第一章 残された祝祭
腐敗したバニラエッセンスの臭いがする。
あるいは、夏の盛りに放置された生クリームか。
天野響(あまの ひびき)は、鼻腔を刺す不快な甘さに眉をひそめた。
陳腐な表現だが、この部屋には「死」よりもタチの悪い何かが充満している。
「……ひどい臭いだ。吐き気がするほど幸せそうな食卓だろう?」
背後で、刑事の工藤が紫煙を吐き出す。
その低い声には、苛立ちと微かな恐怖が滲んでいた。
アパートの一室。
埃が舞う空間で、時間は不自然に凍り付いている。
テーブルの上には、手つかずのホールケーキ。
溶け落ちた蝋燭の残骸。
極彩色のクラッカーの紙吹雪。
「神隠し、か」
響は呟く。
小説のネタにもならない。あまりに古典的で、手垢のついた言葉だ。
だが、現実は往々にして三流作家のプロットよりも理不尽だ。
響は薄いラテックスの手袋をはめ、テーブルの縁をなぞった。
――チリ、と指先が痺れる。
残留思念。
それも、脳髄を蕩かすような極上の幸福感が、腐臭を放ちながらこびりついている。
響はその感覚を、頭の中の原稿用紙に書き留めるように分析する。
(これは、ただの失踪じゃない)
視線を上げる。
壁に飾られた一枚の家族写真。
満面の笑みを浮かべる妻と娘。その横にいるはずの夫――この家の主、佐山健一の姿だけがおかしい。
顔があったはずの場所。
そこに、インク壺をぶちまけたような「黒い染み」が広がっていた。
物理的な汚れではない。
写真の『内側』、印画紙の向こう側から、世界そのものが壊疽(えそ)を起こしたように黒ずんでいる。
「鑑識は手上げだ。インクでも、カビでもない」
工藤の言葉を無視し、響は写真に顔を近づける。
黒い染み。
じっと見つめていると、その不定形な闇が、ゆっくりと収縮を繰り返しているように見えた。
まるで、獲物を品定めする瞳孔のように。
「……触るなよ、天野」
「確認しなきゃいけないんです。この文脈(プロット)が、僕の知っている物語と同じかどうか」
響は右手を伸ばした。
震える指先が、写真の縁に触れる。
瞬間。
響の網膜が、白く焼き尽くされた。
第二章 反転する楽園
*『パパ、おめでとう!』*
鈴を転がすような笑い声。
甘いケーキの味。
娘の体温、妻の柔らかい手の感触。
情報の奔流が、響の自我を押し流す。
佐山健一の「記憶」だ。
圧倒的な多幸感。脳内麻薬がドバドバと溢れ出すような、致死量の愛。
(ああ、幸せだ。苦しかったリハビリも、あの夜の悪夢も、すべてはこの瞬間のために――)
響の意識の片隅に、佐山の過去がフラッシュバックする。
一瞬だけ映り込んだカレンダーの日付。
『2014年10月15日』。
そして、赤く燃え盛るアパートの映像。
響の心臓が跳ねた。
(……同じだ)
十年前のあの日。
響が家族を失い、地獄を見た、あの大火災。
佐山もまた、あの業火の中を這いずり回った「生存者」だったのか。
だが、安堵は一瞬で裏切られる。
世界が、反転した。
甘い匂いが、鼻をつくタンパク質の焼ける臭いに変わる。
娘の笑い声が、鼓膜を裂く悲鳴へと変調する。
『――好(い)い味だ』
佐山の記憶の深淵で、何かが嗤った。
祝いの席の片隅、鏡の中に映っていた「黒い染み」。
それが人型を成し、泥のように溢れ出してくる。
佐山の歓喜は、一瞬にして絶望という名の餌になった。
積み上げた積み木を、完成直前で蹴り崩すような悪意。
一番幸せな瞬間に、一番残酷な殺し方をする。
その落差(ギャップ)こそが、奴らの食卓だ。
「が、ぁ……ッ!」
響は弾かれたように手を離し、床に崩れ落ちた。
胃液がせり上がり、激しく咳き込む。
「天野! おい、しっかりしろ!」
工藤が駆け寄り、背中を叩く。
響は荒い息の下で、脂汗にまみれた顔を上げた。
「……ハァ、ハァ……見えました……」
「何が見えた? 佐山は?」
「……食われました。物語の結末(オチ)としては、最悪のバッドエンドだ」
響はふらりと立ち上がり、窓ガラスに映る自分の顔を見つめる。
やつれた頬。充血した目。
「工藤さん。ここ数ヶ月の失踪者……全員、十年前の『あのアパート火災』の生存者でしょう」
工藤の動きが止まる。
刑事が重々しく頷くまでの数秒が、永遠のように感じられた。
「……ああ、そうだ。お前を含めて、生き残ったのは七人。そのうち五人が消えた」
「やっぱりだ。あいつは、十年かけて育てていたんだ」
地獄から這い上がり、傷を癒やし、人生を再構築して、最高に幸せになった瞬間。
完熟した果実を摘み取るように、奴は現れる。
あの日の絶望を知っているからこそ、手に入れた幸福は輝く。
「残る生存者は、あと一人」
響は、黒く塗りつぶされた写真の顔を睨みつけた。
そこにはもう、佐山の顔はない。
次なる獲物を待ち構える、飢えた闇があるだけだ。
「僕だ」
第三章 魂の座
深夜。
響は一人、実家の焼け跡に立っていた。
今は更地になり、夏草が生い茂るだけの空白地帯。
だが、響の目には見えていた。
あの日と同じ、全てを焼き尽くす紅蓮の炎が。
『ヒビキ、こっちへおいで』
『ヒビキ、幸せになろう?』
闇の底から、粘着質な声が聞こえる。
草むらの影が歪み、無数の黒い手が伸びてくる。
空間が裂け、あの「黒い染み」が実体を持って現れた。
不定形の影。
だがその中心には、かつて佐山の写真にあったのと同じ、貪欲な虚無が渦巻いている。
『お前の幸福を寄越せ。お前の中に隠している、一番綺麗な記憶(あじ)を』
影が襲い掛かる。
物理的な衝撃ではない。魂を直接レイプされるような不快感。
響の脳裏に、厳重に封印していた記憶が引きずり出される。
火事になる直前。
母が焼いたクッキーの香ばしい匂い。父の大きな背中。妹の拙いピアノ。
響が作家としての感性を総動員して守り続け、一行たりとも描写することを拒んだ「聖域」。
「……そうか。それが欲しいのか」
響は、あえて抵抗を緩めた。
影が歓喜に震え、響の精神世界(聖域)へと侵入してくる。
美しい思い出が、黒く侵食されていく。
母の笑顔に、黒い亀裂が走る。
今だ。
「食えるものなら、食ってみろ」
響は意識を集中させる。
幸福な記憶の、さらに奥底。
「聖域」の床下に隠していた、焼け焦げた地下室の扉を蹴り開けた。
『な、なにを……!?』
影の狼狽した声。
響が解放したのは、幸福な記憶ではない。
その幸福が失われる瞬間の、最も鮮烈で、最も残酷な「火傷」の記憶だ。
皮膚が焼ける音。
助けを求める妹の絶叫。
崩れ落ちる柱。
響自身のトラウマそのものを、燃料として注ぎ込む。
「僕の幸福は、この地獄とセットだ。切り離せると思うなよ」
毒をもって毒を制す。
響の精神世界が一気に発火した。
『あ、アァァァッ! 熱い、熱いッ!』
幸福を貪るはずだった影が、業火の記憶に焼かれてのたうち回る。
響の脳髄もまた、灼熱に苛まれた。
自らの傷口を広げ、塩を塗り込むような激痛。
だが、響は笑った。
痛みこそが、生の実感だ。
「逃がさない。お前は、僕の記憶の中で永遠に燃え続けろ」
響はイメージする。
この炎上する記憶ごと、精神の檻を閉ざす。
怪物を、自分の物語(記憶)の一部として取り込み、永久に消化し続ける。
右目が、焼け付くように熱い。
視界が赤く染まり、やがて闇に溶けていった。
***
「……天野? おい、天野!」
無骨な呼びかけで、意識が浮上する。
消毒液の匂い。白い天井。
病院のベッドの上だった。
「よかった、気が付いたか。お前、あそこで倒れてて……」
工藤が安堵の息を吐き、パイプ椅子にドカリと座り込む。
響はゆっくりと上体を起こし、窓の外を見た。
朝の光が、網膜に痛い。
「奴は……もう、誰も襲いませんよ」
「……そうか。お前が『書いた』結末なら、信じてやる」
工藤はそれ以上聞かなかった。
ただ、響の無事を祝うように、不器用に肩を叩く。
響はベッドを降り、洗面台へと向かった。
鏡の前に立つ。
ひどい顔だ。
目の下のクマは濃く、頬はこけている。
だが、その表情はどこか憑き物が落ちたように穏やかだった。
響は、鏡に顔を近づける。
自分の右目。
その瞳の奥、暗い虹彩のさらに深淵に。
ちろり、と。
小さな赤い炎が、揺らめいた気がした。
その炎の中で、黒い影が今も無言で焼かれ続けている。
『見ているぞ』
響は心の中で、自分の中に閉じ込めた怪物に語りかける。
これは共生ではない。
終わりのない懲役だ。
俺が幸福を感じるたび、お前はその匂いに惹かれて檻を揺らすだろう。
そのたびに俺は、この火事の記憶でお前を焼く。
一生かけて、俺の命が尽きるその瞬間まで。
「……悪くないプロットだ」
響は小さく呟き、蛇口を捻った。
冷たい水が、火照った顔を冷やしていく。
顔を上げると、そこにはもう、ただの小説家志望の青年がいるだけだった。
瞳の奥の地獄を、まぶたの裏に隠して。
彼は、新しい物語を書き始めるために、病室を後にした。