第一章 錆びついた共鳴
雨は、空から落ちてくる涙などではない。
それはただの物理現象であり、肌を打つ冷たい暴力だ。
リアン・アルベインは、濡れた石畳を早足で歩いていた。
革手袋の奥で、指先が微かに痙攣している。
腰に吊るした真鍮の羅針盤が、チリ、チリ、と虫の羽音のような不快な音を立てて震えていた。
北を指すべき針が、狂ったように真下――地下深くを指し示して回転している。
「ちっ、前を見ろよ」
すれ違いざま、中年の男の肩がリアンの腕を擦った。
その瞬間、視界が歪んだ。
ザザッ――!
ノイズが走る。
リアンの鼓膜の裏側で、見知らぬ女の金切り声が響いた。
陶器が割れる炸裂音。
昨夜の食卓。冷めたスープの油膜。妻への殺意に近い苛立ち。
男が抱える鬱屈した記憶の断片が、腐った果実のような甘ったるい臭気を伴って、リアンの脳髄に直接ねじ込まれた。
「ぐ、ぅ……ッ」
リアンは路地裏の壁に手をつき、胃液をこらえた。
口の中に、錆びた鉄の味が広がる。
他人の感情は、いつだって不協和音だ。
調律されていないバイオリンを耳元で掻き鳴らされるような、精神を削り取る拷問。
男はリアンを一瞥もしない。
誰もが灰色のコートに身を包み、無関心の仮面を貼り付けて歩き去っていく。
だが、リアンには見えてしまう。
彼らの背中から立ち上る、どす黒い煙のような情動の揺らぎが。
(……うるさい。うるさすぎる)
呼吸を整えようとするが、肺が鉛を含んだように重い。
この街の空気は、生者の欲望と、死者の未練で飽和している。
水たまりの底から、数年前にここで野垂れ死んだ乞食の、飢えと寒さの記憶が冷気となって足首にまとわりつく。
逃げなければ。
ここではないどこかへ。
あるいは、何も感じない無の世界へ。
羅針盤の針が、キリリと高く鳴いた。
まるで断末魔のような高音。
針が指し示す先。地下回廊への入り口であるマンホールの蓋が、彼を呼ぶように微かに共振している。
リアンは迷わず、重い鉄蓋に指をかけた。
光の届かない闇の底だけが、今の彼には唯一の安息地に思えたからだ。
第二章 琥珀の中の叫び
地下回廊は、時間の墓場だった。
湿ったカビの臭いと、古い羊皮紙が灰になる瞬間の焦げた匂いが漂っている。
リアンは暗闇の中、羅針盤の燐光だけを頼りに進んだ。
ここはかつて、魔法使いたちが世界の理(ことわり)を書き換えようとした実験場。
今では、忘れ去られた瓦礫の山だ。
奥へ進むにつれ、奇妙な現象が起きた。
肌を刺すような寒気が消え、代わりに、皮膚の下を温かい蛇が這うような感覚が全身を包み込み始めたのだ。
最深部。
崩落した天井から差し込む一筋の光の下に、それは在った。
黄金色の蜃気楼。
人の形をしているが、人ではない。
高密度のエネルギーが圧縮され、空気を焼き焦がしながら揺らめいている。
「……アウロラ?」
リアンの唇から、伝説の名がこぼれ落ちた。
かつて世界を救い、その代償にすべての感情を失って消えたとされる「沈黙の魔女」。
蜃気楼がゆらりと動いた。
顔はない。
だが、リアンの方を向いた瞬間、空間そのものが軋んだ。
――来ないで。
声ではない。
脳の血管を直接指で弾かれたような衝撃。
強烈な拒絶。しかしその裏には、幼児が親を求めるような、張り裂けんばかりの渇望が渦巻いている。
リアンは踏み止まれなかった。
拒絶されるほどに、引力が強まる。
磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、彼の身体は意思を裏切って前へ進んだ。
手袋を脱ぎ捨てる。
震える素手が、黄金の蜃気楼に触れた。
ドクンッ。
世界が反転した。
映像が、奔流となってリアンの眼球を裏側から焼き尽くす。
燃え盛る街。
空を覆うドラゴンの影。
愛した男が、自分の放った魔法の余波で灰になる瞬間。
その灰をかき集め、喉が千切れるほど叫んだ夜。
数百年の孤独。
数万回の後悔。
「あ、が……ッ!!!」
リアンは悲鳴を上げることすらできなかった。
流れ込んできたのは「情報」ではない。
質量を持った「痛み」だ。
ナイフで切り刻まれるような物理的な激痛が、全身の神経網を焼き切っていく。
これは、一人の人間が抱えていい量ではない。
魂の容量(キャパシティ)が違う。
コップに海を注ぎ込むような暴挙。
リアンの膝が砕けた。
石の床に崩れ落ちる。
だが、手は離れない。
接着されたかのように、黄金の光が彼の肉体に食い込んでいた。
第三章 自我の融解点
(離して……! あなたが壊れてしまう!)
アウロラの意識が、リアンの思考の中で響く。
それは言葉というよりも、純粋な「願い」の波動だった。
彼女はまだそこにいた。
死んでもなお、溢れ出しそうな世界の歪みを、自らの精神を楔(くさび)にして縫い止めている。
だが、その楔はもうボロボロだ。
リアンの視界の中で、自分の指先が溶け始めていた。
物理的に溶けているのではない。
「自分」という輪郭が、アウロラの巨大すぎる存在に飲み込まれ、境界線が曖昧になっていく。
恐怖が、遅れてやってきた。
死ぬことへの恐怖ではない。
「リアン・アルベイン」という個が消滅し、彼女の記憶の一部として上書きされてしまうことへの、根源的な恐怖。
昨日の夕食の味。
幼い頃に見た虹の色。
孤独な夜に慰めてくれた野良猫の体温。
ささやかな自分の記憶が、アウロラの壮絶な数百年の中に溶けて、薄まっていく。
(逃げろ。手を離せ)
生存本能が警鐘を鳴らす。
今ならまだ間に合う。この手を引きちぎってでも離せば、自分はまだ「自分」でいられる。
だが、リアンは歯を食いしばり、逆にその光を強く握り返した。
なぜだ?
なぜ逃げない?
答えは、先ほど見た光景の中にあった。
アウロラが灰になった恋人を抱いて泣く、あの絶望的な孤独。
それが、リアン自身の孤独と、奇妙なほど完全に重なったからだ。
自分はずっと、他人の感情というノイズの中で、一人ぼっちだった。
誰とも分かり合えず、誰にも触れられず。
世界という巨大な機械の中で、噛み合わない余分な歯車として生きてきた。
けれど今、目の前にあるこの孤独な魂となら。
傷と傷を重ね合わせるように、完全に一つになれるかもしれない。
「……怖く、ない」
嘘だ。膝は震え、心臓は早鐘を打っている。
それでも、リアンは血の味のする口の中で呟いた。
「僕が、君の記憶を全部食ってやる。だから、もう泣くな」
それは、生まれて初めて抱いた、他人への明確な「意志」だった。
受け身の共感ではない。
自ら選び取り、飲み込むという決断。
(馬鹿な子……。戻れなくなるわよ)
アウロラの波動が、哀れみと、そして深い慈愛の色を帯びる。
「構わない。元々、帰る場所なんてなかったんだ」
リアンは目を見開き、黄金の光を睨みつけた。
網膜が焼け、涙が蒸発する。
「来いッ! アウロラ!!」
第四章 世界を編む数式
境界が消滅した。
瞬間、リアンの肉体は器としての限界を超え、一度破裂した――かのように感じた。
血管の中を血液の代わりにマグマが駆け巡る。
骨髄が沸騰し、脳細胞の一つ一つが焼き切れ、再生し、また焼き切れる。
『愛してる』
『殺さないで』
『許して』
『行かないで』
数億の感情の破片が、リアンの中で暴れ回る嵐となる。
自我という小舟は、瞬く間に転覆し、沈んでいく。
リアン・アルベインは死んだ。
あるいは、一度死んだ。
暗黒の海の中で、彼は溶けゆく意識の端を必死に繋ぎ止めた。
アウロラの激情を、自分の空虚な孤独で包み込む。
熱と冷。
光と闇。
二つの相反する魂が、螺旋を描いて混ざり合う。
激痛は、やがて痺れへ変わり、そして奇妙な浮遊感へと昇華されていった。
肉体の感覚が希薄になる。
手足の位置がわからない。
呼吸をしているのかどうかも怪しい。
ただ、認識だけが異常なほど冴え渡っていく。
地下回廊の崩れた石柱の分子構造が見える。
空気中を漂う塵の軌道が、美しい放物線として計算できる。
地下深くを流れる水脈の音が、壮大なオーケストラのように響く。
世界が、解像度を変えたのだ。
感情という曖昧な霧が晴れ、その奥にある、冷徹で美しい世界の骨組みが剥き出しになる。
嵐が去った。
光が収束し、静寂が訪れる。
そこにはもう、震える少年はいなかった。
終章 透明な怪物の孤独
地下回廊の出口。
マンホールの隙間から、雨上がりの光が差し込んでいる。
リアンはゆっくりと目を開けた。
左目は、かつてと同じ夜の闇色。
だが右目は、溶けた黄金を流し込んだような、人外の輝きを放っていた。
瞳孔が猫のように縦に裂け、見る者全てを射抜くような鋭さを宿している。
彼は自分の手を見つめた。
火傷の痕ひとつない、白磁のような肌。
だが、その皮膚の下には、もはや赤い血ではなく、青白い光の粒子が脈動しているのが透けて見える。
腰の羅針盤は砕け散っていた。
もう必要ない。
街中の、いや、国中の人々の感情が、手にとるように分かるからだ。
だが、それは以前のような「ノイズ」ではなかった。
地上へ出る。
街は夕暮れに染まっていた。
雑踏。人々の話し声。馬車の車輪の音。
かつては耳を塞ぎたくなるような騒音だったものが、今のリアンには、巨大な数式の羅列に見えた。
怒りも、悲しみも、喜びも。
すべては特定の波長を持ったエネルギーの揺らぎに過ぎない。
彼はそれらを、指揮者がタクトを振るように、指先一つで干渉し、書き換えることができるのだと感じた。
「……美しいな」
リアンは無意識に呟いた。
その声は、重なった二つの声――少年の声と、女の声が混ざり合った和音のように響いた。
通りがかりの男が、ぎょっとして彼を見た。
「ひっ……なんだ、その目は……化け物……」
男は後ずさり、逃げ出した。
リアンは傷つかなかった。
男の恐怖という感情が、赤い幾何学模様となって空中に霧散していくのが見えただけだ。
理解されないことは、高次元の存在にとっての必然。
彼はもう、人間ではない。
生者の温もりを求めることも、誰かと食卓を囲むこともないだろう。
この絶対的な俯瞰の視点こそが、彼が支払った代償であり、同時に救いだった。
だが、胸の奥底。
かつて心臓があった場所で、温かい残り火が揺れている。
それはアウロラの記憶。
彼女が世界を愛したという、ただ一点の真実だけが、人間性を喪失した彼の精神を辛うじてこの地上に繋ぎ止めていた。
リアンは濡れた石畳を踏みしめた。
水たまりに映る自分の姿は、どこか遠い異国の王のように、冷たく、そして残酷なほどに美しかった。
新たな世界の調停者は、一人、色彩あふれる混沌の街へと歩き出した。
その足音だけが、以前と変わらぬ人間の重さを残して。