文字通りアンビリーバブル
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文字通りアンビリーバブル

第一章 手がつけられない朝

柏木湊(かしわぎみなと)の一日は、大抵、物理法則の小規模な崩壊から始まる。

今朝は、母親の「もう、朝の支度で手がつけられないわ!」という、ありふれた食卓でのぼやきが引き金だった。

カツン、と乾いた音がして、湊の右手が手首から綺麗に分離した。意志を失ったそれは、白いテーブルクロスの上をまるで意思を持ったヒトデのようにのたうち回り、ベーコンエッグの皿の縁にコツンとぶつかって止まった。

「あ」

「あら、湊。また?」

母は慣れたもので、ため息ひとつでそれを片付ける。湊は左手だけで器用にトーストを口に運びながら、テーブルの上でぴくぴくと痙攣する自分の右手を眺めた。視線に熱はない。日常だった。僕、柏木湊には、他人の冗談を文字通りに物理具現化させてしまう、迷惑千万な能力がある。幸い、具現化したものは数分で跡形もなく消えるのだが、心臓に悪いことこの上ない。

「そういえば、最近『予測不能曜日』、多くないかしら」

母が淹れたコーヒーの湯気が、天井に向かって直角に曲がりながら立ち上っている。これも予測不能曜日の前兆かもしれなかった。週に一度、ランダムな曜日に訪れる、物理法則のデタラメデー。重力が反転したり、摩擦が消失したりするその日を、人々は半ば諦観を込めてそう呼んでいた。そして、そのデタラメな日が、最近どういうわけか週に二度、三度と訪れていた。

数分後、湊の右手は何事もなかったかのように手首に再接続された。指を軽く曲げ伸ばしして感覚を確かめる。馴染んだ皮膚の感触。この忌々しい能力と、狂い始めた世界の法則。その二つが重なり合う時、何かが起こる。そんな胸騒ぎだけが、胃の底に冷たくこびりついていた。

第二章 反重力とコンクリートブロック

その日の昼過ぎ、湊の予感は的中した。大学のキャンパスを歩いていると、ふわりと体が浮いた。見上げれば、学生たちが皆、地面から数センチ浮いたまま、つま先で地面を蹴って進んでいる。まるで月面を歩く宇宙飛行士の群れのようだった。予測不能水曜日の始まりだった。今日は重力が著しく減退する日らしい。

「うわ、またか。面倒くさい」

隣を同じようにふわふわと進みながら、幼馴染の七海沙織が顔をしかめた。彼女は、湊の能力を知る唯一の人間だ。

「最近、本当に頻度がおかしいよ。気象庁は何て言ってるの?」

「『原因不明の法則異常。外出時は各自注意』だってさ。いつも通りだよ」

僕らは、空中に浮かぶ落ち葉を避けながら、商店街の方へ向かった。その道すがら、沙織が忌々しげに一軒の家を指差した。立派な瓦屋根の、町内会長である金田氏の邸宅だ。

「金田会長、公園の立て看板のことでまた文句言ってたよ。あの人、最近ほんと、頭が固すぎるよね」

冗談だった。

沙織に悪気はなかった。

だが、僕の能力は文脈を読まない。

ゴゴゴゴゴ、と地鳴りのような音が響き、僕らの頭上に巨大な影が差した。見上げると、青空を背景に、無骨なコンクリートブロックが鎮座していた。工事現場から転がってきたようなそれが、金田会長宅の屋根めがけて、弱まった重力に従ってゆっくりと、しかし確実に落下していく。

ドンッ、という鈍い衝撃音。屋根瓦が数枚砕け散り、屋根が僅かに歪んだ。そして次の瞬間、コンクリートブロックは泡のように掻き消えた。

「……湊?」

沙織が青ざめた顔で僕を見る。僕は何も言えず、ただ固く拳を握りしめることしかできなかった。僕の能力が、予測不能曜日と組み合わさることで、異常な規模の現象を引き起こし始めている。そしてそれは、なぜか町内の特定の人物ばかりを狙っていた。

第三章 不味いメダルと結束の噂

被害は金田会長だけにとどまらなかった。「あの店の店主、客の足元見てるよな」という噂話を聞けば、その店の床が物理的に傾き、客が転倒した。「鈴木さん、最近羽振りがいいらしい」と聞けば、鈴木さんの背中から数分間だけ孔雀の羽が生えてきた。

僕と沙織は、この奇妙な連続被害の謎を解くため、情報が集まりやすい町のコミュニティカフェにいた。壁には町内会のイベント告知や迷い猫のポスターが雑然と貼られている。コーヒーの香りと、主婦たちのひそひそ話が渦巻く空間。そこで僕らは、奇妙な噂を耳にした。

「マズメダル」

銀色に鈍く輝く、手のひらサイズのメダル。町外れの元天文台に住む遠藤という老人が作ったもので、どんな料理を作っても必ず絶望的にまずいと評価される呪いのアイテム。しかし、不思議なことに、そのメダルを囲んで食事をした者たちは、そのまずさを共有することで、なぜか強く結束するというのだ。

「金田会長も、鈴木さんも、商店街の店主も、みんな最近あのメダルを欲しがってたのよ」

隣のテーブルの女性が声を潜めて話している。

「なんでも、町内会の派閥争いに勝つために、自分の派閥の結束を高めたいんだとか」

被害者たちの共通点。それは「マズメダル」を巡る醜い争いの当事者であることだった。僕の能力は、誰かの悪意によって、彼らへの「天罰」として利用されているのではないか?

僕と沙織は顔を見合わせた。全ての糸が、その「遠藤」という老人と「マズメダル」に繋がっているように思えた。

第四章 凍りつくディナー

町外れの丘の上に、その元天文台はあった。白いドーム屋根は所々が錆びつき、蔦が壁を覆っている。まるで世界から忘れ去られたような場所だった。僕らが呼び鈴を鳴らすと、ギィ、と重い扉が開き、しわくちゃの笑顔を浮かべた小柄な老人が顔を出した。遠藤善治(えんどうぜんじ)。彼がマズメダルの所有者だった。

「おお、君たちかい。噂の探偵コンビは。まあ、入りなさい。ちょうど夕食の時間だ」

遠藤老人は、僕らの目的を見透かしたように笑い、天文台の中に招き入れた。中は天文学の機材と、用途不明のガラクタで埋め尽くされている。巨大な望遠鏡の隣に、なぜか洗濯機が分解されて置かれていた。

食卓に出されたのは、見た目は完璧なビーフシチューだった。しかし、スプーンを口に運んだ瞬間、脳を直接殴られたような衝撃が走る。土と鉄錆と、何か名状しがたい苦味が混ざり合った味。これが、マズメダルの力……。

「それで、ご老人。単刀直入に聞きます。最近町で起きている奇妙な出来事について、何か知りませんか?」

沙織が、まずさを堪えながら切り出した。

遠藤老人は、くつくつと喉を鳴らして笑うだけだ。会話が完全に停滞する。重苦しい沈黙が、ガラクタの山に吸い込まれていく。

その時、耐えかねたように沙織が呟いた。

「もう、話が進まなくて、空気が凍っちゃいそう」

冗談だ。比喩表現だ。

しかし、次の瞬間、カタ、とテーブルの上の水差しが音を立てて凍りついた。部屋の温度が急激に下がり、壁に白い霜がみるみるうちに広がっていく。僕らの吐く息が、白い霧となって宙を舞った。僕の能力がまた発動した。だが、その規模は今までとは比較にならないほど強力で、悪意に満ちている。まるで、誰かが意図的に増幅させているかのように。

第五章 暇を持て余した神様の告白

「ふぉっふぉっふぉっ。見事な凍りっぷりじゃ」

極寒の部屋で、遠藤老人は平然とシチューを口に運びながら、満足げに頷いた。そして、よろけた拍子にポケットから転がり落ちたのは、テレビのリモコンのような奇妙な機械だった。無数のボタンと、小さなアンテナがついている。

「それは……?」

僕が尋ねると、老人はそれを拾い上げ、悪戯っぽく笑った。

「『法則歪曲リモコン』じゃよ。予測不能曜日はね、わしがこれで作っておったんじゃ」

老人の告白は、僕らの思考を完全に停止させた。最近の異常な頻発も、全て彼がこのリモコンをいじっていたせいだという。さらに、彼は部屋の隅に置かれた、パラボラアンテナに似た機械を指差した。

「そして、あれが『冗談増幅装置』。君の面白い能力を少しばかり拝借して、増幅し、特定のターゲットに照射しておった」

動機は、単純明快だった。

「退屈しのぎじゃよ」

老人はこともなげに言った。天才的な頭脳を持ちながら、世間から忘れ去られ、ただ時間を持て余していた。だから、退屈しのぎに世界を少しだけ書き換えて遊んでいた。マズメダルを巡ってギスギスする町の人々を見て、共通の「不思議な災害」という敵を与えれば、少しは結束するのではないか、という歪んだ善意もあったらしい。マズメダルも、結束力を高める効果なんてものはなく、ただ絶望的に料理がまずくなるだけの、彼が作ったただのガラクタだった。

あまりに身勝手で、壮大すぎる冗談。僕は怒りを通り越して、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。

第六章 世界で最初の冗談

「君は怒るかもしれんがね、わしにとっては最高のエンターテインメントじゃったよ」

遠藤老人は、まるで子供のように目を輝かせて言った。その無邪気さが、逆に僕の心をかき乱す。僕の人生は、この老人の退屈しのぎに、根底から揺さぶられていたのだ。

「……ふざけるな」

僕の口から、かろうじて言葉が漏れた。

「僕のこの能力のせいで、どれだけ……!」

すると老人は、心底おかしそうに、しわくちゃの顔をさらにくしゃくしゃにして笑った。そして、物語の核心を突く、最後にして最大の冗談を口にした。

「ああ、それじゃがの、柏木君」

老人は僕の目をまっすぐに見て、にやりと笑った。

「実はのう、君のその『冗談を具現化する能力』も、わしが十年前に君が赤ん坊の頃、退屈しのぎに仕込んだ、とびっきりの冗談なんじゃよ!」

時間が、止まった。

僕の存在そのものが、この老人の、壮大な冗談の一部だったというのか。

思考が追いつかない。理解が、追いつかない。

脳が処理を拒否した瞬間、僕の体は物理法則を無視したかのように、見事なまでに均衡を失った。

ああ、これが、文字通り「ずっこける」ということか。

法則が歪曲された部屋の中、僕の体は漫画の一コマのように、美しく、滑稽な放物線を描きながら、スローモーションで床に崩れ落ちていった。隣で、呆れ果てた沙織の、小さな笑い声が聞こえた気がした。

第七章 言葉がただの言葉である世界

「もう飽きたから、これは君たちにやろう」

遠藤老人はそう言って、あっさりとリモコンと装置の所有権を僕らに譲った。彼の興味は、もう次の退屈しのぎに移っているようだった。

翌朝、僕が目を覚ますと、世界は驚くほど静かだった。母が台所で「猫の手も借りたいわ」とぼやいても、どこからも猫は現れない。テレビのコメンテーターが「彼の発言は、火に油を注ぐようなものです」と言っても、画面から炎が上がることはなかった。

僕の能力は、消えていた。老人が装置のスイッチを切ったのだろう。

冗談が、ただの言葉の綾になった世界。それは少しだけ寂しく、けれど、途方もなく自由だった。もう、他人の言葉に怯えなくていい。言葉の裏に隠された意味を、恐れなくていい。

大学の帰り道、僕は沙織と一緒に、町内会で配られていた「マズメダルクッキー」なるものをかじった。遠藤老人が、お詫びの印にレシピを公開したらしい。味は想像通り、絶望的にまずかった。口の中に宇宙の終焉が広がったような味がした。

僕らは顔を見合わせ、同時に噴き出した。

まずい。ひどい味だ。でも、なぜだろう。そのまずさが、可笑しくてたまらなかった。

世界はデタラメで、人生は壮大な冗談なのかもしれない。

だとしても、その冗談を笑い飛ばせる相手が隣にいるのなら。

案外、この世界も悪くない。

僕はまずいクッキーをもう一口かじり、澄み渡った秋の空を見上げた。そこにはもう、コンクリートブロックの影はなかった。


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