」
健太は能面のような顔で、ただ静かにキーボードを叩き続ける。
「じゃあこれはどうです?このアメ、舐めてもいいアメ?」
無反応。しかし鈴木さんは諦めない。昼休みには、割り箸を鼻と上唇の間に挟んでアザラシの顔真似を披露し、健太が書類を取りに立ち上がれば、背後からカニ歩きでついてきた。
健太の日常は、地獄に変わった。彼は鈴木さんの予測不能な奇行から逃れるため、トイレに籠城する時間が増えた。必死に笑いを堪える彼の顔は、苦悶に歪み、赤く染まり、時折、小刻みに痙攣した。
そして、健太が笑いを堪えれば堪えるほど、オフィス内のポルターガイスト現象はエスカレートしていった。
コピー機が突然、課長の顔写真だけを延々と印刷し始めたり、シュレッダーが悲鳴のような音を立てて逆回転し、細断された紙を吐き出したり。ある時は、窓際に置かれた観葉植物のポトスが、まるで生き物のように触手を伸ばし、田中先輩のネクタイを絡め取った。
「だから言ったろ!このオフィスは呪われてるんだ!」
同僚たちの怯える声が、健太の罪悪感をナイフのように抉った。全て、自分のせいなのだ。
事件が起きたのは、ある雨の日の午後だった。
「先輩、これ、お土産です!激辛で有名な『地獄の涙せんべい』!」
鈴木さんが、邪悪な赤色をしたせんべいを、ニコニコしながら健太に差し出した。断れるはずもなかった。健太は覚悟を決め、それを口に放り込んだ。
次の瞬間、彼の舌を灼熱の鉄塊が殴りつけた。
「ッ、ーーー!!!」
声にならない絶叫が喉を突き上げる。辛い。辛いというより、痛い。生理的な涙が滝のように溢れ出し、呼吸もままならない。彼はよろめきながら給湯室へ向かい、蛇口に噛り付くようにして水を飲んだ。
ようやく落ち着き、鏡に映った自分の顔を見て、健太は凍りついた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになり、唇は明太子のように腫れ上がり、目は金魚のように飛び出している。そのあまりに滑稽な形相は、辛さの苦痛を忘れさせるほどのインパクトがあった。
それは、もはや我慢の限界を超えていた。
「ブフッ……!ゴフッ、ゲホッ、アッハッハッハ!」
一度堰を切った笑いは、もう止まらなかった。腹を抱え、涙を流しながら、健太は生まれて初めてというほどの大声で笑い続けた。
その瞬間、世界が軋む音がした。
天井に設置されていたスプリンクラーが、けたたましい警報音と共に一斉に作動したのだ。真冬の冷水が豪雨のようにオフィスに降り注ぎ、重要な書類も、最新のパソコンも、そして同僚たちの悲鳴も、全てをびしょ濡れにした。
阿鼻叫喚の地獄絵図の中心で、健太はただ一人、びしょ濡れになりながら立ち尽くしていた。そして、彼の笑い声が途絶えた時、残ったのは、絶望的な沈黙と、滴り落ちる水の音だけだった。
第三章 屋上の仙人と不器用なセーフティネット
辞表は、震える手ですぐに書き上げた。びしょ濡れのオフィスで、同僚たちの冷たい視線を浴びながら、健太は課長の元へ向かおうとした。もう、ここにはいられない。自分の存在そのものが、周囲にとっての災厄なのだ。
その時、腕を掴まれた。振り返ると、そこにいたのは、市役所の清掃員として雇われている老人だった。いつも無口で、屋上で日がな一日、空を眺めていることから、職員たちから密かに「屋上の仙人」と呼ばれている男だ。
「ついてきなさい」
仙人は、有無を言わさぬ力強さで健太の腕を引き、屋上へと続く階段を上っていった。
冷たい風が吹き付ける屋上で、仙人は眼下に広がる街を見下ろしながら、静かに口を開いた。
「お主、自分の力を呪っておるな」
「……力?これは、呪いです」
健太が絞り出すように言うと、仙人はゆっくりと首を振った。
「いいや、力じゃ。お前の佐藤家は、代々『爆笑招災』の異能を持つ一族。その笑いが持つ膨大なポジティブエネルギーが、時空の連続体に微細な亀裂を生み、物理法則を一時的に書き換えてしまうのじゃ」
健太は、何を言われているのか理解できなかった。まるで出来の悪いファンタジー小説だ。
「私が、監視者だ。お前の一族がその力を暴走させぬよう、代々見守ってきた」
仙人は続けた。「お前は、笑うことが災いを呼ぶと信じ込んでおる。だが、それは違う。むしろ、逆じゃ」
彼は健太の目を見据えて言った。
「お前が六歳の時、大笑いした拍子に居間の花瓶が割れたのを覚えておるか?」
「…はい。あの日から、僕は笑うのをやめたんです」
「あの花瓶の中には、猛毒を持つ外来種の蜘蛛が潜んでおった。もし割れていなければ、お前は咬まれていただろう」
「え……?」
「十歳の時、教室で笑って窓ガラスにヒビを入れた時は?あの日、窓の外ではトラックがスリップ事故を起こしておった。ヒビによって光が屈折し、運転手の注意をコンマ数秒だけ逸らしたおかげで、歩道に突っ込む最悪の事態を避けられたのじゃ」
健太は言葉を失った。自分の記憶の中で、忌まわしい失敗として刻まれていた出来事が、全く違う意味を持ち始めた。
「お前の力は、災いを呼ぶのではない。無意識のうちに、お主や周囲の人間を、より大きな災厄から守るための、最高に不器用なセーフティネットなのじゃよ」
仙人の言葉が、健太の心の奥深くに突き刺さった。呪いだと思っていたものは、守るための力だった。笑いを封印したことで、力のバランスが崩れ、行き場を失ったエネルギーが、ポルターガイストという形で暴発していたのだ。スプリンクラーの誤作動も、おそらくは古い配線が原因で起こり得た、より大きな漏電火災を防ぐための、最小限の被害だったのかもしれない。
「私の力は……人を、守るための…?」
健太の価値観が、ガラガラと音を立てて崩れ落ち、そして、新しい形で再構築されていく。灰色の世界に、初めて色が灯ったような感覚だった。
第四章 世界が笑う日
その時だった。市役所全体に、けたたましい緊急警報が鳴り響いた。
『緊急速報です。市役所から半径500メートル以内の地点で、大規模なガス漏れが発生。引火すれば、大規模な爆発の危険があります。付近の住民は直ちに避難してください!』
屋上から下を見下ろすと、パニックに陥った人々が右往左往しているのが見えた。このままでは、大惨事になる。
「健太よ」仙人が、厳しい顔で健太に向き直った。「今こそ、その力を使う時じゃ。中途半端な笑いではダメだ。心の底から、人生で最高の笑いを、この世界に響かせるのじゃ。お前の笑いで、奇跡を起こせ」
奇跡を。この僕が?
健太が躊躇していると、息を切らした鈴木さんが屋上に駆け込んできた。
「佐藤先輩!大丈夫ですか!?探しましたよ!」
びしょ濡れの彼女は、健太の無事を確認すると、ほっとしたように微笑んだ。そして、眼下の惨状と、健太の悲壮な表情を見て、全てを察したようだった。
彼女は一つ、深呼吸をすると、健太の前に仁王立ちになった。
「佐藤先輩!私に、任せてください!」
彼女は両の拳を固く握りしめ、天を仰ぎ、そして叫んだ。
「……イクラを食べたら、お腹イクラむ!」
「…………」
屋上に、痛々しいほどの沈黙が流れた。あまりにも、あまりにも古典的で、そして致命的に面白くないダジャレだった。
しかし、健太は、そのつまらないダジャレが、今、世界で最も尊いものに感じられた。自分を元気づけようと、必死に声を張り上げる彼女の姿。呪われたオフィスだと怯える同僚たち。屋上の仙人。そして、この街に住む人々の顔が、次々と脳裏に浮かんだ。
守りたい。
自分のこの不器用な力で、みんなを守りたい。
健太は、鈴木さんに向かって、ゆっくりと微笑んだ。それは、彼が32年間、ずっと心の奥底に封印してきた、一点の曇りもない、純粋な笑顔だった。
「あはは……」
最初は小さな笑い声だった。
「あはは、なんだよ、それ……」
だが、一度解き放たれた感情は、もう止まらなかった。
「アッハッハッハッハ!最高だよ、鈴木さん!君は、最高だ!」
健太の腹の底からの大笑いが、空気を震わせ、世界を揺るがした。空間がぐにゃりと歪み、時間の流れが蜜のように粘性を帯びる。
次の瞬間、ありえないことが起こった。
ガス漏れ現場の真上の、一点の曇りもなかったはずの空に、みるみるうちに巨大な積乱雲が形成されたのだ。そして、まるで天の意思が働いたかのように、その場所だけに、滝のような局地的な豪雨が降り注いだ。
雨はガスを瞬く間に霧散させ、引火の危険を完全に消し去った。さらに、その奇跡の雨は、近くの公園で枯れかけていた古木の桜並木に生命を吹き込み、季節外れの、満開の花を咲かせたのだった。
後日、健太は辞表を破り捨てた。「その他なんでも係」の席に戻った彼の前には、鈴木さんが置いた小さなサボテンがちょこんと乗っていた。
彼はもう、笑いを恐れない。
時折、鈴木さんの相変わらずつまらないダジャレに、くすりと笑みを漏らす。そのたびに、デスクのサボテンが、ほんの少しだけ元気を取り戻す気がした。
健太は、窓の外に広がる、季節外れの桜が舞う平和な街並みを眺める。その表情は、以前と変わらぬ真面目なものだったが、彼の心の中では、確かな温かい光が灯っていた。
笑う門には福来る。
まあ、僕の場合は、時々、時空も歪むけれど。
それもまた、悪くない人生だ。健太は心の中で、誰に言うでもなく、そう呟いた。