最期のシャッター

最期のシャッター

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第一章 硝酸銀の残り香

廃ビルの地下。

重たい鉄扉を押し開けると、鼻をつく酢酸の臭いが肺を満たす。

現像液の饐えた匂い。

ここだけ、時間が止まっている。

俺、真島ケンジは、首から下げたライカM3の感触を確かめた。

ひんやりとした金属の冷たさが、指先から心臓へと伝う。

「いらっしゃい」

声をかけるが、返事はない。

暗がりの奥、撮影用の椅子に座っているのは、濡れたような黒髪の少女だった。

肌は陶器のように白く、血管が青く透けて見える。

彼女は生きている人間ではない。

いや、ここに来る客に、生きている奴なんていないのだ。

「……綺麗に、撮ってください」

少女が口を開く。

声というより、空気の振動が直接鼓膜を揺らすような感覚。

「ああ、約束する。未練、残さずにな」

俺はファインダーを覗く。

二重像を合わせる。

ピントリングを回すと、少女の背後に、黒い靄のようなものが揺らめくのが見えた。

あれが『後悔』だ。

俺にはそれが見える。

そして、このカメラだけが、それを焼き付けることができる。

シャッターを切る瞬間、魂がフィルムに定着する。

そうすることで、彼女たちは成仏できる。

それが、俺の仕事だ。

「笑って。最期くらい」

少女の口元が、ぎこちなく歪む。

カシャン。

乾いたシャッター音が、地下室の静寂を切り裂いた。

現像液の中で、白い印画紙に像が浮かび上がる。

少女の顔。その背後の黒い靄は消え、代わりに柔らかな光が彼女を包んでいた。

成功だ。

俺は写真を封筒に入れ、少女が座っていた椅子に置く。

もう、そこには誰もいなかった。

ただ、湿った空気だけが残っている。

俺はふと、壁にかかった一枚の写真を見上げた。

ひまわり畑の中で笑う、一人の女性。

「葵……」

俺の妻。

もう二度と会えない、愛しい人。

彼女を撮ることだけが、叶わなかった。

俺が事故で死にかけたあの日、彼女もまた、行方不明になったからだ。

俺はこの写真館で、彼女が客として現れるのを待っている。

死者となって訪れる彼女を、俺の手で送り出すために。

第二章 境界線のファインダー

「先生、また客ですよ」

助手のミナトが、暗室のカーテンを開ける。

ミナトは首が無い。

正確には、首から上が黒い霧で出来ている。

バイク事故で頭を飛ばされた彼は、自分の顔を思い出せないまま、ここに居座っていた。

「次は誰だ?」

「それが……妙なんです。影が濃いというか」

ミナトの霧が不安げに揺らぐ。

スタジオに戻ると、パイプ椅子に人影があった。

コートを着た女性。

フードを目深に被り、顔が見えない。

だが、俺はその華奢な肩のラインに見覚えがあった。

心臓が、肋骨を内側から叩く。

「……葵?」

女性の肩が震えた。

ゆっくりと、彼女がフードを外す。

そこにあったのは、記憶よりも少しやつれた、けれど間違いなく愛した妻の顔だった。

「ケンジ……」

彼女の声。

温かみのある、生きた声。

俺は駆け寄ろうとして、足が止まる。

違う。

ここに来るということは、葵は死んだのだ。

俺と同じ、死者の列に加わったのだ。

絶望が、冷たい泥のように胃の腑に溜まる。

「なんで……死んだんだよ、葵」

俺の声は震えていた。

葵は泣いていた。

大きな瞳から、ぽろぽろと涙をこぼしている。

「ごめんなさい。私、どうしてもあなたに会いたくて」

「謝るなよ。俺が……俺がもっと気をつけていれば」

あの日、車のハンドルを握っていたのは俺だ。

雨のスリップ事故。

俺は助かり、葵は……。

記憶が曖昧だ。

目覚めた時、俺はこの写真館にいた。

「撮ってくれ、葵。お前の、一番綺麗な姿を」

俺はカメラを構える。

これが最後だ。

彼女を撮って、送ってやる。

それが夫としての、写真家としての、最後の務めだ。

ファインダー越しに見る葵は、震えるほど美しかった。

悲しみと、愛しさが混ざり合った表情。

「ケンジ、私……あなたを忘れない」

「俺もだ。魂になっても、忘れない」

指に力を込める。

ピントを合わせる。

だが、おかしい。

いつもの『黒い靄』が見えない。

代わりに、葵の体から、眩いほどの『生気』が溢れ出している。

どういうことだ?

「ケンジ、さようなら」

彼女が告げた瞬間。

俺はシャッターを切った。

カシャン。

その音は、いつになく重く、そして遠く響いた。

第三章 逆転の現像

現像液に浸した印画紙を、ピンセットで揺らす。

赤いセーフライトの下、像がゆっくりと浮かび上がってくる。

俺の手が震えていた。

怖い。

これを見たら、本当に葵がいなくなってしまう気がして。

だが、画像が鮮明になるにつれ、俺の目が見開かれる。

そこに写っていたのは、椅子に座る葵。

そして、その背後。

葵の肩に手を置き、半透明に透けている男。

頭から血を流し、虚ろな目でカメラを見つめる男。

それは、俺だった。

「……え?」

ピンセットが手から滑り落ちる。

カラン、と乾いた音がした。

記憶の蓋が、弾け飛ぶ。

雨の高速道路。

スピンする車体。

助手席の葵を庇って、俺はハンドルを右に切った。

潰れた運転席。

血まみれの俺。

泣き叫ぶ葵。

『嫌だ! ケンジ、死なないで!』

そうか。

死んだのは、葵じゃない。

俺だ。

俺はずっと、自分が生きていると錯覚し、この場所を作り出していた。

ここに来る客たち。

彼らは死者じゃない。

この廃ビルは心霊スポットとして有名な場所だった。

彼らは「肝試しに来た生きた人間」だったのだ。

俺には彼らが死者に見え、彼らには俺が「幽霊」として見えていた。

あの少女も、ミナトも。

そして葵も。

彼女は死んだ俺を弔うために、思い出のこの場所に来たのだ。

「そうか……俺が、地縛霊だったのか」

笑いが込み上げてくる。

涙も一緒に溢れ出す。

俺は、葵を成仏させようとしていた。

自分が成仏すべき存在だとも気づかずに。

現像された写真の中の俺は、酷く寂しそうな顔をしていたが、葵の肩に置いた手だけは、微かに光っていた。

背後のドアが開く。

光が差し込む。

そこにはもう、葵はいなかった。

けれど、床には一輪の白い菊が置かれていた。

「ありがとう、葵」

俺の体が、光の粒になって崩れていくのが分かる。

指先が消え、カメラが床に落ちる。

ゴトッ。

その音はもう、俺の耳には届かない。

視界が白く染まる中で、俺は最後に、とびきりの笑顔を作った。

写真に残る俺が、少しでも幸せそうでありますように。

さようなら、愛する人。

俺の写真は、これでおしまい。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • 真島ケンジ: 生と死の逆転に気づかずにいた写真家。妻を愛するあまり、自分が死んだという事実を無意識に拒絶し、廃ビルに留まり続けていた。カメラというフィルターを通してしか世界を認識できない哀しき幽霊。
  • : ケンジの妻。事故で生き残った側。亡き夫の気配を感じ、思い出の場所である廃ビルを訪れる。彼女の「生」の輝きが、ケンジの呪縛を解く鍵となった。
  • ミナト: 首のない助手。正体はケンジの妄想か、あるいは同じくこの場所に囚われた別の浮遊霊。彼もまた、自分を客観視できない存在のメタファーである。

【考察】

  • 写真というモチーフ: 写真は「過去を切り取る」行為であり、時間はそこで停止する。ケンジが写真に執着するのは、幸せだった過去に留まりたいという願望の現れである。
  • 逆転の構造: 冒頭で語られる「客=死者」というルールは、実はケンジの認知の歪みであった。読者はケンジの視点を通して物語を見るため、彼と同じ「錯覚」を共有することになる。
  • 「現像」の意味: 暗闇の中で像が浮かび上がる現像作業は、無意識下に押し込めていた「真実(=自分の死)」が意識の表層に浮上するプロセスの暗喩である。
この物語の「続き」を生成する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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