時を味わう者と失われた明日
第一章 停滞の味
カイは膝をつき、灰色の石畳にそっと舌を触れさせた。
ひんやりとした硬質な感触の奥から、無数の味が染み出してくる。昨日と同じ轍をなぞった荷車の鉄の味。何世代も前にこぼされた祝いの葡萄酒のかすかな酸味。そして、それら全てを覆い尽くす、澱んだ水のような退屈の味。そこには、過去の苦みばかりが幾重にも堆積し、未来を示すはずの甘みは、まるで砂糖が水に溶けきる寸前のように、淡く、儚く、ほとんど感じられなかった。
立ち上がると、街は静まり返っていた。人々は影のように往来し、その表情には何の感情も浮かんでいない。彼らは選択しない。昨日と同じ時間に起き、同じ道を通り、同じ仕事をし、同じ食事を摂る。空は永遠に続くかのような鈍色に覆われ、風の音すら単調な唸りに変わっていた。
この世界から「不確実性」という概念が失われつつある。
カイは、それを誰よりも鋭敏に感じていた。彼の舌が味わう未来の甘みが日増しに薄れていくことが、その何よりの証拠だった。このままでは、世界は新しい時間を生み出す力を失い、確定したたった一つの過去へと収縮し、やがて化石のように静止してしまうだろう。
自室に戻ったカイは、壁に掛けられた古びた革袋から、一枚の羊皮紙を取り出した。祖父から受け継いだ「無形のアトラス」。それは一見すると、ただの空白の地図だった。だが、カイにとって、それは最後の希望だった。
第二章 無形のアトラス
カイはアトラスを机に広げ、覚悟を決めてその表面をゆっくりと舐めた。
舌先に、祖父の記憶が流れ込んでくる。インクの苦みと、古い革の渋み。その奥に、世界を憂う強い決意が、まるで錆びた鉄のような味となって突き刺さった。その瞬間、空白だった羊皮紙に、まるで見えざる手が筆を走らせるかのように、黒いインクの線が滲み出し、複雑な地図を描き始めた。
そこに描かれているのは、実在の地名ではない。
『躊躇いの森』
『忘れられた夢の稜線』
『後悔の沼』
人々が心の中から捨て去り、忘れ去ったことで、この脆い現実世界に具現化した「失われた概念の場所」。アトラスは、そこへの道を示していた。
最初に浮かび上がった目的地は『躊躇いの森』。人々が「もし、あの時……」と夢想することをやめたために生まれた場所だ。カイは乾いた喉を鳴らした。未来の味を取り戻す。その一心で、彼は旅の支度を始めた。窓の外では、変わらない灰色の雨が、音もなく降り始めていた。
第三章 躊躇いの森
躊躇いの森は、乳白色の霧に満たされていた。一歩足を踏み入れると、ひんやりとした湿気が肌を撫で、方向感覚が曖昧になる。木々の幹はねじれ、枝は選ばれなかった無数の選択肢のように、あらゆる方角へと伸びていた。
カイは好奇心に駆られ、漂う霧をひと舐めした。
途端、舌の上に、幾千もの人生の可能性が爆ぜた。恋人に別れを告げなかった青年の、甘酸っぱくも切ない味。故郷を捨てて海に出た老人の、潮の香りと後悔が入り混じった味。それは、人々が捨て去った「if」の奔流だった。あまりに濃厚で、哀しく、そして美しい味に、カイは眩暈を覚えた。
危うく自分の後悔に飲み込まれそうになった時、懐のアトラスが微かな光を放った。カイはそれに導かれるように、霧の深い奥へと歩を進める。彼の脳裏にも、かつて選ばなかった道の記憶が蘇る。もっと素直になれていれば、失わずに済んだ笑顔。その記憶は、熟しすぎて腐りかけた果実のように、甘く、そしてひどく苦かった。
長い時間をかけて森を抜けた時、カイは空を見上げた。鈍色の雲の切れ間から、ほんの一筋、青い色が覗いていた。彼は自分の指先を舐めてみる。ほんのわずかだが、未来の甘みが濃くなっているのを感じた。
第四章 否定された神々の山脈
アトラスが次なる目的地として示したのは、天を突くようにそびえ立つ『否定された神々の山脈』だった。かつて人々が熱狂的に信仰し、そして時代と共に綺麗さっぱり忘れ去った神々が、巨大な山脈として具現化した場所だという。
岩肌は氷のように冷たかった。カイがそれを舐めると、二つの強烈な味が交互に舌を打った。一つは、かつて捧げられた信仰の熱狂。それは舌が焼けるような香辛料の辛さ。もう一つは、忘れ去られた神々の絶望。それは魂まで凍てつかせるような、硝子の苦みだった。
ふらつきながらも山頂にたどり着いたカイを待っていたのは、人の形をした風だった。それは、この山脈に最後に残された、時の神の残滓だと名乗った。
『お主か。時の味を辿る者よ』
風の声が、カイの心に直接響いた。
『この世界の停滞は、人々が不確実性を恐れ、安定を求めすぎた末路。未来とは無数の可能性の枝。人々が選択を放棄したことで、その枝はすべて枯れかかっておる』
「どうすれば……どうすれば、未来を、あの甘い味を取り戻せる?」
カイの問いに、時の神の残滓は悲しげに揺らめいた。
『不確実性の源は、世界の始まりに存在する。すべての可能性が未分化だった「無垢なる一点」。そこへ至り、新たな可能性の種を蒔かねばならぬ。だが、その場所へ到達するには、最も強固な「存在しないこと」を道標とする必要がある』
風が囁く。『すなわち、お主自身の存在そのものを賭けるのだ』
世界を救うための代償は、カイ自身の消滅。その言葉は、味のない絶望となって彼の全身を貫いた。
第五章 無垢なる一点へ
カイは決意した。山頂から下り、誰もいない平原で、最後にもう一度「無形のアトラス」を広げた。彼は祈るように目を閉じ、地図全体を覆うように、深く、長く、舌を這わせた。
彼がこれまで味わってきたすべての記憶の味が、アトラスに注ぎ込まれていく。祖父の決意の味。躊躇いの森で味わった無数の後悔の味。神々の辛さと苦み。そして、カイ自身のささやかな人生の、喜びと悲しみの味。
すると、アトラスに描かれていたすべての線が融解し、地図の中央、ただ一点へと吸い込まれていった。その一点が、眩い光を放ち始める。そこが「無垢なる一点」への入り口だった。
カイがその光に足を踏み入れると、世界は形を失った。それは物理的な移動ではなかった。彼が味わってきた時間の層を遡る、内面への旅路だった。苦かった過去が彼を苛み、甘かったはずの未来の記憶が彼を引き留めようとする。だが、カイは進んだ。未来の甘みを、もう一度この世界に取り戻すために。
第六章 不確実性の結晶
たどり着いた場所は、完全な「無」だった。
色も、音も、匂いもない。そこは、世界の始まりの瞬間、すべての可能性が生まれる前の、静謐な虚無。時間の流れさえ存在しないため、味もなかった。このままでは、世界は緩やかにこの無へと収束し、完全に静止するだろう。
カイは、静かに微笑んだ。彼は故郷の街を、選択を忘れた人々を、そして、ほんの少しだけ味わうことができた未来の甘みを思い出していた。
彼は、覚悟を決めて、自らの舌を強く噛んだ。
鉄の味が口の中に広がる。それは、カイという存在のすべてが凝縮された味だった。彼の血。彼の記憶。彼の後悔。彼の希望。彼が生きてきた時間のすべて。喜びの甘み、悲しみの塩味、決意の酸味、そして恐れの苦みが渾然一体となった、ただ一つの味。
カイは、その究極の味と共に、自らの体を「無垢なる一點」へと溶かし込ませた。彼の肉体は光の粒子となってほどけ、彼の魂は、世界に新たな「不確実性」を芽吹かせるための、最初の種子、その結晶となった。
第七章 君がいた世界の味
世界に、色が戻った。
鈍色だった空はどこまでも青く澄み渡り、風は花の香りや土の匂いを運んでくる。街の人々はふと空を見上げ、足を止め、隣の人と言葉を交わし始めた。「今日は何をしようか」「どこへ行こうか」。そんな当たり前の問いが、彼らの唇から自然とこぼれ落ちる。世界は再び、無数の可能性に満たされ始めたのだ。
街角の噴水で、一人の少女が遊んでいた。彼女は好奇心にきらめく瞳で、噴水の縁から滴る水を、ぺろりと舐めた。
そして、不思議そうに首を傾げる。
「あれ……? なんだろう、この味。ちょっと甘くて、ほんの少しだけ、しょっぱい味がする」
誰も、カイという名の青年がいたことを覚えていない。「時間の味覚者」という存在も、彼が世界のために自らを捧げたことも、誰の記憶にも残ってはいない。
ただ、彼が遺した「可能性の味」だけが、雨に、風に、光に溶け込み、この世界の隅々を満たしていた。人々が未来に思いを馳せる時、ふと感じる胸の高鳴り。新しい一日を迎える朝に感じる、微かな期待の甘み。
それは、かつて存在したかもしれない、一人の優しい青年の味だった。世界は彼を忘れても、彼の味と共に、不確実で、予測不可能で、だからこそ美しい明日へと、歩み続けていく。