忘却の砂嵐と概念時計
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忘却の砂嵐と概念時計

第一章 錆びついた街と消えた言葉

俺の肌からは、常に乾いた砂がこぼれ落ちる。それは比喩ではない。感情が昂ぶれば、まるで嵐のように、灰色の粒子が全身から噴き出した。医師はそれを、原因不明の特異体質と呼んだ。だが俺は知っている。これは、この世界に満ちる、名もなき生物たちが過去に抱いた「共有された絶望」の残響なのだと。そして、この呪われた砂は、触れたものの過去を、記憶を、容赦なく溶解させてしまう。

俺が住むこの街から、『自由』という概念が消えて、もう何度目かの季節が巡った。人々は、その言葉も、意味も、それがかつて自分たちにとってどれほど大切だったかも、綺麗に忘れてしまった。毎朝七時、広場の時計塔が錆びついた鐘を鳴らすと、人々は家から出て、同じ歩幅で、同じ表情で工場へ向かう。誰もそれを疑問に思わない。空はいつも鉛色で、鳥の声すら統制されているかのように単調だった。

「カイ、また砂が溜まっているぞ」

アパートの大家が、俺の部屋の前に置いた小さな箒を指差して言った。彼の目には憐れみも非難もない。ただ、そこにある奇妙な現象を、事実として捉えているだけだ。俺は黙って頷き、夜の間に廊下に積もった自分の絶望の残骸を掃き集める。砂はあまりに細かく、塵となって空気中に溶けていくようだった。

この街で、俺だけが『自由』の喪失を覚えている。いや、正確には「覚えていた」という事実だけを、空っぽの箱のように抱えている。その概念がどんな温かみを持ち、どんな輝きを放っていたのか、俺の記憶もまた、自身の砂によって少しずつ削り取られているのだ。

ポケットの中で、冷たい金属の感触を確かめる。祖父の形見である、銀の懐中時計。針はとうの昔に止まり、蓋には奇妙な水晶が埋め込まれている。これだけが、俺をこの世界に繋ぎとめる唯一の錨だった。

『概念の残響を視覚化する懐中時計』。

祖父はそう言っていた。失われた概念が最後に放った『意志の光』を、色の粒子として映し出すのだと。

街の中心、かつて人々が思い思いの思想を語り合ったという広場の石畳の上で、俺は懐中時計の蓋を開いた。水晶は鈍く曇っているだけだ。ここに、『自由』の残響はもう残っていない。粒子は時間と共に薄れていく。完全に消え去る前に、見つけなければならない。誰が、何の目的で、世界から大切な概念を盗み続けているのか。

俺は、掃き集めた砂を風に流すと、灰色の街を背にした。絶望を撒き散らすこの体で、失われた希望の欠片を探す旅が、今、始まる。

第二章 懐中時計が照らす光

北へ向かう街道沿いに、かつて『平和』の概念が失われたという土地があった。そこはかつて、二つの大国が「正義」と「秩序」という概念を掲げて争った概念戦場の跡地だと、古い書物には記されていた。

今では、その意味を知る者はいない。錆びつき、蔦に覆われた巨大な兵器の残骸が、まるで異世界の巨人の骸のように横たわっている。子供たちがその上で無邪気に遊び、母親たちはその鉄塊にもたれて談笑していた。彼らにとって、それはただの古びた鉄の丘だ。争いの記憶も、平和への渇望も、そこには存在しない。

俺はゆっくりと、その骸の中心へと歩を進めた。体からこぼれる砂が、足元の草をわずかに枯らしていく。胸が苦しい。この場所に眠る、数えきれない絶望の記憶が、俺の体質に共鳴してくるのだ。

ふと、ポケットの中の懐中時計が、微かな熱を帯びた。

心臓が跳ねる。

震える手でそれを取り出し、蓋を開ける。

すると、鈍色の水晶の中に、淡い光が灯った。最初は蛍のように小さく、やがて無数の緑色の粒子となって、ふわりと浮かび上がった。粒子は水晶の中で、穏やかな風に舞う若葉のように、静かに揺らめいていた。

『平和』だ。

その光を見た瞬間、言葉ではなく、直接的な感覚が脳を貫いた。それは、嵐の後の静かな朝のような、温かい日差しの中で微睡む猫のような、満ち足りた安らぎの感覚。争いのない穏やかな時間。誰も傷つけず、誰にも傷つけられないという、絶対的な安心感。

知らず、頬に涙が伝っていた。

失われた概念の意味を、俺は今、確かに感じ取っていた。こんなにも温かく、尊いものが、この世界から奪われたのだ。

誰だ。誰がこんなことを。

静かな怒りが、絶望の砂に混じって心の底から湧き上がってくる。それは俺自身の怒りなのか、それとも、この土地に眠る魂たちの最後の叫びなのか、もはや区別はつかなかった。

俺は緑の光が消えぬよう、懐中時計の蓋をそっと閉じた。この光を、この温もりを取り戻したい。その想いが、荒れ果てた俺の心に、小さな目的の灯をともした。

第三章 砂嵐の邂逅

概念消滅の痕跡を追う旅は、俺を南の果てにある巨大な図書館の廃墟へと導いた。そこは『知識』の概念が消滅しかけている場所だった。何十万冊という蔵書は、もはやただのインクが染みた紙の束に過ぎない。人々は文字という記号の羅列を理解できず、書架の間を幽霊のように彷徨っていた。言葉は音としてのみ存在し、記録し、伝達するという力を失っていた。

図書館の中央ホール、吹き抜けの天井から差し込む光が埃を照らす中で、俺は「それ」に遭遇した。

自分と全く同じ、絶望の残響。

だが、俺のそれとは比較にならないほど濃密で、重い。

吹き抜けの最上階、その手すりに黒いフードを深く被った人影が立っていた。その人物の周囲には、黒に近い灰色の砂が、重力に逆らうように渦を巻いている。それは静かな悲しみを湛えた俺の砂とは違い、明確な意志と、凍てつくような虚無を宿していた。

あれが、犯人か。

俺が階段を駆け上がると、相手もまた静かにこちらを向いた。フードの奥の闇は深く、表情は窺えない。だが、俺と同じ体質を持つ者同士、魂のレベルで理解できた。こいつは、意図的に概念を消している。

「何故だ」俺は喘ぎながら叫んだ。「何故、平和や自由を奪う!知識まで消して、世界をどうするつもりだ!」

俺の感情に呼応し、体から砂嵐が吹き荒れる。だが、相手の黒い砂嵐は、俺のそれを赤子をあやすかのように押し返した。

「争いの種を摘んでいるだけだ」フードの奥から、乾いた声が響いた。「概念があるから、人は争う。正義を掲げ、愛を叫び、自由を求めて、血を流す。ならば、その源を全て摘み取れば、争いそのものがなくなる。永遠の静寂こそが、救済だ」

その声には、聞き覚えがあった。いや、違う。これから、聞き慣れていくであろう声。俺自身の、歳を重ねて絶望に磨り減った声。

黒い人影はゆっくりと俺に近づき、俺が握りしめる懐中時計に、その指を伸ばした。指が触れた瞬間、懐中時計の水晶が閃光を放つ。

視界が白く染まり、俺の意識は奔流に呑まれた。

無数の概念戦場。憎しみ合う人々。失われていく『友情』『信頼』『家族』。その全てを、ただ一人で見つめ続け、体から絶望の砂を流し続ける、未来の俺の姿が見えた。あまりにも永い時間、孤独に絶望を浴び続けた男の、壊れきった心がそこにあった。

「……わかったか」

閃光が収まると、フードの人物は顔を上げていた。そこに在ったのは、深い皺と癒えぬ傷跡に刻まれた、俺自身の顔だった。

「お前は、俺だ」未来の俺は言った。「そして俺は、この終わらない連鎖を、終わらせに来た」

第四章 無の時代

未来の俺は、疲弊しきった目で虚空を見つめ、呟いた。

「概念を消す旅も、これで終わりだ。最後に残った、最も厄介で、最も残酷な概念を消せば…」

彼は懐中時計を取り出した。それは俺のものと同じ形をしていたが、水晶はひび割れ、黒く濁っている。未来の俺がそれを掲げると、周囲の空間が歪み始めた。図書館の書架も、天井のステンドグラスも、その輪郭が溶けていく。

「やめろ!」俺は叫んだ。「最後に何を消す気だ!」

「『希望』だ」

その言葉は、俺の魂を凍てつかせた。希望。人が絶望の淵に立たされた時、最後に手を伸ばす一条の光。それさえも消すというのか。

「希望があるから、人は絶望する。より良い未来を夢見るから、現状を嘆く。全ての苦しみは、希望という名の病から始まるのだ。だから、俺がそれを終わらせる」

未来の俺が黒い砂を放つ。それは『希望』という概念そのものを食らい、溶解させていく。世界の彩度が急速に失われていくのが分かった。

駄目だ。それだけは、駄目だ。

俺は最後の力を振り絞り、自らの砂嵐をぶつけた。過去の絶望の全てを込めて。だが、それは未来の俺が放つ、未来永劫の絶望の前にはあまりに無力だった。

そして、『希望』の概念が、完全に消滅した。

その瞬間、俺の中で何かが砕け散る音がした。『希望』という最後の概念が失われたことで、俺の体内に溜め込まれていた「共有された絶望」を抑え込んでいた最後の箍が、外れたのだ。

「ああ…」

制御できない。自分の意志とは無関係に、体中の毛穴から砂が、濁流となって噴き出した。それはもう嵐などという生易しいものではない。世界そのものを飲み込む、絶望の津波だった。

「そうか…こうなるのか…」未来の俺が、かすかに笑った気がした。「これもまた、結末…」

彼の姿が、まず砂に溶けた。次いで図書館が、空が、大地が、その原型を失っていく。俺の意識もまた、この巨大な喪失の中に溶解していく。

薄れゆく視界の片隅で、手の中の懐中時計が、最後の光を放っていた。それは緑でも、青でもない、失われた全ての概念が混ざり合った、名もなき虹色の光だった。まるで、この世界が最後に見た、儚い夢の残光のように。

やがて、全ての色と音と形が消え失せた。

残ったのは、どこまでも続く灰色の砂の世界と、風の音に似た、空虚な沈黙だけ。

記憶も、概念も、感情も、そして絶望という感情さえも、全てが砂に覆われ、溶解した『無の時代』が訪れた。

これは救済だったのだろうか。

それとも、究極の喪失だったのだろうか。

答えを知る者は、もうどこにもいない。

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