君と沈む世界の天秤

君と沈む世界の天秤

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第一章 浮遊する都市の追憶

僕、カイには秘密がある。誰かを本気で好きになると、その相手との距離に反比例して、僕の身体が重くなるのだ。それは比喩ではない。純然たる物理法則として、僕の存在に刻み込まれた呪いだった。だから、僕は恋を避けてきた。誰かを想うことの幸福と、地面に縫い付けられるような絶望を、天秤にかける勇気がなかった。

僕らの住むこの都市は、かつて「浮遊都市」と呼ばれていた。人々の胸に宿る「愛の総量」が、世界の重力を規定していたからだ。街角の恋人たちの囁き、家族の温かな眼差し、友への信頼。それらが満ちていた時代、人々は夢のように軽やかだった。スキップすれば数メートルは跳び、落としたハンカチは鳥のようにゆっくりと舞い落ちた。街の至る所に設置された「重力計」は、淡い薔薇色の光を放ち、「風に舞う恋文」や「午後の微睡み」といった詩的な言葉を宙に浮かべていた。

しかし、そんな日々は遠い追憶の中にしかない。いつからか都市の空気は澱み、人々の足取りは重くなった。重力計の光は色褪せ、「忘れられた約束」「罅割れた心」などと、沈黙の言葉を刻むばかりだ。

そんな灰色の日々の中で、僕は彼女、ルナに出会った。

街を見下ろす丘の上にある古い天文台。その管理人だという彼女は、埃っぽい書架の間で、まるで迷い込んだ月の光そのもののように静かに佇んでいた。銀色の髪、遠い星を映したような瞳。古びた星図を求める僕に、彼女は微笑みかけた。その瞬間、僕の心臓が大きく跳ね、そして――ずしり、と。足元のアカシアの床板が、僕の体重を受け、微かに軋む音を立てた。恋の始まりを告げる、絶望の音だった。

第二章 加算される想いの質量

ルナとの逢瀬は、甘美な毒のように僕の日常を侵食していった。天文台で交わす言葉は蜜のように甘く、彼女の隣にいる間だけ、僕は呪いを忘れることができた。彼女の指先が僕の手に触れるとき、僕の身体は嘘のように軽くなる。まるで、失われた浮遊都市の記憶が、二人だけの空間に蘇るかのようだった。

だが、幸せな時間は別れの瞬間、残酷な現実となって僕に襲いかかる。天文台の坂道を下り、彼女の姿が見えなくなった途端、質量が僕の身体に還ってくるのだ。一歩、また一歩と彼女から離れるたびに、肩に、背中に、足に、見えない鉛の塊が次々と乗せられていく。最初は小石ほどだった重さが、やがて岩塊となり、ついには僕という存在そのものを押し潰そうとする。

「カイ? どうかしたの、顔色が悪いわ」

「……いや、なんでもない。少し、考え事をしていただけだ」

息を切らし、ようやく辿り着いた自宅の扉を開ける。床に倒れ込み、荒い呼吸を繰り返す僕の耳に、街の軋む音が聞こえた。僕の想いが重くなるのと時を同じくして、世界全体の重力が増し始めていたのだ。人々は背を丸めて歩き、子供たちの笑い声は消え、街角の重力計は、ついに「星々の鎮魂歌」という絶望的な言葉を、弱々しい青白い光で灯していた。僕の恋が、この世界をゆっくりと沈めている。その恐ろしい確信が、僕の心を苛んだ。

第三章 沈みゆく世界の足音

世界の変調は、もはや誰の目にも明らかだった。アスファルトには亀裂が走り、古い建物は自重に耐えきれず悲鳴を上げる。人々は壁に手をつき、息を切らしながらでなければ坂道を登れなくなった。空は鉛色の雲に覆われ、まるで都市全体が巨大な墓石の下にいるような閉塞感が漂っていた。

僕の身体は、限界をとうに超えていた。体重は三倍にもなり、ベッドから起き上がるだけで全身の骨が軋んだ。肺は巨大な万力で締め付けられるように痛み、一呼吸ごとに鉄の味が口に広がる。ルナを想う気持ちは日増しに強くなる。それは、僕自身の肉体を破壊し、同時に世界を奈落へと引きずり込む、呪いの連鎖だった。

彼女に会いたい。しかし会えば、別れた後の絶望がさらに深まる。

彼女にこの体質のことを打ち明けたい。しかし、僕の愛が世界を滅ぼしているなどと、どうして告げられるだろうか。

罪悪感という名の重りが、僕の魂にまで食い込んでいた。愛する人がいる。その事実が、僕と、僕の世界の全てを殺そうとしている。窓の外では、重力に耐えかねた時計台の針が、ごとり、と音を立てて落下した。それはまるで、世界の終わりを告げる秒針のようだった。僕は、震える手で受話器を取り、ルナに告げた。

「今夜、天文台で会ってほしい。話したいことがあるんだ」

全てを終わらせるために。

第四章 重力均衡体の告白

命懸けで辿り着いた天文台は、不気味なほど静まり返っていた。巨大な望遠鏡が、沈黙した空へ向かって口を開けている。ドームの中央、都市中の重力計と連動する巨大なマスターゲージが、これまで見たこともない禍々しい深紅の光を放っていた。その前に、ルナは静かに立っていた。

「来たのね、カイ」

彼女の声は、いつもと同じように穏やかだった。

僕は喘ぎながら、床に膝をついた。「ルナ……僕のせいだ。この世界が沈むのは、僕が君を愛しているからだ」

僕の告白に、彼女はしかし、驚いた様子を見せなかった。ただ、悲しげに瞳を揺らすだけだった。そして、ゆっくりと真実を語り始めた。

「違うの、カイ。あなたのせいじゃない。あなたの重さは……世界の“愛の欠損”そのものなの」

ルナは、この世界の愛のバランスを保つために生まれた存在――「重力均衡体」だった。人々が育む愛をその身に吸収し、世界の重力を安定させる。それが彼女の役割。しかし、人々は次第に愛を忘れ、世界から愛は失われ続けた。彼女は、その膨大な“欠損”を一身に受け止め、かろうじて世界の崩壊を防いでいたのだという。

「私の吸収力にも、限界が来たの。世界は、愛の喪失で沈もうとしていた。そんな時、あなたに出会った」

彼女は僕の前に屈み、その冷たい指先で僕の頬に触れた。

「あなたの愛は、あまりにも純粋で、強大だった。私の器では受け止めきれず、溢れ出してしまった。あなたの身体に現れた重さは、質量じゃない。この世界から失われ、私が埋めきれなくなった“愛の空白”が、あなたという器を通して可視化されたもの。世界が助けを求める、最後の悲鳴だったのよ」

僕の罪悪感は、驚愕に変わった。僕の恋は、世界を破壊する呪いではなかった。世界が壊れていることを知らせる、唯一の警鐘だったというのか。

第五章 愛を解き放つ選択

「世界を救う方法が、一つだけある」

ルナは、決意を秘めた瞳で僕を見つめた。

「あなたのその『重さ』……純粋な愛の結晶を、世界に解き放つの。そうすれば、失われた愛が再生され、世界は再び軽やかさを取り戻せるかもしれない」

しかし、と彼女は続けた。その声は微かに震えていた。

「代償として、あなたは私個人への愛を失うわ。あなたの愛は、世界全体へと捧げられる。誰か一人を特別に想う感情は、もう二度と戻らない」

沈黙が落ちる。ルナへの愛を貫き、崩壊する世界と運命を共にするか。それとも、この愛を手放し、世界を救うか。究極の選択だった。僕の存在を内側から焼き尽くすほどの、この焦がれるような想い。これを手放すことは、僕自身の魂を半分引き剥がすことに等しい。

だが、僕はルナの瞳の奥に、彼女が一人で背負ってきた永い孤独と痛みを見た。僕はこの世界を救いたい。何よりも、彼女をその宿命から解放してあげたかった。

「……わかった」

僕は、最後の力を振り絞って立ち上がった。鉛の身体を引きずり、彼女を腕の中に抱きしめる。これが、僕がカイとして、ルナを愛する最後の瞬間。温もり、香り、柔らかな髪の感触。その全てを、この一瞬に刻み付ける。

「さよなら、ルナ」

「いいえ」と彼女は囁いた。「さようならじゃない。私たちは、ここから始まるのよ」

僕は彼女を離し、ドームの天窓へと向かった。最後の口づけを空気に残して。

第六章 軽やかな世界の片隅で

僕は天文台の頂に立ち、眼下に広がる沈黙の都市を見下ろした。そして、瞳を閉じ、意識の全てを僕の内に渦巻く「重さ」へと集中させた。それはもはや苦痛ではなく、愛おしい温もりの塊だった。ルナへの想い、その全て。

「行け」

僕がそう念じた瞬間、身体から金色の光が解き放たれた。僕という器を満たしていた愛が、光の粒子となって空へと舞い上がり、静かに、優しく、都市全体に降り注いでいく。アスファルトの亀裂は癒え、傾いた建物は元の姿を取り戻し、人々の背筋がゆっくりと伸びていくのが見えた。僕の身体は急速に軽くなり、まるで生まれて初めて重力から解放されたかのように、ふわりと宙に浮いた。

街角の重力計が一斉に輝きを取り戻す。それはもう、かつてのような薔薇色ではなかった。あらゆる色彩が混じり合った、黎明の光。そして、全ての計器が同じ一つの言葉を紡ぎ出した。

『再生』

僕の胸から、ルナという個人に向けられた焦がれるような想いは消え失せていた。その代わりに、名も知らぬ人々、道端の草花、空を流れる雲、その全てに対する穏やかで広大な愛が、静かな川のように心を満たしていた。

ふと気配を感じて振り返ると、そこにルナが立っていた。彼女もまた、重力均衡体という役割から解放され、ただ一人の女性としてそこにいた。僕らは言葉を交わさず、ただ微笑み合った。もはや恋人ではない。けれど、世界の調和を支える対の存在として、僕らの魂はかつてないほど深く結びついていた。

救われた世界で、人々は再び軽やかにステップを踏み始める。その片隅で、僕と彼女は、個人を超えた愛の形で、永遠に寄り添い続けるのだろう。それは一つの恋の終わりであり、そして、もっと大きな愛の始まりだった。

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