追憶の肖像

追憶の肖像

1 4573 文字 読了目安: 約9分
文字サイズ:

第一章 流れ込む生涯

柏木宗一郎が死んだ。厳格で、物心ついた頃から一度も笑顔を見たことのない祖父だった。僕、柏木湊(かしわぎみなと)にとって、その死は深い悲しみというより、むしろ一つの時代の終わり、といった乾いた感慨をもたらすだけだった。肺を病み、最後は枯れ木のように痩せ細った祖父の顔には、何の感情も浮かんでいなかった。

葬儀が滞りなく終わり、親戚たちが去っていった静かな夜。母に呼ばれ、古びた茶室に通された。そこには、父と母、そして一族の長である大叔母が、蝋燭の揺れる光の中に座っていた。異様なほど張り詰めた空気が、僕の肌をぴりぴりと刺す。

「湊」大叔母の、皺枯れた声が響いた。「これから、柏木家に伝わる『追憶の儀』を執り行う。お前が、次の『器』だ」

器? 追憶の儀? 聞き慣れない言葉の羅列に、僕の思考は追いつかない。訳も分からずされるがまま、宗一郎が愛用していたという古い硯の前に座らされた。硯には、墨ではなく、水面に銀粉を溶かしたような液体が満たされている。

「湊、この水面に顔を映しなさい。そして、宗一郎のことを、ただ強く思うのです」

母の震える声に促され、僕は恐る恐る顔を近づけた。銀色の水面に、緊張でこわばった僕の顔が映る。目を閉じ、祖父の、あの険しい眉根と固く結ばれた唇を思い浮かべた。その瞬間だった。

――脳を直接掴まれ、無理矢理こじ開けられるような衝撃。

悲鳴を上げる間もなかった。視界が真っ白に弾け、次の瞬間、僕は知らない場所に立っていた。夏の陽光が照りつける土手。汗の匂い、草いきれ、遠くで鳴く蝉の声。目の前には、絵筆を握る見知らぬ若者がいる。だが、その感覚は僕自身のものだった。キャンバスを睨む強い視線、絵筆を握る指先の感触、高鳴る心臓の鼓動。これは、僕じゃない。誰だ。この男は、誰なんだ。

次の瞬間、風景は変わる。雪の降る駅のホーム、冷たい空気、蒸気機関車の甲高い汽笛の音。愛しい女性を見送る、胸が張り裂けそうなほどの切なさ。燃え盛る家屋、熱風と黒煙、絶望的な無力感。生まれたばかりの我が子を抱き上げた時の、震えるような喜び。それは、断片的でありながら、圧倒的なリアリティを持った、一人の人間の、全生涯の記憶だった。

柏木宗一郎の、記憶だった。

「う、ああ……っ!」

僕は水面から顔を上げ、畳の上に崩れ落ちた。全身が冷たい汗で濡れ、呼吸が追いつかない。頭の中では、祖父の記憶と僕自身の記憶が、濁流のように混じり合い、渦を巻いていた。

「これで、お前は宗一郎様の一部になった」

大叔母の冷徹な声が、遠くで聞こえた。これが、柏木家の秘密。一族の死者の記憶は、次の世代の誰か一人に、こうして引き継がれるのだという。僕のアイデンティティが、他人の人生に侵食されていく恐怖。それは、静かな絶望の始まりだった。

第二章 二人の風景

祖父の記憶を受け継いでから、僕の日常は静かに、しかし確実に歪み始めた。大学の講義中、ふと窓の外に目をやると、キャンパスの風景が、祖父が若い頃に見た戦後の焼け野原に一瞬で切り替わる。友人とカフェで話していると、コーヒーの苦味が、祖父が初めて飲んだ配給のそれの味に変わる。

最も奇妙な変化は、僕自身の中に生まれた衝動だった。これまで絵筆など握ったこともなかった僕が、無性に風景画を描きたくなるのだ。指が、祖父の記憶の中にある絵筆の感触を求め、疼く。抗うことができず、僕は画材店で安物のスケッチブックと鉛筆を買った。

近所の公園のベンチに座り、スケッチブックを開く。すると、僕の手は、まるで僕のものではないかのように、滑らかに動き始めた。鉛筆が紙の上を走り、木々の葉脈、水面に映る光の反射、雲の流れる様を、驚くほど的確に捉えていく。それは、僕の技術ではなかった。祖父、宗一郎の技術だった。

僕は祖父の記憶に導かれるまま、彼がかつて描いた場所を巡るようになった。記憶の中の風景と、目の前の現実の風景を重ね合わせる。その行為は、恐怖であると同時に、奇妙な慰めをもたらした。厳格で、何を考えているのか全く分からなかった祖父。だが、彼の目を通して世界を見ることで、僕が知らなかった宗一郎の姿が浮かび上がってきた。

ある雨の日、僕は祖父の書斎に足を踏み入れた。生前、決して入ることを許されなかった場所だ。埃っぽい空気の中に、絵の具と古い紙の匂いが混じっている。本棚の奥に、鍵のかかった木箱を見つけた。祖父の記憶が、その鍵の場所を教えてくれる。机の隠し引き出しの中に、錆びた小さな鍵があった。

箱の中には、何冊もの古いスケッチブックが収められていた。ページをめくると、息を呑むほど美しい女性の肖像画が、何枚も、何枚も描かれていた。柔らかな微笑み、慈しむような眼差し。それは、僕の祖母ではなかった。知らない女性だった。祖父は、これほどまでに情熱的な視線で、誰かを見つめていたのか。僕の知らない祖父の青春が、そこにはあった。スケッチブックの最後のページに、小さな文字でこう記されていた。

『君を描くことだけが、僕の生きる証だった。さようなら、小夜子』

小夜子。その名前を呟いた瞬間、僕の胸を、祖父の記憶から流れ込んできた激しい痛みが貫いた。愛する人を失った、深い喪失感。僕の頬を、僕のものではない涙が伝っていった。祖父への拒絶感は、いつしか共感と、そして強い好奇心へと変わっていた。この人のことを、もっと知らなければならない。そう、強く思った。

第三章 血よりも濃いもの

祖父の記憶の探求は、僕を過去の深淵へと引きずり込んでいった。僕は、小夜子という女性が誰なのか、そして祖父に何があったのかを知ろうと、記憶の断片を必死にかき集めた。そしてある夜、ついにその核心に触れてしまった。

それは、僕が眠りについた時だった。夢とも現実ともつかない意識の中で、僕は最も鮮明な「追体験」に襲われた。

舞台は、土砂降りの雨が降りしきる山道。若い宗一郎は、車のハンドルを握っていた。隣には、親友であり、絵描きのライバルでもあった男、桐谷正人(きりたにまさと)が座っている。後部座席には、正人の婚約者である小夜子がいた。三人の笑い声が、激しい雨音にかき消される。

次の瞬間、目の前に鹿が飛び出してきた。宗一郎は急ハンドルを切る。車はスリップし、制御を失い、崖へと吸い込まれていく。衝撃。暗転。

意識が戻った時、宗一郎は車の外に投げ出されていた。腕の骨が折れ、激痛が走る。だが、それ以上に心を抉ったのは、目の前の光景だった。横転した車の中で、小夜子が血を流して動かなくなっている。そして、彼女をかばうように覆いかぶさった正人も、ぐったりとしていた。

「小夜子……!」

正人の絶叫が響く。宗一郎の運転ミスが、全てを奪ったのだ。絶望の中で、宗一郎は警察のサイレンの音を聞く。その時、まだ息のあった正人が、かすれた声で言った。

「宗一郎……俺が、運転していたことにしろ。お前には才能がある。お前は、生きろ。そして、描き続けろ。俺の分まで……。小夜子のことも……頼む……」

それが、親友の最後の言葉だった。

僕は、ベッドの上で飛び起きた。全身が汗でびっしょりと濡れ、心臓が激しく鼓動していた。今のは、ただの記憶のフラッシュバックではない。あまりにも生々しい。そして、僕は気づいてしまった。桐谷正人という男の顔。それは、僕が幼い頃に見た、アルバムの中の「若き日の祖父」の写真の顔と、瓜二つだったのだ。

混乱した頭で、僕は書斎に駆け込み、古いアルバムを引っ張り出した。そこには、祖母と結婚したばかりの若い男が写っている。僕がずっと「祖父」だと思っていた男。だが、彼の顔は、事故で死んだはずの桐谷正人だった。では、僕に記憶を継承した柏木宗一郎は、一体誰なんだ?

答えは、記憶の奔流がもたらした。事故の後、宗一郎は親友との約束を守った。罪を被り、正人が運転していたことにして、彼の代わりに服役した。そして出所後、婚約者を失い一人残された僕の祖母と結婚し、正人の忘れ形見であった僕の父を、実の子として育て上げたのだ。血の繋がりなど、どこにもなかった。

僕が「厳格な祖父」だと思っていたあの人は、親友への罪を償うため、生涯をかけて「柏木宗一郎」という役割を演じきった男だった。彼の厳しさは、血の繋がらない家族を守り抜くという、悲壮なまでの覚悟の表れだったのだ。僕の知っていた家族の物語が、根底から覆された瞬間だった。

第四章 未完の肖像

全ての真実を知った時、僕の中にあった祖父への感情は、畏敬の念に変わっていた。彼が背負ってきたものの重さ、沈黙の裏にあった深い愛情。それは、血の繋がりを超えた、もっと純粋で、強靭な絆だった。

僕はもう一度、祖父の書斎へ向かった。部屋の隅に、一枚だけ、描きかけで放置された大きなキャンバスが立てかけてあるのに気づいた。布をめくると、そこには、木炭で下書きされた家族の肖像画が現れた。若い頃の父と母、そして、幼い僕。だが、その絵には、肝心の祖父の姿だけが描かれていなかった。彼はずっと、自分をこの家族の輪の中に描くことを、自らに禁じていたのだ。

涙が溢れてきた。後悔、尊敬、そして感謝。様々な感情が入り混じり、僕の胸を締め付ける。僕は、決意した。この絵を、僕が完成させよう。

画材を揃え、僕はキャンバスの前に立った。目を閉じると、祖父の記憶が僕の指先に宿る。彼の磨き抜かれた技術、光と影の捉え方、色彩の選び方。それらが、僕自身の感情と溶け合っていく。僕はまず、父と母、そして幼い僕に色を乗せていった。祖父が見ていたであろう、温かい眼差しを込めて。

そして、最後に、空白のスペースに向き合った。そこに、柏木宗一郎を描く。僕の記憶の中にある、険しい顔ではない。彼が親友・正人と笑い合った時の顔、小夜子を愛しそうに見つめた時の顔、そして、血の繋がらない僕たち家族を、遠くから静かに見守っていた時の、あの寂しげで、それでいて優しい眼差し。それら全てを、一枚の絵に込めた。

何日かかっただろう。絵が完成した時、僕は心身ともに疲れ果てていたが、心は不思議なほど満たされていた。完成した肖像画の中では、家族全員が、そして祖父・宗一郎も、穏やかな笑顔でこちらを見つめていた。

その絵をリビングに飾ると、帰宅した母が、それを見て息を呑み、静かに泣き崩れた。母は、全てを知っていたのかもしれない。あるいは、言葉にならない何かを、絵の中から感じ取ったのかもしれない。

僕は今も、絵を描き続けている。それはもう、祖父の記憶に動かされているからではない。僕自身の意思だ。柏木家の「記憶の継承者」として生きることは、重い宿命かもしれない。だが、僕はもう一人ではない。祖父の生涯が、親友の想いが、僕の中で生き続けている。過去を受け継ぎ、未来を描く。それが、僕に与えられた役割なのだ。

窓の外では、祖父が愛した夕焼けが、空を茜色に染めていた。その美しい風景を、僕は僕自身の目と、そして祖父の目で、静かに見つめていた。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る