第一章 冬の朝のインク
僕、葉山湊には秘密がある。共感覚、と医者は言った。僕の場合、他人の強い感情が、具体的な「匂い」として感じられるのだ。人でごった返す教室は、僕にとって耐え難い場所だった。焼きたてのパンのような歓喜、錆びた鉄みたいな怒り、湿った地下室の土を思わせる嫉妬。様々な感情の匂いが混ざり合い、僕の嗅覚を麻痺させ、思考を鈍らせる。だから僕は、いつも人との間に見えない壁を作り、その匂いの洪水から身を守るようにして生きてきた。
十七歳の秋。その日も僕は、放課後の喧騒から逃れるように、人気のない旧校舎の廊下を歩いていた。取り壊しを待つばかりのその場所は、埃と古い木の匂いが支配する静かな聖域だった。だが、その静寂を破るように、ふわりと、これまで嗅いだことのない香りが鼻腔をくすぐった。
それは、凛とした冬の朝の空気と、万年筆から染み出す上質なインクが混じり合ったような、知的で、どこか切ない香りだった。僕が知っているどんな感情のカテゴリーにも当てはまらない。好奇心に導かれるまま、香りの源へと足を運ぶと、突き当たりの美術準備室の扉が半開きになっていた。
隙間から中を覗くと、夕陽に照らされたキャンバスの前に、一人の男子生徒が立っていた。すらりとした背中。白いシャツ。絵筆を握るその指先から、世界が生まれているかのように見えた。美術部の遠野朔先輩。校内でも有名人で、その絵の才能と、誰にも媚びないミステリアスな雰囲気で、一種の偶像のように扱われている人だった。
彼が、ふとこちらを振り返る。逆光で表情はよく見えない。しかし、あの不思議な香りが、彼の動きに合わせて濃くなった気がした。僕は慌てて身を隠し、壁に背中を預ける。心臓が早鐘を打っていた。それは恐怖からではなかった。初めてだった。誰かの感情の匂いを、もっと嗅いでいたい、その源を知りたいと、こんなにも強く思ったのは。僕の退屈な青春が、その瞬間、澄み切ったインクの色に染め上げられていく予感がした。
第二章 静謐なパレット
あの香りに取り憑かれた僕は、まるで磁石に引かれる砂鉄のように、美術部への入部届を提出していた。自分でも馬鹿げているとは思う。絵なんて、中学の授業で描いて以来だ。だが、遠野先輩の傍にいれば、あの香りの正体が分かるかもしれない。彼の感情の源に触れられるかもしれない。そんな淡い期待が、僕を突き動かしていた。
美術室は、油絵具とテレピン油の匂いが満ちていたが、僕にとってそれは心地よいものだった。ごちゃ混ぜの感情の悪臭がないだけ、ずっとマシだったからだ。遠野先輩は、僕の入部を特に歓迎もせず、かといって拒むでもなく、「描きたいものを、描けばいい」とだけ言って、静かに自分のキャンバスに向かった。
彼の周りには、いつもあの「冬の朝のインク」の香りが漂っていた。他の部員と当たり障りのない会話を交わす時も、一人で窓の外を眺めている時も、その香りはほとんど揺らぐことがない。まるで彼の身体の一部のように、常に一定の濃度でそこにあった。
僕は自分の能力を使い、彼の心の機微を読み取ろうと試みた。後輩がコンクールで賞を取った時、周りからは「焼きたてのパン(喜び)」や「湿った土(嫉妬)」の匂いがしたのに、先輩からは相変わらず、あの静謐な香りしかしない。顧問の教師に作品を酷評された時でさえ、彼の香りは乱れなかった。
「先輩は、どんな感情を抱いているんだろう?」
僕は日に日に、その謎に深く囚われていった。彼は感情がないのだろうか?いや、そんなはずはない。彼の描く絵は、雄弁に何かを語っていた。燃えるような夕焼け、静寂の広がる夜の海、泣いているようにも見える路地裏の猫。その色彩は、僕が今まで嗅いだどんな感情の匂いよりも、ずっと鮮烈で、複雑な感情を内包しているように見えた。
僕は、遠野先輩が完璧で、感情に一切の揺らぎを見せない、崇高な人間なのだと思い込むようになっていた。彼への憧れは雪だるま式に膨れ上がっていく。しかし同時に、その完璧さが、僕との間に越えられない壁を作っているようにも感じられた。僕の鼻が捉えるのは、いつも彼の作り出す作品の匂いと、彼の身体から発せられる謎の香りだけ。その心の奥底に流れる、本当の感情の匂いに触れることは、決して叶わないのではないか。そんな諦めにも似た思いが、胸を締め付けた。
第三章 無臭のアトリエ
文化祭が近づき、美術部は展示の準備で慌ただしくなっていた。その日の放課後、僕は偶然、遠野先輩と二人きりで画材の整理をすることになった。ぎこちない沈黙が、埃っぽい準備室に満ちる。先輩から漂う「冬の朝のインク」の香りが、いつもより濃く感じられた。僕は、この好機を逃してはならないと、震える唇を必死に動かした。
「あの…先輩は、いつも落ち着いていますね」
僕の言葉に、先輩は段ボール箱を運ぶ手を止め、少し不思議そうな顔でこちらを見た。
「怒ったり、悲しんだり…しないんですか?」
我ながら、馬鹿な質問だと思った。だが、もう止まれなかった。
遠野先輩は、しばらく僕の顔をじっと見つめた後、ふっと、これまで見たことのないような、柔らかい笑みを浮かべた。
「葉山は、面白いことを言うな」
そう言って、彼は自分の胸元にそっと手を当てた。
「俺さ、匂いがほとんど分からないんだ」
え、と声にならない声が漏れた。予想だにしなかった言葉に、頭が真っ白になる。
「小さい頃の事故でね。嗅覚をほとんど失った。だから、人が言う『花の香り』も『雨の匂い』も、俺には分からない。世界は、僕にとってほとんど無臭なんだ」
僕は言葉を失った。じゃあ、僕がずっと感じていたこの香りは、一体何なんだ?僕の混乱を見透かすように、先輩は続けた。
「でも、だからこそ、香りに憧れた。見えないもの、感じられないものを、どうにかして自分の手で形にしたかった」
彼は自分のカバンから、小さなガラスの小瓶を取り出した。中には、透明な液体が入っている。
「これは、僕が自分で調合した香水なんだ。冬の朝の空気、古い本のページ、上質なインク…僕が『こうありたい』と願う、理想の人間のイメージを香りで表現してみたかった。穏やかで、静かで、でも芯のある人間の感情をね」
全身を雷で撃ち抜かれたような衝撃だった。僕が惹かれ、追い求めていたあの香りは、遠野先輩の「感情の匂い」ではなかった。彼が創造した「理想の感情の香り」だったのだ。僕の特殊な能力は、彼の本当の心など、何一つ見抜けていなかった。僕が感じていたのは、彼の本心ではなく、彼の孤独が生み出した、美しい虚構だったのだ。
「君は、初めてだった。この香りに気づいてくれたのは」
先輩は少し寂しそうに笑った。
僕の信じていた世界が、ガラガラと音を立てて崩れていく。自分の感覚とは何だったのか。僕が抱いた憧れという感情もまた、作られた香りに引き寄せられただけの、偽物だったのではないか。無臭のアトリエで、僕は自分の存在意義さえ見失い、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
第四章 感覚の交差点
あの日以来、僕は美術室から足が遠のいた。自分の能力が信じられなくなった。偽物の香りに心を奪われ、本物を見抜けなかった役立たずの鼻。そんなもの、ない方がましだ。先輩に会うのも怖かった。どんな顔をすればいいのか分からなかった。
文化祭の最終日。僕は校舎を彷徨い、無意識のうちに展示会場へと足を運んでいた。美術部のスペースに、一際大きな絵が飾られているのが目に入る。遠野先輩の卒業制作だった。
息を呑んだ。そこには、具体的な風景も人物も描かれていなかった。ただ、無数の色彩が渦を巻き、混ざり合い、弾けていた。暖かなオレンジは、まるで「焼きたてのパン」のようで、深く静かな青は「雨上がりのアスファルト」を思わせた。それは、匂いの見えない先輩が、想像力と他の全ての感覚を研ぎ澄ませて描いた、「香り」の絵だった。
プレートには、小さな文字でタイトルが記されていた。『感覚の交差点』。
その絵を前にして、涙が溢れてきた。先輩は、失われた感覚を嘆くのではなく、他の感覚で補い、世界を再構築し、新しいものを創造しようとしていたのだ。本物か、偽物かなんて、些細な問題だった。人が何かを強く願い、表現しようとすること。その孤独な闘いと、そこから生まれる祈りのような行為そのものが、どうしようもなく尊いのだと、僕はようやく理解した。
卒業式の後、僕は体育館の裏で先輩を探し出した。彼は一人で、校庭の桜を静かに見上げていた。
「先輩」
声をかけると、彼はゆっくりと振り返った。彼の周りには、いつもの「冬の朝のインク」の香りが漂っている。だが、その日の僕の鼻は、その奥にある、微かな匂いを捉えていた。卒業という節目に対する、一抹の寂しさを示す「雨上がりのアスファルト」の匂いと、未来への期待が入り混じった、温かい「焼きたてのパン」の匂い。初めて感じた、彼の本当の感情の香りだった。
「先輩、俺、先輩が作ったあの香りが好きです。でも」
僕は一度言葉を切り、まっすぐに彼の目を見て言った。
「今の先輩の匂いは、もっと好きです」
先輩は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに全てを悟ったように、優しく微笑んだ。
春の風が、僕たちの間を吹き抜けていく。それは、土の匂い、花の匂い、そして始まりの匂いを運んできた。僕はもう、自分の能力を呪わない。これは、世界の複雑さと美しさを、人とは違う角度から知るための、僕だけのパレットなのだ。僕は、遠野先輩からもらった、創造するという希望を胸に、新しい画材を買いに行こうと決めた。僕が描きたいのは、まだ誰も名付けたことのない、切なくて愛おしい、この瞬間の感情の「匂い」だった。