第一章 刻まれる喪失
夜明け前の静寂を、甲高い金属音が引き裂いた。街の片隅で、小さな時計工房がその存在を賭けた『概念戦争』に敗北したのだ。カイは自室の窓辺で息を詰めた。勝者の名は知らない。だが、敗者の虚無は、波紋のように彼の肌を打った。
左腕に、灼けるような痛みが走る。皮膚の下で何かが蠢き、赤黒い線が血管のように浮かび上がった。それは複雑な文様を形成し、やがて未知の言語による一行の碑文として定着した。また一つ、喪失が彼の肉体に刻まれたのだ。
「……痛むか?」
背後から、アパートの老管理人が声をかけた。彼の目には、カイの腕の異変は見えていない。ただ、カイの蒼白な顔を心配しているだけだ。
「いえ。ただの目眩です」
カイは腕を隠した。老人の記憶からは、もう時計工房の存在は綺麗に消え去っている。昨日まで工房があった場所は、今や何十年も前からそこにあったかのような、古びた石壁に変わっているだろう。それが『現存の法則』。敗者は、はじめから存在しなかったことになる。
カイだけが、その空白を知覚していた。人々が忘れた世界の傷跡を、彼の体は忠実に記録し続ける。特定の光の下でしか読めないこれらの碑文の意味を、彼は知らない。ただ、失われたものの重みだけが、確かな痛みとしてそこにあった。街の朝靄が、まるで何かの涙のように、窓ガラスを濡らしていた。
第二章 虚無のインク壺
自らの体に増え続ける碑文の謎を解くため、カイは街の中央に聳える大書庫、『記憶の揺り籠』を訪れた。埃と古い羊皮紙の匂いが彼の肺を満たす。ここで司書として働くエリアは、禁書とされる『消滅史』の研究に没頭する変わり者だった。
「それは……『喪失の聖痕』?」
エリアはカイの腕に刻まれた碑文を一目見るなり、囁くように言った。彼女の瞳は、恐れではなく、抑えきれない知的好奇心に輝いていた。彼女はカイを書庫の奥、一般の閲覧が許されない一室へと導いた。
「伝説に聞くだけでした。概念戦争で消えた存在を知覚する者がいると。その喪失の度合いに応じて、体に真理の断片が刻まれる……」
エリアは震える指で、古びた木箱から一つの小さな壺を取り出した。黒曜石のように滑らかで、冷たい光を放つ壺だ。
「『虚無のインク壺』です。消滅した存在が遺した、ただ一つの『証明の残り香』から作られたインクが入っていると言われています。このインクを使えば、あなたのその碑文が読めるかもしれません」
彼女の言葉は、カイの心に小さな灯をともした。それは希望であると同時に、触れてはならない真実への入り口であるかのような、危うい光だった。壺に触れたカイの指先に、氷のような冷たさと、数えきれないほどの嘆きが流れ込んでくる錯覚を覚えた。
第三章 概念の墓場
エリアの導きで、二人は世界の裂け目、『概念の墓場』と呼ばれる領域に足を踏み入れた。そこは、濃い霧に覆われ、消滅した者たちの『存在の残響』が風の音に混じって囁きかける場所だった。踏みしめる地面は不確かで、時折、ありえたかもしれない建物の幻影が揺らめいては消える。
「インクの力が最も強まるのは、ここです。虚無が渦巻く、この場所でなら……」
エリアが『虚無のインク壺』の蓋を開けると、中から星屑を溶かしたような銀色の液体が姿を現した。それは周囲の霧を吸い込むように、淡い光を放ち始めた。カイが壺に手を伸ばした、その時だった。
「異端者どもめ。世界の法則を乱す者は、ここで消えよ」
霧の向こうから、鋼のような声が響いた。ギデオン。幾多の概念戦争を勝ち抜き、その存在を神話の域にまで高めた男だ。彼の鋭い視線がカイを射抜く。
「その忌まわしい碑文、虚無へと還してくれる」
ギデオンが指を鳴らすと、周囲の空間がぐにゃりと歪んだ。彼の強固な『存在』が、カイという不確定な『存在』を否定し、世界から抹消しようと牙を剥く。概念戦争の始まりだった。
第四章 残響の言葉
カイとエリアは、辛うじてギデオンの追撃を振り切り、墓場の深部にある崩れた祭壇の陰に隠れた。ギデオンの圧倒的な存在感は、まだ遠くからでも肌を圧迫してくる。
「今しかありません」
エリアは息を切らしながら、羊皮紙を広げ、鳥の羽根ペンに『虚無のインク』を浸した。彼女はカイの腕を取り、光を放つ碑文を慎重になぞり始める。インクが触れた瞬間、碑文の文字がまるで生きているかのように蠢き、羊皮紙の上で形を変え、既知の古代言語へと翻訳されていった。
『警告:存在過飽和』
『システムエラー:無限闘争』
『プロトコル実行:現存リセット』
断片的な単語が、おぞましい真実を暗示していた。その文字を読んだカイの脳裏に、墓場に漂う『創始者たち』の幻影が鮮明にフラッシュバックする。彼らは玉座に座りながら、苦悩と絶望に顔を歪めていた。世界を創造したはずの彼らが、なぜあんなにも悲しい顔をしていたのか。謎のピースが、少しずつ嵌まっていく感覚があった。
第五章 創始者の真実
「見つけたぞ、世界のバグよ」
ギデオンの声が背後で轟いた。彼の存在が放つ圧力が、祭壇の石を軋ませる。もはや逃げ場はなかった。ギデオンがカイの消滅を宣言し、その手を振り上げた瞬間、カイの全身の碑文が一斉に灼熱の光を放った。
視界が真っ白に染まり、カイの意識は肉体を離れ、時間の流れもない、純粋な情報の奔流へと引きずり込まれた。
世界の始まりが見えた。存在は芽吹き、増殖し、やがて互いの意味を喰らい合うようになった。それが『存在過飽和』。愛も、憎しみも、正義も、悪も、全てが過剰になり、世界は意味の飽和によって崩壊寸前だった。
『創始者たち』は、それを憂いた。彼らは自らが定めた法則を終わらせるため、壮大なプログラムを組んだ。それが『現存のリセットプログラム』。概念戦争とは、過剰な存在を淘汰し、世界を定期的に初期化するための、苦渋の選択だったのだ。そして、そのプログラムを完遂し、新たな『創始者』として世界を『無』に還すための最後のキー。
それが、カイだった。
真実の光が、ギデオンの強固な『存在意義』をも揺るがした。彼の掲げた正義は、ただのプログラムの一部に過ぎなかった。ギデオンは戸惑い、振り上げた手を下ろすことしかできなかった。
第六章 最後の碑文
カイは、静かに自らの使命を受け入れた。彼はもう、喪失を嘆く孤独な青年ではなかった。全てを終わらせ、全てを始めるための存在だった。
「エリア、ありがとう。君のおかげで、僕が何者なのか分かった」
カイは振り返り、涙を浮かべるエリアに穏やかに微笑んだ。彼女は首を横に振るが、言葉にならない。カイの決意が、痛いほど伝わってきたからだ。
「忘れない。あなたのこと、絶対に」
エリアの言葉を胸に、カイは祭壇の中央へと歩を進めた。彼の体がまばゆい光の柱となり、無数の碑文がプログラムコードとなって天に昇っていく。世界が白く塗りつぶされていく中で、彼の胸に、最後の碑文が静かに浮かび上がった。
エリアは震える手で、壺に残った最後の一滴のインクを使い、その文字を羊皮紙に写し取った。それが、カイという存在がこの世界に遺す、最後の言葉だった。
第七章 再起動
羊皮紙に写し取られた文字は、ただ一言。
『再起動』
その瞬間、カイの体は無数の光の粒子となって世界に溶けていった。ギデオンも、概念戦争の記憶も、人々の心に刻まれた憎しみも、全てが洗い流されていく。世界は音を失い、色を失い、やがて意味そのものを失って、完全な静寂と純白の『無』へと還った。
それは破壊ではなかった。疲弊しきった大地を休ませる、冬の眠りのような、穏やかで優しい虚無だった。
どれほどの時が流れただろうか。
真っ白な世界に、エリアだけがぽつんと立っていた。彼女の手には、一枚の羊皮紙が握られている。インクはほとんど消えかかっていたが、そこには確かに、ある青年の名前の痕跡が、奇跡のように残っていた。
やがて、彼女の足元から、小さな緑の芽が一つ、静かに顔を出した。
新しい世界の、最初の産声だった。