世界は気まぐれな夢の庭で

世界は気まぐれな夢の庭で

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第一章 完璧な朝のシンフォニー、突如の不協和音

真面目規律は、世界秩序維持省・日常運行課に勤める、生粋の完璧主義者だった。彼の朝は、秒単位でスケジュールされた精緻なシンフォニーである。午前6時00分、自動制御のカーテンが開き、陽光が北緯35度41分18秒、東経139度41分30秒に正確に設置された彼のベッドを照らす。6時05分、湿度60%、温度25度に保たれた部屋で、アールグレイの香りが自動で漂う。そして6時30分、淹れたてのコーヒー、精緻に折りたたまれた新聞、そして完璧な半熟ゆでの卵が食卓に並ぶ。規律は、この完璧な日常こそが、世界の平和と安定を保つ基盤であると信じていた。そして、彼の仕事は、その日常を維持することだった。

ところが、その日の朝は、彼のシンフォニーに突然の不協和音が鳴り響いた。

「ん?」

スプーンで掬ったはずのコーヒーが、なぜかどろりとした感触で、口に運ぶと甘く香ばしいプリンの味がした。規律は目を丸くした。これは、彼の人生で一度も経験したことのない異常事態だ。彼は一口コーヒーを吐き出し、次に新聞に目を向けた。いつもなら国際情勢や経済指標が並ぶ一面の見出しには、巨大なゴシック体でこう書かれていた。

「速報! 史上初! 空から鮭が降る!? 熊もビックリ仰天!」

規律は思わず新聞をテーブルに叩きつけた。続いて、いつも正確無比なニュースを流すテレビからは、画面いっぱいに広がる猫の映像と共に「にゃ〜お、今日はゴロゴロ日和にゃ〜」という陽気な声が聞こえてくる。完璧なシンフォニーは、完全に狂ったジャズセッションと化していた。

焦燥に駆られ、規律は急いで家を飛び出した。エレベーターのボタンを押すと、「ご乗車ありがとうございます、本日は逆さま運行でお送りします」というアナウンスと共に、ゴンドラは文字通り地下へと向かって急降下を始めた。彼の完璧な通勤路もまた、混沌の渦中にあった。いつも通るはずの横断歩道の白線は水玉模様に変わり、信号機は赤でも青でも黄でもない、虹色の光を放っている。そして、何よりも目を疑ったのは、頭上からふわりと舞い落ちてきた巨大なポップコーンだった。それは焦げたような匂いをあたりに撒き散らし、道行く人々が困惑しながらも、つい手が伸びてしまうような引力を持っていた。

「一体、何が起きているんだ!」

規律の完璧な世界は、たった一つの朝で完全に崩壊した。彼の長年にわたる「日常の維持」という使命感は、今、かつてないほどの危機に直面していた。

第二章 日常のバグと奇妙なパターンの追跡

世界秩序維持省は、阿鼻叫喚の坩堝と化していた。いつもは静謐なオフィスには、プリン味のコーヒーを片手に狼狽する職員、二足歩行で廊下を闊歩する猫の報告に震える者、そして壁から生えたマッシュルームをどう処理すべきか議論する者たちが入り乱れていた。規律は混乱を抑え、自席に着くと、パソコンを立ち上げた。しかし、彼のPCの壁紙は、いつもの業務報告書ではなく、カラフルなクレヨンで描かれた恐竜と、その背中に乗るウサギの絵になっていた。

「真面目くん! 君もか!」

上司である部長の「秩序(ちつじょ) 崩壊(ほうかい)」が、頭を抱えながらやってきた。崩壊部長は普段、どんな緊急事態にも動じない鉄壁の男だったが、今日はその額に冷や汗が滲んでいた。

「私の朝食の味噌汁が、なぜかメロンソーダ味だったんだ! しかも具材はタピオカだ! 一体、何なんだこれは!」

規律は、上司の異常な報告にも動じず、冷静に事態を整理しようと努めた。「部長、これは世界規模の現象です。我々のシステムに、何らかの深刻なバグが発生していると考えられます」

緊急対策チームが結成され、規律はそのリーダーに任命された。チームメンバーは、情報解析のエキスパートでありながらやたらとオカルトに傾倒しがちな「探究(たんきゅう) 未知(みち)」、そして現場の第一線で活躍する敏腕オペレーターだが、どこか抜けているところのある「現場(げんば) 夢見(ゆめみ)」の二人だった。

「規律さん、これを見てください!」探究が興奮した声で叫んだ。モニターには、世界中で報告されている異常現象のデータがマッピングされていた。

「どうやら、これらの現象には特定の時間帯とパターンがあるようです。特に、朝の7時から9時、昼の12時から1時、そして夜の6時から8時に集中しています。そして、報告される現象の多くが…まるで子供のいたずら書きのようなんです」

夢見も頷く。「ええ、空から降ってくる巨大なアイスクリームや、喋り出すゴミ箱、突然現れる虹色のゾウとか。どれも非現実的というか…何らかの『想像力』が具現化しているようなんです」

規律は腕を組んだ。彼の論理的な頭脳は、この非論理的な状況を理解することを拒んでいた。しかし、データは明確だった。特定の時間に、子供の想像力のような現象が世界中で具現化している。そして、その現象が発生するたびに、地球の地磁気に微弱な、しかし特徴的な揺らぎが観測されることも分かった。それは、まるで何らかの生命体の「鼓動」のような、規則的ではないが周期的な信号だった。

規律たちは、その信号の発信源を突き止めるため、人工衛星のデータを総動員した。数時間の解析の結果、驚くべき事実が判明した。その信号は、地球上のどこか一箇所から発信されているのではなく、世界中の「ごく普通の家庭」からランダムに、しかし同時に発生していた。まるで、ある共通の源から送られたデータが、様々な場所に分散して反映されているかのようだった。

「これって…まさか…」探究が震える声でつぶやいた。「世界が、実は誰かの…夢の中だったりしないですかね?」

規律は鼻で笑った。「馬鹿な! そんな非科学的なことがあり得るはずがない! 我々が生きているのは、厳然たる物理法則に則った現実世界だ!」

しかし、彼の心の中には、微かな不安の種が芽生え始めていた。目の前の現実が、彼の「常識」を、そして彼の「完璧な日常」を、根本から揺るがし始めていたのだ。

第三章 世界は誰かの夢の中、そして熱にうなされる小さな創造主

世界の混乱は、日を追うごとに悪化した。空から巨大なフライドチキンが降ってきたり、街中の銅像が突然踊り出したり、果ては海の色がレモンスカッシュになったり。世界秩序維持省は、もはや「秩序維持」どころではなく、「混乱拡大監視省」と揶揄される始末だった。

そんな中、探究が新たな発見を報告した。「規律さん、夢見さん! 例の信号の分析が進みました! どうやらこの信号は、高熱を発している人間の脳波パターンと酷似しています! しかも、その脳波が活発になるほど、世界の異常現象も活発になる傾向にあるんです!」

夢見が付け加えた。「そして、我々のデータチームが、世界中の高熱患者の記録と照合した結果、たった一人だけ、全ての異常現象の発生時刻と脳波の活性化が完全に一致する人物を特定しました!」

規律の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。たった一人? 世界規模のこの大混乱が、たった一人の人物に起因している? その思考は、彼のこれまでの常識を真っ向から否定するものだったが、彼の頭脳は、提示されたデータから導き出される唯一の結論を受け入れざるを得なかった。

「その人物は、どこにいる?」規律は震える声で尋ねた。

探究がモニターを指差した。そこに表示されたのは、日本のある地方都市に建つ、ごく普通の古い一軒家の住所だった。そして、その人物のプロフィールが表示された。

名前:ユメノ ミライ

年齢:7歳

特徴:非常に想像力豊かで、絵を描くのが大好き。最近、高熱を出して寝込んでいる。

規律は、その信じがたい事実に、言葉を失った。世界は、7歳の子供の夢によって創造され、その子の体調によって運行されていたのだと? 彼の「完璧な日常」は、こんなにも不安定で、予測不能な土台の上に成り立っていたというのか?

規律、探究、夢見の三人は、急いでミライの家へと向かった。たどり着いたその家は、外見は何の変哲もない普通の家だった。玄関を開けた途端、家の中からは荒い呼吸と、苦しそうなうめき声が聞こえてきた。

ベッドに横たわるミライは、真っ赤な顔をしてうなされていた。その枕元には、クレヨンで描かれたスケッチブックが開かれていた。そこには、空を飛ぶ鮭、プリンの海、踊る銅像、虹色の信号機…今日、世界中で実際に起こった異常現象と寸分違わない絵が、無邪気な筆致で描かれていた。

「嘘だ…」規律は膝から崩れ落ちた。彼が人生を捧げて守ろうとしていた「秩序」は、砂上の楼閣どころか、一人の子供の熱に浮かされた幻想だったのだ。彼の価値観は、音を立てて崩れ去った。完璧主義者としてのアイデンティティは、もはや無意味なものとして彼の目の前に立ちはだかった。絶望が、彼の心を支配した。

その時、ミライが微かにうめき声を上げ、寝言を漏らした。「うぅ…怪獣…倒して…ヒーロー…」

次の瞬間、窓の外から轟音が響き渡り、空には巨大なゴリラのような怪獣の影が蠢き始めた。世界中のテレビやラジオから、都市破壊のニュースが報じられる。ミライの熱に浮かされた夢が、新たな大混乱を引き起こしたのだ。規律は、ただ呆然と、その光景を見上げていた。

第四章 最高の看病、最大の危機

規律は、呆然としていたのも束の間、すぐに状況を理解した。この小さな創造主の体調が、世界の運命を左右する。秩序を維持するためには、まずミライの熱を下げなければならない。しかし、どうやって? 世界中の物理法則を歪めるほどの想像力を持つ子供だ。普通の看病が通用するはずがない。

「とりあえず、冷えピタだ!」夢見が叫び、ミライの額に冷えピタを貼った。すると、空を覆っていた怪獣の影が、一瞬にして半透明になり、まるで幻影のように揺らいだ。

「効いてる!?」探究が驚愕の声を上げた。「やっぱり、ミライちゃんの体調が世界に直結しているんだ!」

規律は、決意に満ちた顔で立ち上がった。彼のこれまでの完璧主義は、ここで全く新しい形で活かされることになった。彼の任務は、この混沌を終わらせ、日常を取り戻すこと。そのためには、ミライの熱を下げることこそが、唯一の「秩序維持」なのだ。

「ミライの意識を、楽しませるんだ!」規律は叫んだ。「熱で辛い夢じゃなくて、楽しい夢を見させるんだ! 夢見さん、ミライちゃんの好きなものをリサーチしてくれ! 探究、怪獣や混乱の描写を最小限にするための情報を集めろ!」

規律は、ミライの枕元に座り、まるで自身がコメディアンにでもなったかのように、声を張り上げた。「ミライちゃん、聞こえるかい? 大丈夫、大丈夫だ! 空の怪獣は、実は美味しいバナナで出来ているんだ! ほら、甘い匂いがしないか?」

彼の言葉に、空の怪獣は微かにバナナの匂いを放ち始めた。世界中で怪獣パニックが起きている中、突然空からバナナの香りがすることに、人々は困惑しつつも、何だかおかしな気分になった。

ミライが「うぅ…ヒーロー…」と小さくうめくと、規律は苦し紛れに「ヒーローはもう来てるぞ! 僕が変身して、最強の布団ヒーローだ! 君の熱を吸い取って、ふかふかにしてやるぞ!」と叫び、布団を頭から被って変なポーズを取った。その姿は滑稽極まりなく、夢見と探究は笑いを堪えるのに必死だった。

ミライの体温は、なかなか下がらない。高熱のせいで、彼女の夢はますます混沌としていく。空からはドーナツが降り注ぎ、街のビルは巨大な積み木と化し、猫は二足歩行どころか、宇宙服を着て空を飛び始めた。世界は、ミライの無秩序な想像力の暴走に、完全に乗っ取られつつあった。

規律は、必死にミライの意識に語りかけた。これまで論理と秩序のみを重んじてきた彼が、今、必死に子供の夢と向き合っている。彼はミライの描いたスケッチブックを手に取り、そこに描かれた怪獣に、楽しそうな顔を描き加えた。プリンの海には、巨大な魚ではなく、巨大なグミの魚を描いた。

「ミライちゃん、世界は君の絵の通りだ! でも、もっと楽しくできるはずだ! この怪獣は、実は歌がとっても上手なんだぞ! ほら、聞いてみろ!」

規律は、普段であれば絶対に歌わないような、おかしな歌を口ずさんだ。それは音痴で、リズムもバラバラだったが、なぜかミライの顔に、微かな笑みが浮かんだように見えた。

その瞬間、世界の混乱はピタリと止まった。空を飛んでいた猫たちは着陸し、ドーナツの雨は止んだ。ミライの額に貼られた体温計が、ピコンと音を立てた。

36.8度。

ミライの熱が、下がったのだ。

第五章 新たな日常のハーモニー、そして甘い余韻

ミライが目を覚ました時、世界は元の姿を取り戻していた。空から鮭が降ることもなく、コーヒーがプリン味になることもない。真面目規律は、顔に深い疲労の色を浮かべながらも、ミライの顔を見て、安堵の息をついた。

ミライは、規律たちを不思議そうに見つめた。「お兄さんたち、誰?」

規律は、ゆっくりと微笑んだ。「私たちは、君が世界の秩序を乱さないように見守る、秩序維持省の職員だよ。君のおかげで、世界は大変なことになったんだ」

ミライは、自分が熱を出していた間のことなど、何も覚えていないようだった。ただ、目の前の男たちが、なぜかとても優しい顔をしていることだけを感じていた。

その後、世界は再び平和を取り戻した。いや、正確には「以前の平和な日常」に戻った、と規律は思った。しかし、彼の内面は、完全に変容していた。彼はもう、完璧なルーティンを盲目的に崇拝する、硬質な男ではなかった。世界が、たった一人の子供の夢と想像力の上に成り立っていたという事実。そして、その予測不能な「カオス」が、時に世界を面白く、魅力的にしていたことを、彼は知ってしまったのだ。

秩序維持省は、ミライの体調を管理するための「夢見守り課」を新設した。規律は、その課の課長に就任した。彼の仕事は、ミライが風邪をひかないように、そして良い夢を見られるように、さりげなく支援することだった。

ある日の朝、規律はいつものように淹れたてのコーヒーを口にした。それは紛れもなくコーヒーの味だった。しかし、彼の視線の先では、通勤途中の電車の窓から、小さな虹色の羽を持つ鳥が飛び立ち、空へと舞い上がっていくのが見えた。そして、その鳥は、彼の幼少期の絵本に出てきた、架空の生き物にそっくりだった。

規律は、クスリと笑った。それは、ミライが元気を取り戻し、時々、無意識に創造力を世界に反映させている証拠だった。彼は、もうそれらの小さな異常を咎めることはしない。むしろ、それは彼の日常に、ささやかな喜びと予測不能な輝きをもたらすものとなっていた。

完璧な日常とは、決まったレールの上を走るだけの退屈な時間ではない。それは、時に予期せぬ脱線があり、驚きと笑いに満ちた「想像力の賜物」であるのかもしれない。真面目規律は、そう考えるようになった。彼の心は、カオスを受け入れ、秩序と創造性が織りなす新たなハーモニーを見出していた。彼の完璧な朝のシンフォニーは、今や、予測不能なアドリブと、温かいメロディが加わった、甘く、そしてどこか切ない、新しいジャズへと生まれ変わっていた。世界は、ミライの気まぐれな夢の庭で、これからも色とりどりの物語を紡いでいくのだろう。

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