第一章 沈黙のレクイエム、不意のプレリュード
世界から音が消えたのは、三年前の雨の日だった。交差点にけたたましく鳴り響いたブレーキ音と衝撃音。それが、僕、水月奏(みづきかなで)が最後に聞いた、現実世界の音だった。元・作曲家。そう名乗るには、僕は若すぎたし、失ったものは大きすぎた。聴力を失った音楽家など、翼をもがれた鳥にも劣る、ただの墜落する肉塊だ。
以来、僕の世界は完全な沈黙に支配された。人々が何かを話しても、唇が滑稽に動くだけ。車のクラクションも、赤ん坊の泣き声も、かつて愛したピアノの音色さえも、僕には届かない。心は乾ききった湖底のようにひび割れ、創作意欲などという瑞々しい感情は、とうの昔に蒸発してしまった。
そんな僕が、週に三度、足を運ぶ場所があった。街の片隅にある、古びた市立図書館。静寂が義務付けられたその場所は、健常者と僕との差を唯一感じさせない、聖域であり、同時に墓場でもあった。僕はただ、古い楽譜を漫然と眺め、過ぎ去った日々の残像をなぞるだけ。その日も、僕は埃っぽい書架の陰で、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲のスコアを開いていた。インクの染み一つ一つが、僕には聴こえない音の墓標のように見えた。
その時だった。ふと視線を感じて顔を上げると、司書の名札をつけた女性が、心配そうにこちらを覗き込んでいた。色素の薄い髪が、窓から差し込む午後の光を吸い込んで、柔らかな輪郭を作っている。彼女は僕が耳が不自由だと知っている数少ない一人で、いつもは会釈を交わすだけの間柄だった。
彼女が、何かを伝えようと小さく唇を動かした。
瞬間、僕の頭蓋の内側で、ありえないことが起きた。
―――ポロン。
澄み切った、一粒のピアノの音が響いたのだ。それは教会の鐘のように清らかで、朝露のように繊細な音だった。驚いて目を見開く僕の前で、彼女はもう一度、ゆっくりと唇を動かす。「大丈夫、ですか?」、そう言っているようだった。
すると、どうだ。最初のピアノの音に、寄り添うようにチェロの柔らかな旋律が重なった。それは悲しみを慰めるような、温かいメロディー。三年間、鉄の扉で閉ざされていた僕の心に、その音楽は、まるで鍵を見つけたかのように滑り込んできた。
嘘だ。幻聴に違いない。だが、僕の脳が、魂が、この音楽の奔流に歓喜している。彼女が微笑む。すると、フルートの軽やかなパッセージが加わり、音楽に淡い色彩が灯った。彼女の声だ。僕にはそうとしか思えなかった。音を失った僕の世界で、唯一鳴り響く奇跡。彼女の声は、音楽そのものだったのだ。
僕は夢中でポケットからメモ帳とペンを取り出し、震える手で書いた。
『あなたの声が、聴こえます。音楽になって』
彼女――葉山詩織(はやましおり)さんは、僕のメモを読むと、きょとんと目を丸くし、それから花が綻ぶように、はにかんで笑った。その笑顔に合わせて、僕の頭の中では、ヴァイオリンのピチカートが楽しげに跳ねた。
この日から、僕の沈黙の世界は、彼女という名の音楽で満たされ始めた。僕は再び、五線譜に向かう理由を見つけたのだ。
第二章 筆談のデュエット
詩織さんと僕の交流は、図書館の片隅で交わされる筆談から始まった。僕がメモ帳に言葉を綴ると、彼女は滑らかな文字で返事をくれる。彼女の唇が動くたび、僕の頭の中では壮麗なオーケストラが鳴り響いた。
彼女が好きな本について語るとき、その唇の動きはハープのアルペジオのように優雅な旋律を奏でた。僕が音楽の話をすると、彼女は真剣な眼差しで頷き、そのたびにティンパニが力強いリズムを刻んだ。僕たちは音のない空間で、誰にも聴こえない音楽を介して、互いの魂を響かせ合っていた。
「奏さんの作る曲、聴いてみたいな」
ある日、彼女がそう書いて寄越した。その言葉が、僕の創作意欲に最後の火を灯した。僕は、彼女の声という名の奇跡を、形にしなければならないと思った。この感動を、僕だけのものにしておくのは罪だ。
僕はアパートに引きこもり、憑かれたようにピアノに向かった。鍵盤を叩いても音は出ない。だが、僕の頭の中では、詩織さんの唇の動きから生まれたメロディーが、完璧なハーモニーとなって鳴り響いている。指先から溢れ出す音符は、かつての僕の曲とは全く違っていた。それは絶望を知り、そして希望を見出した者の、祈りのような音楽だった。
数週間後、僕は一つの交響曲を書き上げた。タイトルは迷わず決まった。『サイレンス・シンフォニア』――静寂の交響曲。僕が聴いた奇跡のすべてを、そこに詰め込んだ。
完成した楽譜を携え、僕はかつての恩師である指揮者の元を訪ねた。先生は僕の耳のことを知って、誰よりも心を痛めてくれていた人だ。
「奏、君がまた曲を…」
先生は半信半疑でスコアを受け取ると、そこに記された音符の奔流に目を見張り、やがてその顔は驚愕に染まっていった。
「…信じられん。これは…君が聴力を失う前よりも、遥かに深い。どうやってこれを書いたんだ?」
僕は筆談で、詩織さんのことを伝えた。彼女の声が音楽となって聴こえる、と。先生はスピリチュアルな話は信じない人だったが、目の前の楽譜が持つ圧倒的な説得力に、ただ息を呑むばかりだった。
「この曲を、演奏会でやろう。君の復活を、世界に知らせるんだ」
先生の提案は、僕の心を激しく揺さぶった。僕の音楽が、再び世界に響く。そして何より、この曲の源である詩織さんに、彼女自身の声がどれほど美しい音楽であるかを、本物のオーケストラの音で聴かせることができるのだ。
僕は逸る心で図書館へ向かい、詩織さんを演奏会に招待した。
『この曲は、あなたそのものです。ぜひ、聴きに来てください』
僕のメモを読んだ詩織さんは、一瞬、息を呑んだように見えた。その瞳が、喜びとは少し違う、何か複雑な感情で揺らぐ。それは、僕の頭の中の音楽に、初めて微かな不協和音を響かせた。だが、彼女はすぐに微笑むと、力強く頷いてくれた。
「はい。必ず、行きます」
その返事に、僕は胸を撫で下ろし、演奏会の日を夢見て、微かな不安の旋律を心の隅に押しやった。
第三章 不協和音の真実
演奏会当日、コンサートホールは熱気に満ちていた。満場の客席。その中に、ひときわ静かな輝きを放つ詩織さんの姿を、僕はステージの袖から見つけた。白いワンピースが、スポットライトの光を浴びて浮かび上がっている。彼女が見守ってくれている。それだけで、僕の心は満たされた。
やがて恩師が指揮台に立ち、ゆっくりとタクトを振り上げた。一瞬の静寂。そして、第一ヴァイオリンが、僕が詩織さんの声から聴いた最初の旋律――あの清らかなピアノの音を模したメロディーを、繊細に奏で始めた。
音が、本物の音が、ホールに満ちていく。僕には聴こえない。だが、振動として、空気の震えとして、全身に伝わってくる。そして僕の頭の中では、現実のオーケストラと完璧にシンクロした「詩織さんのシンフォニー」が、かつてないほど壮大に鳴り響いていた。
チェロが加わり、フルートが舞う。僕が愛した彼女の「声」が、幾重にも重なり、美しいタペストリーを織り上げていく。客席の詩織さんを見た。彼女は、じっとステージを見つめている。どんな気持ちで聴いているのだろう。自分の声が、こんなにも美しい音楽になるなんて、想像できただろうか。僕の胸は、誇りと愛情で張り裂けそうだった。
曲がクライマックスに向かい、金管楽器が勝利のファンファーレのように高らかに鳴り響く、その時だった。
ふいに、誰かが僕の肩を叩いた。振り返ると、詩織さんの隣の席に座っていた、彼女の兄だと名乗った男性が、心配そうな顔で立っていた。彼は僕に、自分のスマートフォンの画面を差し出した。そこに表示されていたのは、詩織さんから、彼に送られたメッセージだった。それを僕に見せるように、と頼まれたのだろう。
画面の冷たい光が、僕の目を射る。そこに綴られていたのは、僕の世界を根底から破壊する、残酷な言葉だった。
『奏さんに伝えてください。ごめんなさい、と。私、生まれた時から、一度も声が出たことがないんです』
―――声が、ない?
瞬間、僕の頭の中で鳴り響いていた壮大なシンフォニーが、レコードの針が飛んだように、けたたましいノイズに変わった。心臓が氷の塊になったように冷たくなる。
じゃあ、僕が聴いていたあの音楽は、何だったんだ?
僕が「彼女の声」だと信じて疑わなかったあの美しいメロディーは?
ピアノの音も、チェロの響きも、フルートのささやきも、すべて。
すべてが、僕の脳が生み出した、都合のいい幻聴だったというのか。
僕は、詩織さん本人を見ていたのではなかった。詩織さんという存在に、自分の理想の音楽を投影し、その幻想を愛していただけだったのか?
ステージの上では、僕の書いたシンフォニーが、万雷の拍手喝采を浴びて幕を閉じた。しかし、僕の心に響いていたのは、ただ深く、底なしの、完全な沈黙だけだった。
第四章 静寂のアリア
鳴り止まない拍手の中、僕は亡霊のように楽屋に戻った。茫然自失。壁に立てかけてあったチェロが、ただの歪んだ木箱に見えた。僕の世界から、再び音楽が消えた。今度は、希望という名の光も一緒に。
ドアが静かにノックされ、詩織さんが入ってきた。その後ろから、彼女のお兄さんが心配そうに続いている。詩織さんは僕の前に立つと、深く、深く、頭を下げた。そして、いつも使っている小さなメモ帳を僕に差し出した。
『ごめんなさい。あなたを、騙すつもりはありませんでした』
震える指で、僕はペンを取った。
『なぜ、教えてくれなかったんですか』
『怖かったんです。あなたが聴いているという音楽が、私の声ではないと知ったら…あなたが、いなくなってしまう気がして。あなたの書く楽譜を見るのが、あなたと過ごす時間が、私のすべてでした。私には声がないけれど、あなたの音楽が、私の声になってくれる気がしたんです』
彼女の言葉が、インクの染みが、僕の乾いた心にじわりと広がっていく。
そうだ。僕は、自分の聴いている幻聴が真実かどうかなど、一度も確かめようとしなかった。ただ、この奇跡に酔いしれていたかっただけだ。彼女を、僕の都合のいいミューズに仕立て上げて。傷ついていたのは、騙されていたのは、僕の方ではない。僕の幻想に付き合わせてしまった、彼女の方だ。
僕は、彼女の顔をまっすぐに見た。そこにいるのは、音楽を奏でるミューズではない。僕の身勝手な幻想に傷つきながらも、ただ僕のそばにいることを選んでくれた、一人の人間、葉山詩織だ。
僕は新しいページに、ゆっくりと文字を綴った。
『僕が聴いていた音楽は、幻だったのかもしれない。でも、その音楽を生み出すきっかけをくれたのは、紛れもなくあなたです。僕が恋に落ちたのは、頭の中の音楽じゃない。図書館で、心配そうに僕を覗き込んでくれた、あなたのその優しい眼差しです』
詩織さんの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ち、メモ帳の上に小さな染みを作った。彼女は泣きながら、そして、心の底から嬉しそうに、笑った。
その瞬間。
僕の頭の中に、再び音が響いた。
それは、壮大なオーケストラではない。ただ一つ。水面に落ちる雫のような、どこまでも透明で、優しいピアノの音だった。幻聴かもしれない。でも、もう、どうでもよかった。
僕が本当に聴きたかったのは、これだ。音のある世界とか、ない世界とか、そんなことは関係ない。ただ、目の前の人の心の震えに、自分の心を重ねること。それこそが、愛という名の、最高の音楽なのだ。
僕は詩織さんの手を、そっと握った。その温もりが、どんな交響曲よりも雄弁に、僕の心に語りかけていた。
それから数年。僕は再び、作曲家として歩み始めた。僕の作る音楽は、以前のように華やかではないかもしれない。だが、聴く人の心に寄り添う、静かで、深い力を持っていると評されるようになった。
今日も、僕はステージに立つ。僕には聴こえない喝采を浴びながら、客席にいる詩織さんを探す。彼女は、いつもと同じように、静かに微笑んでいる。僕たちの間に、もう言葉も、音も必要ない。彼女の微笑みが、僕の沈黙の世界で鳴り響く、ただ一つの、そして永遠のアリアなのだから。