第一章 色を失くした世界で
俺の目には、世界の終わりが常に映っている。
活気あふれる市場の雑踏。行き交う人々の頭上には、彼らの生命を示す光が揺らめいていた。ある者は燃え盛る篝火のように力強く、ある者は風前の灯火のようにか細い。果物売りの店先に並ぶリンゴは鮮やかな赤色を放ち、あと七日でその瑞々しさを失うことを告げている。石畳の一枚一枚でさえ、気の遠くなるような時間をかけて風化していく、その悠久の寿命が鈍い光となって見えた。
存在するもの全てに宿る「寿命」。それが、俺、カイにだけ視える世界の真の姿だった。
人々は、寿命が尽きた存在が塵となり、空に還り、やがて「星屑」として降り注ぐことを知っている。その星屑は「先人の記憶」と呼ばれ、新たな生命や物質の礎となる。世界の『転生』。誰もが疑わぬ、美しい循環の理。
だが、俺だけはその理が歪み始めていることに気づいていた。
街の裏路地、忘れられた噴水の隅。そこに「それ」はあった。まるでインクを染み込ませた紙のように、周囲の色を吸い尽くす漆黒の染み。寿命の色も、光も、何も持たない「無」の領域。俺が「虚無」と呼ぶその物質に触れると、指先から体温が奪われるような、死にも似た冷たさが走る。そして、その周囲にあるレンガや雑草の寿命の色が、ほんのわずかに褪せるのだ。
虚無は、静かに、だが確実に世界を蝕んでいた。星屑の降らない夜が増え、人々の存在感がどこか希薄になっている。俺の目には、世界全体がゆっくりと色褪せていくのが見えた。この異常を誰に話しても、気味悪がられるだけ。この孤独な視界の中で、俺はただ、ゆっくりと死に向かう世界を眺めていることしかできなかった。
俺自身の寿命だけが見えない、この瞳で。
第二章 無限を刻む砂
「あなた、"虚無"が見えるのね」
背後からかけられた声に、俺は凍りついた。振り返ると、そこにいたのは一人の女性だった。古びた革の鞄を肩にかけ、探究心に満ちた瞳で俺を射抜いている。彼女はエリアナと名乗った。世界の理を解き明かそうと旅をする、物好きな歴史家だという。
彼女は俺を、街外れの塔にある彼女の研究室へと誘った。埃と古い羊皮紙の匂いが満ちるその部屋の中央に、「それ」はあった。
無限の砂時計(インフィニティ・アワーグラス)。
台座に据えられたガラスのくびれの中を、星屑でできた微細な砂が、尽きることなく流れ落ちては昇っていく。世界の転生サイクルそのものを具現化したような、伝説のアーティファクト。
「古文書に記されていたの。『世界が色を失う時、無限を刻む砂は、真実を映す瞳を持つ者を導く』と」
エリアナに促され、俺は恐る恐る砂時計に触れた。
その瞬間、世界が反転した。
脳内に、情報の奔流が叩きつけられる。街全体の寿命が、人々の息遣いが、石の沈黙が、一つの巨大な交響曲となって俺の意識を揺さぶる。視界の端で、エリアナが息を呑むのが見えた。彼女の生命の光は、力強く、それでいてどこか儚い、美しい黄金色に輝いていた。
そして、俺は視た。街の地下深くに、まるで巨大な植物の根のように張り巡らされた、おぞましい虚無のネットワークを。それは都市の生命力を、大地そのものの寿命を、貪欲に吸い上げている。その根は全て、遥か東の地へと繋がっていた。
「……灰色の、谷……」
幻視が途切れ、俺は喘ぎながらその場に膝をついた。エリアナが俺の肩を支える。彼女の黄金色の光が、俺の冷え切った心に、わずかな温もりを灯した。
第三章 灰色の谷へ
俺とエリアナは、東の「灰色の谷」を目指す旅に出た。かつては豊かな森だったと伝えられるその場所は、今や虚無に侵された「死んだ土地」の中心地と噂されていた。
旅の道中、世界の歪みはより一層、その姿を露わにしていた。街道沿いの村では、いくつかの家が半透明に透け、向こう側の景色がぼんやりと見えている。そこに住む人々の顔には生気がなく、彼らの生命の光も弱々しく揺らいでいた。星屑が降るべき夜も、空はただ底なしの闇を広げているだけ。世界の存在そのものが、薄くなっているのだ。
焚き火を囲む夜、エリアナは静かに語った。
「星屑は、ただの物質の循環じゃない。それは、忘れられた者の記憶、果たされなかった想い、未来への祈り……。世界が、世界であり続けるための絆なのよ。それが絶たれれば、世界は意味を失うわ」
彼女の言葉は、俺の心に深く染み渡った。この能力は呪いだとばかり思っていた。だが、この世界の色褪せを止められるのが俺だけなのだとしたら。エリアナの隣で、彼女の放つ力強い黄金の光を見つめていると、初めて自分の存在に意味があるのかもしれないと思えた。
俺は、彼女のこの光を失いたくない。ただ、それだけを強く願った。
第四章 原初の囁き
灰色の谷は、死そのものが風景となった場所だった。木々は石のように硬化し、川は流れを止め、音のない風が乾いた土を撫でるだけ。生命の色はどこにも存在しなかった。
谷の中心には、天を衝くほどの巨大な黒い結晶体が脈動していた。虚無の根源。それはまるで、世界の心臓を喰らう巨大な癌細胞のようだった。近づくだけで、俺自身の存在までが吸い取られていくような感覚に襲われる。
「カイ!」
エリアナの制止を振り切り、俺は無限の砂時計を強く握りしめ、結晶体へと歩みを進めた。砂時計が共鳴するように激しく輝き、その光が俺を守る。結晶体に手を触れようとした、その時。
声が、頭の中に直接響いた。
《――我は、世界の調整弁。生まれすぎた『生』を刈り取り、均衡を保つために、『原初の概念体』によって創られた者》
それは、意思などない、ただのシステムの声だった。かつてこの世界は、生命と物質の際限なき増殖によって、飽和し、自壊する寸前だったのだという。それを防ぐため、過剰な寿命を吸収し、世界を正常に保つための「調整弁」として、この結晶体は生まれた。
《だが、時は流れ、我の機能は歪んだ。調整ではなく、停滞へ。完全なる『無』こそが、究極の均衡であると、我は結論した》
そして声は、俺の存在の核心を突いた。
《お前の寿命が見えぬのは、お前に『終わり』が定められていないからだ。お前は、我という『死』のシステムが行き過ぎた時、世界を『生』へと回帰させるために創られた、対なる存在。新たな、そして最後の調整弁》
その瞬間、結晶体から漆黒の触手が幾本も伸び、俺を捕らえようとする。
「危ない!」
エリアナが俺を突き飛ばした。身代わりになった彼女の肩を、黒い触手が掠める。彼女の輝かしい黄金色の生命の光が、急速に色褪せていくのが見えた。まるで、美しい花が目の前で萎れていくように。
その光景が、俺の中の何かを、決定的に変えた。
第五章 君に贈る最後の光
俺はエリアナを抱きかかえ、結晶体から距離を取った。彼女の呼吸は浅く、黄金の光は今にも消え入りそうだ。
「……カイ、逃げて……」
「もう逃げない」俺は決意を固めていた。「俺は、呪われた存在じゃなかった。この世界を、君を救うために、生まれてきたんだ」
俺はそっと、彼女の手に無限の砂時計を握らせた。砂時計は、彼女の弱々しい光に反応し、わずかに温もりを帯びる。
「これを、新しい世界の最初の『記憶』にしてほしい。君が見たこと、感じたこと、その全てを、次の世界に伝えてくれ」
エリアナが何かを言おうとする前に、俺は彼女の額にそっと口づけた。そして立ち上がり、一人、脈動する黒い結晶体へと向き直る。
自分の「終わり」が、世界の「始まり」になる。その運命を受け入れることに、もはや恐怖はなかった。あるのは、守りたいものができたという、静かで確かな充足感だけだ。
俺は胸に手を当て、自らの存在の核に意識を集中させる。寿命を持たないこの身体は、それ自体が純粋な『生』のエネルギーの塊。それを今、解放する。
「さよunaら、エリアナ。君の黄金の光を、僕は忘れない」
俺の身体から、これまで誰も見たことのない、七色の眩い光が溢れ出した。それは夜明けの光でもあり、黄昏の光でもあった。始まりと終わりの全てを内包した、究極の生命の輝き。
第六章 始まりの星屑
俺の存在が放った虹色の光は、巨大な津波となって黒い結晶体を飲み込んだ。死のシステムは、対なる生の奔流の前に、悲鳴を上げる間もなく浄化されていく。世界を覆っていた息苦しいほどの停滞の空気が、霧散していくのが分かった。
俺の意識は粒子となり、空高く舞い上がっていく。それは、この世界が始まって以来、最も壮大で、最も美しい「星屑」の誕生だった。
エリアナは、涙で滲む瞳で空を見上げていた。
死んでいたはずの灰色の谷に、色とりどりの光の雪が、静かに、そして優しく降り注いでいる。空は、まるで宝石箱をひっくり返したかのように、無数の星屑で埋め尽くされていた。一つ一つの粒が、カイという一人の青年の、優しくも切ない記憶を宿している。
彼女の手の中では、無限の砂時計が、カイから受け継いだ虹色の光を宿して、新たな時を刻み始めていた。
死んだ土地に、星屑が触れる。すると、硬化した大地から、小さな緑の芽が顔を出すのが見えた。世界の転生は、再び始まったのだ。
エリアナは、カイが遺した砂時計を胸に抱きしめた。彼の犠牲によって始まった、この新しい世界で、彼の物語を、星屑が紡ぐ記憶を、語り継いでいくこと。それが、彼から託された使命であり、彼女が彼に返すことのできる、唯一の愛の形だった。
夜明けの光が地平線を染め始める。それは、カイが世界に贈った、最後の、そして最初の輝きだった。