第一章 銀菫色の不協和音
水島湊にとって、世界は色で満ちていた。それは比喩ではない。彼は、人の感情が放つオーラを、その人固有の色として知覚する共感覚の持ち主だった。怒りは濁った緋色、喜びは弾けるような檸檬色、悲しみは深海に沈む藍色。物心ついた頃から当たり前だったその光景は、彼に人間関係の羅針盤を与えてくれたが、同時に、言葉と感情の乖離がもたらす色彩の不協和音に、人知れず疲弊させもした。
だから、橘陽太の存在は、湊にとって唯一の安息だった。
太陽と名に違わず、陽太はいつも暖かな橙色に包まれていた。裏表のない、純粋な好意と信頼の色。その安定した光は、色彩の洪水の中で溺れそうになる湊を、いつも優しく岸辺へと引き上げてくれる。キャンパスの喧騒の中、カフェの片隅、夕暮れの帰り道。どこにいても、陽太が隣にいれば、湊の世界は穏やかなグラデーションに調律されるのだ。二人は親友で、その事実は橙色のオーラによって、何よりも雄弁に証明されていた。
その絶対的な信頼が、根底から揺らいだのは、秋風が肌寒さを運び始めた十月のある日のことだった。
講義を終え、二人で並んでケヤキ並木を歩いていた時だ。陽太が何気ない冗談を言って、いつものように快活に笑った。湊もつられて笑い返そうとして、ふと、陽太を包む色に異変を感じて息を呑んだ。
いつもの暖かな橙色が、まるで薄い膜のように剥がれかかり、その内側から、見たこともない色が滲み出していたのだ。
それは、静かで、冷たい銀色だった。水銀のような重々しさと、磨き上げられた金属の無機質さを併せ持つ色。そして、その銀色の中を、まるで遠い夜空に咲く花火のように、儚い菫色がゆらゆらと明滅している。それは喜びでも悲しみでもなく、怒りでも安らぎでもない。湊が今まで蓄積してきたどの感情の色彩データにも合致しない、全く未知の色だった。
「どうした、湊? 変な顔して」
陽太が不思議そうに湊の顔を覗き込む。その瞬間、銀菫色のオーラはすっと奥へ引っ込み、再び鮮やかな橙色が彼の全身を覆った。しかし、湊には分かった。あれは幻覚ではない。陽太の内側で、確かに何かが起きている。
「……いや、なんでもない」
湊はかろうじてそう答えたが、心臓は嫌な音を立てていた。陽太の屈託のない笑顔と言葉。しかし、その内側で揺らめいていた冷たい銀と儚い菫色の残像が、網膜に焼き付いて離れない。友情という名の暖かな光に、初めて差し込んだ、鋭利な亀裂。その日を境に、湊の世界は、静かに色褪せ始めた。
第二章 灯台守の影
未知の色を目撃してからというもの、湊は陽太を観察することに神経をすり減らした。まるで初めて出会った他人を分析するように、彼の言葉の抑揚、視線の動き、指先の微かな震えまでをも追い続けた。しかし、陽太の態度はどこまでも普段通りだった。彼の口から語られるのは、相変わらず他愛のない日常と未来への楽観的な希望ばかり。その周囲を彩るのも、あの馴染み深い橙色のオーラだった。
だが、湊にはもう、その橙色を素直に信じることができなかった。一度見てしまった内側の色は、見えない時でさえ、その存在を強く主張していた。陽太が笑うたび、その笑顔の裏に冷たい銀色が潜んでいるような気がして、胸が締め付けられた。
湊は、自分の能力そのものを疑い始めた。もしかしたら、この共感覚は万能ではないのかもしれない。人の心の深淵、言葉にならない領域までは、色として捉えきれないのではないか。だとすれば、自分が今まで見てきた陽太の橙色も、彼の本質のごく一部に過ぎなかったのかもしれない。そう思い至ると、二人の間に、分厚く冷たいガラスの壁が生まれたように感じた。
疑念は湊を孤独にした。陽太に直接尋ねる勇気はない。もし「そんな色、知らない」と言われたら? もし、それが湊自身の精神的な不調の表れだとしたら? 友情が壊れることを恐れるあまり、湊は口を閉ざし、一人で悩み続けた。
そんなある日、湊は共通の友人から奇妙な話を聞いた。
「最近、陽太さ、よく一人で海の方に行ってるらしいぜ。なんでも、岬の古い灯台が気に入ったとかで」
岬の灯台。街の外れにある、今は使われていない古い建造物だ。子供の頃に一度だけ行ったことがあるが、荒涼として寂しい場所だった記憶しかない。明るく賑やかな場所を好む陽太が、なぜそんな場所に一人で?
その週末、湊は衝動に駆られて岬へ向かった。錆びた柵を越え、草の生い茂る小道を登っていくと、白亜の灯台が灰色の空を突くように佇んでいた。潮風が唸りを上げ、寂寞とした空気が肌を刺す。
遠くの岩場に、見慣れた後ろ姿があった。陽太だった。彼はただ一人、荒れ狂う海をじっと見つめている。その背中を包むオーラは、夕陽のせいか、それとも湊の心のせいか、いつもよりずっと淡い橙色に見えた。そして、その輪郭が揺らめく一瞬、確かにあの銀菫色が、陽炎のように立ち昇るのを湊は見た。
陽太は、何か大きな秘密を、あの海と灯台だけに打ち明けているのではないか。湊の胸に、嫉妬にも似た苦い感情が湧き上がった。君の一番の理解者は、僕じゃなかったのか。その問いは声にならず、冷たい潮風に攫われていった。
第三章 共鳴する魂
一週間後、湊は心を決めた。陽太が何かを隠しているのなら、それを知らなければならない。友情が偽りだったとしても、真実から目を背けている方がもっと苦しい。湊は陽太を尾行した。彼の足取りは、やはりあの岬の灯台へと向かっていた。
湊は息を殺し、灯台の分厚い扉の隙間から中を窺った。螺旋階段の薄暗い空間に、陽太が一人で立っていた。彼は壁に片手を触れ、目を閉じている。そして、誰かに語りかけるように、穏やかな声で呟いていた。
「……そうか、寒かったんだな。もう大丈夫だよ。僕が来たから」
その瞬間、ぞくりと総毛立った。陽太の全身から、あの銀菫色のオーラが奔流のように溢れ出したのだ。それはもはや滲み出るレベルではない。彼自身が発光体になったかのように、冷たい銀の光が渦を巻き、その中で無数の菫色の粒子が星屑のように煌めいていた。その光景は恐ろしくも、神々しいほどに美しかった。
湊は、もう我慢できなかった。扉を押し開け、叫んでいた。
「陽太! 一体、誰と話しているんだ!?」
陽太は弾かれたように振り返った。彼の瞳が驚きに見開かれる。全身を覆っていた銀菫色のオーラがさっと潮が引くように消え、いつもの橙色が不安定に揺らめいた。
「湊……どうしてここに……」
「その色は何なんだ! ずっと僕に隠していたことは何なんだよ!」
観念したように、陽太は深く息を吐いた。そして、湊の目を真っ直ぐに見つめ、静かに語り始めた。
「……君にだけは、知られたくなかったんだ」
陽太の告白は、湊の想像を遥かに超えるものだった。
陽太もまた、物心ついた時から特殊な能力を持っていた。湊が感情を「色」として見るのに対し、陽太は、強い孤独を抱えた「モノ」や「場所」が発する感情を、「音」や「肌触り」として受信してしまう体質だったのだ。彼は、打ち捨てられた公園のブランコが軋む悲鳴を聞き、誰にも読まれず書庫で眠る古い本の寂しさを肌で感じてしまう。
「この灯台にはね、昔、家族と離れて一人でここで暮らし、亡くなった灯台守の想いが残ってるんだ。彼の孤独が、冷たい風みたいに僕の中に流れ込んでくる。だから、時々ここに来て、彼と話してた。大丈夫だよ、一人じゃないよって」
湊は言葉を失った。では、あの銀菫色は。
「あれは、僕自身の感情じゃない。灯台守さんの感情の色なんだ。長い孤独を表す冷たい『銀色』と、僕がここに来ることで生まれる、ほんの少しの安らぎと感謝の『菫色』。それが混ざり合った色なんだよ」
陽太は、その受信による精神的な負担を湊に心配させたくなくて、ずっと隠し通してきたのだという。湊の前では、意識して、彼への友情を示す暖かな橙色の感情だけを保つように努めていた。湊が友情の証だと思っていた光は、陽太の必死の気遣いそのものだったのだ。
「ごめん、湊。君を騙すつもりはなかった。ただ、僕のこの面倒な体質で、君を悩ませたくなかったんだ」
陽太の頬を、一筋の涙が伝った。その涙の周りに、申し訳なさを表す、淡い灰色のオーラが滲んだ。
第四章 新しい友情の色
陽太の告白は、湊の世界を再構築した。自分が感じていた疑念や孤独が、いかに自己中心的で浅はかだったかを思い知らされた。陽太は騙していたのではない。守ろうとしてくれていたのだ。湊の知らない場所で、たった一人、声なき声の痛みに寄り添い続けていたのだ。
湊は、陽太の前に一歩踏み出した。
「僕の方こそ、ごめん。何も知らずに、君を疑ってた。一人で、そんな重荷を抱えさせてたなんて……」
声が震える。湊は、自分の秘密を打ち明ける時が来たと悟った。
「僕も、君に話してないことがある。僕は、人の感情が色として見えるんだ」
陽太の目が、再び驚きに見開かれた。湊は続けた。
「君の橙色は、僕にとって救いだった。でも、あの日、君から銀菫色が見えた時、僕らの友情が終わるんじゃないかって、怖くてたまらなかった。……でも、違ったんだな」
湊は、涙で滲む視界の中、必死で陽太を見つめた。
「陽太。君が受信するその色を、僕にも見せてほしい。君が聞く声を、僕にも聞かせてほしい。もう、一人で抱え込まないでくれ。それが僕の、本当の望みだ」
その言葉は、湊の心からの、混じり気のない青磁色(誠実の色)のオーラを放っていた。
陽太はしばらく黙って湊を見つめていたが、やがて、こわばっていた表情がふっと和らぎ、静かに頷いた。彼は再び灯台の冷たい壁に手を触れ、湊に「こっちへ来て」と手招きした。
湊がおそるおそる陽太の隣に立ち、彼の肩に手を置く。陽太は目を閉じ、深く集中した。
「……彼の心に、意識を合わせてみる」
すると、信じられないことが起きた。陽太の体を媒介にして、膨大な情報が、色彩となって湊の中に流れ込んできたのだ。
湊の視界は、冷たく、どこまでも広がる銀色の海に覆われた。それは、何十年という歳月をたった一人で過ごした男の、骨身に染みるような寂寞の色だった。嵐の夜の恐怖、凪いだ海の日の退屈、故郷を思う切なさ。言葉にならない感情の奔流が、湊の心を洗い流していく。溺れそうになったその時、陽太の存在を示す暖かな橙色の光が、湊を繋ぎとめる錨となった。そして、銀色の海の中心から、柔らかな菫色の光が、ゆっくりと、しかし確かに灯り始めた。それは、陽太という来訪者への、灯台守の静かな感謝と安堵の色だった。
それは、美しくも、あまりに切ない光景だった。
湊は初めて、本当の意味で他者の痛みに触れた。そして、友情とは、ただ楽しい時間を共有することではないのだと悟った。相手の抱える世界を、その痛みや秘密ごと分かち合い、共に立つこと。それが、本当の繋がりなのだと。
灯台を出た時、空はすっかり暮れ、満天の星が輝いていた。二人はどちらからともなく、並んで海岸に腰を下ろした。もう、言葉は必要なかった。
湊の目には、陽太を包むオーラがはっきりと見えていた。それは、基調となる暖かな橙色の中に、あの静かな銀色と、優しい菫色が、オーロラのように美しく混じり合い、ゆっくりと明滅していた。
湊はもう、その色を恐れはしなかった。それは、陽太が一人で背負っていた世界の痛みであり、彼の優しさの証であり、そして今、二人が共有する新しい友情の形そのものだったからだ。二人の沈黙は、世界に満ちる声なき声に寄り添う、深く穏やかな共鳴に満ちていた。