第一章 欠けた月と色褪せた約束
銀の粉を撒いたような星空の下、カイの呼吸だけがやけに大きく響いていた。妹のリーナが、また苦しげな咳をした。小さな背中が震えるたび、カイの心臓は冷たい手で握り潰されるような痛みに襲われる。
「兄さん…また、あの夢を見たの」
掠れた声でリーナが囁く。彼女を蝕むのは、村の誰も名を知らない奇病だった。眠りに落ちるたび、彼女の記憶が一つ、また一つと、朝露のように消えていくのだ。昨日は好きだった花の匂いを忘れ、一昨日は幼い頃に二人で歌った歌を忘れた。医術師は匙を投げ、神官はただ祈るばかり。残された時間は、欠けていく月のように、刻一刻と失われていた。
カイの脳裏に、村の禁忌として語り継がれる一つの伝説が焼き付いていた。万物の記憶を司るという「時詠みの泉」。その水を飲めば、失われたものを取り戻し、あらゆる病を癒すことができるという。だが、泉への道は誰も知らず、その場所は人の領域を超えた「忘れられた森」の最深部にあるとされていた。
「待ってろ、リーナ。必ず、お前を元に戻してやる」
カイは眠る妹の額にそっと唇を寄せると、壁に掛かった古い狩人の外套を掴んだ。扉を開けると、夜気が肌を刺す。一歩踏み出したその時、足元で何かがカランと乾いた音を立てた。見れば、リーナがいつも髪に飾っていた、ガラス細工の小さな青い鳥だ。それがなぜか、色を失い、透明なガラスの塊に変わってしまっていた。
胸騒ぎがした。それは日常が崩れ落ちる予兆のような、不吉な音だった。だが、カイは振り返らなかった。妹の記憶が全て消え去る前に、泉を見つけなければならない。彼は色褪せた青い鳥のガラスをポケットにねじ込むと、月明かりだけを頼りに、森の入り口へと続く暗い道を駆け出した。彼には奇妙な確信があった。一度も足を踏み入れたことのないはずの森の地図が、なぜか頭の中に鮮明に描かれているのだ。
第二章 森の囁きと魔法の代償
「忘れられた森」は、その名の通り、世界から忘れ去られたかのような静寂と濃密な気に満ちていた。苔むした巨木は天を突き、シダの葉は人の背丈ほどにも伸びている。カイは、まるで何度も歩いた道であるかのように、迷いなく獣道を進んでいった。分かれ道が現れても、どちらが正しい道か、体が覚えているかのように自然と足が向く。時折、鋭い頭痛と共に、知らないはずの風景が脳裏をよぎった。陽だまりで笑う少女。二人で編んだ花冠。だが、その少女の顔には靄がかかっていて、誰なのか判別できない。
「誰の記憶だ…?」
訝しみながらも足を止めず、彼は森の奥へ奥へと進んでいく。やがて、木々が開けた場所に、月光を浴びて瑠璃色に輝く泉が姿を現した。時詠みの泉だ。水面は鏡のように静かで、星々を映し込んでいる。
カイが安堵の息をつき、泉に駆け寄ろうとした瞬間、彼の前に一体の古き精霊が立ち塞がった。鹿の角を持ち、樹皮のような肌をしたその存在は、森そのものが意思を持ったかのような威圧感を放っていた。
『また来たか、人の子よ。何度繰り返せば、その愚かさに気づく』
精霊の声は、風が木々の葉を揺らす音に似ていた。
「何を言っている。俺は初めてここに来た。妹を救うために、その水を分けてもらう」
カイは臆することなく言い返した。精霊は憐れむように目を細める。
『お前はいつもそう言う。そして、最も大切なものを差し出すのだ。その力…「記憶を編む魔法」の代償として』
記憶を編む魔法? カイには何のことかさっぱり分からなかった。だが、精霊が敵意を剥き出しにした瞬間、彼の体は勝手に動いていた。指先から放たれた光の糸が、精霊の動きを封じる。それは、彼が今まで一度も使ったことのない、しかし、あまりにも馴染み深い感覚の魔法だった。
「ぐっ…!」
魔法を使った瞬間、凄まじい喪失感がカイを襲った。脳裏から、一つの大切な思い出が抉り取られる。それは、幼いリーナが初めて歩いた日、おぼつかない足で彼に駆け寄り、満面の笑みで抱きついてきた記憶だった。温もり、声、匂い、その全てが、まるで初めから存在しなかったかのように消え去った。
『思い出したか。その力を使うたび、お前は自らの最も価値ある記憶を失う。それが、お前が泉に願う代償だ』
精霊の言葉が、雷鳴のようにカイの頭に響いた。そうだ、思い出した。俺は、何度もここに来ている。リーナの記憶が消えるたびに、この泉を訪れ、自分の記憶と引き換えに、彼女の記憶を修復してきたのだ。
第三章 偽りの平穏と残酷な真実
カイは震える手で水筒に泉の水を汲み、精霊に背を向けた。背後から『いずれ、お前はお前でなくなるぞ』という声が聞こえたが、もう振り返ることはできなかった。
村へ戻り、眠るリーナの唇を泉の水で湿らせる。すると、彼女の苦しげだった呼吸は穏やかになり、頬には血の気が戻ってきた。翌朝、リーナはすっきりと目覚めた。
「兄さん、おはよう! なんだか、すごく良い夢を見た気がするの。兄さんと一緒に、お花畑で遊んでた」
昨日まで忘れていたはずの、二人で遊んだ記憶。それが鮮やかに蘇っている。カイは胸を締め付けられながらも、無理に笑顔を作った。
「そうか、良かったな」
失った記憶の痛みは、心の奥に空いた空洞のように、冷たい風を送り込んでくる。だが、妹の笑顔が見られるなら、それでいい。何度でもこの身を削ろう。カイはそう固く誓った。
それから、カイはリーナが何かを忘れるたびに、森へ通った。初めて言葉を交わした日の記憶と引き換えに、リーナの言葉を取り戻した。母の葬儀で二人で泣いた夜の記憶と引き換えに、リーナの涙を取り戻した。カイの中から大切な思い出が消えるたび、リーナは少しずつ元気を取り戻していった。カイの人格は、まるで穴だらけの布のように、少しずつ摩耗し、元の彼とは違う、どこか希薄な存在へと変わっていった。
そんなある日、リーナが熱を出して倒れた。記憶の欠落ではない、ただの風邪だった。カイは必死に看病したが、薬を飲ませようとしたその時、恐ろしいことが起こった。
「…いやっ! あなた、だれ…? あっちへ行って!」
リーナが、カイを完全な他人を見る目で、怯えきった表情で拒絶したのだ。その瞳には、親愛のかけらもなかった。
絶望に打ちひしがれるカイの元に、村の老婆がやってきて、静かに語り始めた。
「カイや…お前さんがリーナのために何をしていたか、わしは知っておるよ。じゃが、もうお止め。お前さんが差し出した記憶は、ただ消えたわけではないんじゃ」
老婆は、カイのポケットから滑り落ちた、透明なガラスの鳥を拾い上げた。
「お前さんが魔法で記憶を代償にするたび、その記憶はリーナの中に流れ込んでおった。リーナの病は、お前さんの膨大な記憶を受け止めきれず、彼女自身の魂が壊れかけている証なんじゃよ。彼女がお前さんを忘れたのは、お前さんとの思い出が彼女の中で溢れかえって、もう『兄』という存在を正しく認識できなくなってしもうたからなんじゃ…」
【転】の瞬間だった。カイが妹を救うために行ってきた献身は、実は彼女の魂を内側から破壊する行為に他ならなかった。良かれと思って重ねた魔法が、リーナから「兄」という最も大切な存在を奪い去っていたのだ。カイが守ろうとした平穏は、彼自身の記憶で塗り固められた、残酷な偽りだった。
第四章 君の名を呼ぶためのエチュード
全ては無駄だった。いや、無駄どころか、最悪の結果を招いてしまった。カイは泉のほとりに立ち、静かな水面を見つめていた。もはや彼の心には、後悔すら浮かばなかった。大切な記憶を失いすぎた心は、感情という名の水を湛えるには、あまりにも穴が多すぎた。
精霊が静かに彼の隣に現れる。
『どうする、人の子よ。このままでは、娘の魂は完全に砕け散る。お前の記憶の重みによってな』
「…方法は、一つだけある」
カイは虚ろな目で呟いた。
「俺が差し出せる、最後の、そして最大の記憶。それは…『リーナという存在そのもの』だ。俺の中からリーナの全てを消し去れば、彼女に流れ込んだ俺の記憶も、源を失って消えるはずだ」
それは、兄であることをやめる、という宣言だった。リーナを愛した自分、守ろうとした自分、その全てを無に帰すということ。それは、カイという人間の核を、自ら破壊するに等しい行為だった。
『正気か。それをすれば、お前は空っぽの器になる。二度と、彼女を思い出すことも、愛することもできなくなるのだぞ』
「それでもいい」カイの声に、初めて確かな意志が宿った。「彼女が、ただの彼女として、笑って生きていけるなら。俺のいない世界で…」
カイは両手を泉につけた。そして、最後の魔法を紡ぐ。それは祈りであり、訣別の歌だった。
彼の内側から、リーナの笑顔が、声が、温もりが、名前が、ゆっくりと剥がれ落ちていく。胸を抉るような痛みよりも、もっと静かで、根源的な喪失。世界から色彩が失われ、音が消え、ただただ白い無が広がっていく。
***
季節は巡り、村に穏やかな春が訪れた。病から完全に解放されたリーナは、丘の上で花を摘んでいた。彼女の記憶から、兄にまつわる苦悩や混乱は綺麗に消え去り、時折、なぜか胸にぽっかりと穴が空いたような、不思議な寂しさを感じるだけになっていた。
その時、一人の青年が丘を通りかかった。記憶を失い、自分が誰なのかも分からず、ただ漫然と旅を続ける放浪者だった。二人は偶然すれ違う。
リーナはなぜか、その青年の瞳から目が離せなくなった。寂寥感を湛えた、あまりにも懐かしい色。胸の奥が、きゅうっと切なく痛んだ。
青年もまた、足を止めて少女を振り返った。理由もなく、その少女を守らなければならないという、衝動にも似た感情が湧き上がってくる。だが、その感情の源泉が何なのか、彼にはもう知る術がなかった。
二人の視線が、刹那、交差する。
互いに言葉を交わすことなく、やがて青年は再び歩き出し、リーナもまた花を摘み始める。彼らは互いを永遠に認識することはないだろう。
ただ、風が運んできた花の香りの中に、忘れてしまったはずの誰かの優しい記憶が、微かに混じっているような気がして、二人は同時に、そっと空を見上げた。そこには、かつて二人で一緒に見上げたのと同じ、どこまでも優しい青空が広がっていた。