第一章 赤い長靴とサイレンス
水島湊の一日は、夜明け前の静寂から始まる。都会の眠りが最も深い時間、彼は黒い作業着に身を包み、トングとゴミ袋を手に街へ出る。人々が「ゴミ拾い」と呼ぶその行為は、湊にとっては世界の「残響」に耳を澄ませるための儀式だった。
湊には、秘密があった。捨てられたモノに触れると、そのモノが最後に見た光景や、持ち主が最後に抱いた感情が、映像の断片や皮膚を這う感覚として流れ込んでくるのだ。それは呪いにも似た能力だった。大抵のゴミが放つ残響は、無関心、諦め、苛立ちといった、くすんだ灰色の感情だ。だから湊は、心に分厚い壁を築き、流れ込んでくる情報をただやり過ごす術を身につけていた。拾い、分別し、忘れる。それが彼の日常を守るためのルールだった。
古書店で埃とインクの匂いに埋もれて過ごす昼間の時間は、湊にとって安息だ。古い本たちは、多くの物語を内包しているが、捨てられたモノのように生々しい最後の叫びを上げることはない。静かに、ただそこにある。湊もまた、そのように生きていたかった。
その朝も、いつもと同じだったはずだ。アスファルトを濡らす湿った空気、遠くで響く始発電車の走行音。カラスがゴミ集積所を漁る音。湊は慣れた手つきで、散乱したコンビニの袋やペットボトルを拾い集めていた。その時、不燃ゴミの袋の脇に、ぽつんと置かれた片方だけの子ども用の赤い長靴が目に留まった。まだ新しく、泥汚れ一つない。まるで、ついさっきまで誰かが履いていたかのようだ。
なぜだろう、強く惹きつけられた。普段なら、所有者の気配が濃そうなモノは避けるのに、湊は無意識に手を伸ばしていた。トングではなく、素手で。
指先が滑らかなゴムの表面に触れた瞬間、世界が反転した。
強い陽射し。むわりと立ち上る砂埃の匂い。子どもの高い笑い声が、鼓膜を直接揺さぶる。目の前には、公園の大きな砂場が広がっていた。自分の視点が、地面にとても近いことに気づく。見下ろすと、小さな両足に赤い長靴が履かれている。片方だけじゃない、ちゃんと両方だ。
「すごいジャンプ!」
優しい、陽だまりのような声が降ってくる。見上げると、柔和な目元の老婦人が、深く刻まれた皺の隅々まで喜びを湛えて微笑んでいた。手には麦わら帽子。風が彼女の銀髪を柔らかく揺らす。
『ばあば、見てて! もっと高く飛ぶ!』
自分の声ではない。幼い少年の、弾むような声が頭の中に響いた。感覚が混ざり合う。これは誰の記憶だ? 少年の興奮と、それを見守る老婦人の慈しみが、温かい奔流となって湊の心を洗い流していく。これまで感じてきた、冷たく澱んだ残響とは全く違う、純粋な幸福の色をしていた。
『気をつけてね』
声と共に、しゃがんだ老婦人の手が、長靴についた砂を優しく払ってくれる。その手の温かさ。指先に残る、土とひまわりのような香り。
『うん! また明日ね、ばあば!』
『ええ、また明日』
その言葉を最後に、映像はぷつりと途切れた。
湊は、ハッと我に返り、赤い長靴を握りしめたまま路上に立ち尽くしていた。夜明け前の薄明かりが、彼の蒼白な顔を照らす。心臓が早鐘を打っていた。温かい記憶の余韻が、まだ全身を包んでいる。
「また、明日……」
湊は呟いた。その約束は、果たされなかったのだろうか。なぜ、こんなにも幸福な記憶を宿した長靴が、片方だけ捨てられているのか。初めて、湊は捨てられたモノの「その後」が気になって仕方がなかった。彼の静かで平坦な日常に、鮮やかな赤色の疑問符が、音を立てて突き刺さった瞬間だった。
第二章 すれ違う記憶の影
その日から、湊の日常は静かに変質した。古書店のカウンターに座っていても、インクの匂いの奥に、ふと砂埃の気配を感じる。ページをめくる指先に、柔らかな手の感触が蘇る。あの赤い長靴は、湊の部屋の小さな机の上に置かれていた。ゴミとして処理することが、どうしてもできなかったのだ。
湊は、記憶の持ち主を探し始めた。人付き合いを極端に避けてきた彼にとって、それは未知の領域への一歩だった。まずは、記憶の舞台となった公園だろう。長靴を見つけた場所からほど近い、古びた遊具が点在する「ひだまり公園」が、最も可能性が高かった。
休日の昼下がり、湊は意を決して公園を訪れた。ざわめきが苦手だった。子どもたちの甲高い声、母親たちの楽しげな会話。それら全てが、自分のテリトリーを侵犯するノイズのように感じられた。だが、今は違った。あの記憶の中の「ばあば」と「少年」を探していた。
砂場の周りを見渡す。記憶の中の光景と重なる。あのブランコ、あの滑り台。しかし、記憶の中の二人組は見当たらない。代わりに、ベンチに腰掛けて鳩に餌をやっている一人の老婦人が目に入った。銀色の髪を綺麗にまとめ、背筋を伸ばして座っている。どこか気品のある佇まいだった。
数日間、湊は公園に通った。そして、その老婦人がいつも同じ時間に同じベンチに座っていることに気づいた。彼女こそ、記憶の中の人物ではないか? 湊の心臓が、期待と不安で小さく跳ねる。話しかけなければ、何も始まらない。彼は何度も深呼吸を繰り返し、ゆっくりと彼女の元へ歩み寄った。
「あの、すみません」
老婦人――千代と名乗った――は、驚いたように顔を上げた。その目元には、記憶の中の面影があった。しかし、湊を見つめる瞳には、親密さのかけらもない、見知らぬ他人に向ける穏やかな警戒心だけが浮かんでいた。
「何か、御用でしょうか」
「……この公園に、よくいらっしゃるんですね」
しどろもどろになりながら、湊は当たり障りのない会話を試みた。千代は、孫が小さい頃によくここで遊んだのだと、少し寂しそうに笑った。
「赤い長靴を履いた、男の子をご存知ありませんか?」
湊は核心に迫った。千代は少し考え込むそぶりを見せたが、やがて小さく首を振った。
「さあ……。ここにはたくさんの子が来ますから。赤い長靴なんて、珍しくもないでしょう」
その答えは、湊の期待を静かに裏切った。彼女ではないのか? あるいは、忘れてしまったのか?
湊は諦めきれなかった。その後も何度か千代と公園で言葉を交わした。彼女はいつも優しく、穏やかだったが、その会話は決して一線を越えることはなかった。まるで薄いガラスを隔てているかのように、二人の心は触れ合わない。湊は、自分の能力を使って、千代が触れたベンチや、彼女が捨てたパンの袋に触れてみた。だが、流れ込んでくるのは、日々の単調な繰り返しと、漠然とした寂寥感だけ。あの鮮やかな記憶の残響は、どこにもなかった。
調査は行き詰まった。自分は一体、何を追いかけているのだろう。他人の幸福な記憶の断片に、なぜここまで執着しているのか。湊は、机の上の赤い長靴を見つめた。それは、彼の孤独な部屋の中で、唯一、温かい光を放つ存在だった。この光の源を突き止めなければ、自分の日常はもう元には戻れない。そんな確信だけが、彼の心を支配していた。
第三章 アルバムの中の「僕」
焦燥感が募る日々が過ぎていった。赤い長靴の記憶は、繰り返し湊の夢に現れた。陽光、笑い声、そして「また明日ね」という約束の言葉。それは甘美であると同時に、決して手の届かない過去の幻影として彼を苛んだ。
ある日、湊が働く古書店の店主が、棚の整理をする彼の背中に声をかけた。
「水島くんは、時々、ひどく遠い目をするね。何か、失くしものでも探しているのかい?」
老店主の何気ない一言が、湊の胸に鋭く突き刺さった。失くしもの。そうだ、自分はずっと何かを探している。それは、赤い長靴の持ち主だけではない。もっと根源的な、自分自身の何かを。この能力を得てから、他人の感情の奔流にのまれないよう、自分の感情や過去にさえ蓋をしてきた。自分は、一体何者なのだ?
その日の帰り道、湊はいつものようにゴミ集積所を通りかかった。目的もなく、ただぼんやりとゴミの山を眺めていた。その中に、見覚えのある模様のゴミ袋があった。千代がいつも使っている、小さな花柄の袋だ。いつもなら素通りする。他人の生活の残骸に、これ以上踏み込みたくなかった。しかし、その日は何かに導かれるように、袋の口から覗く硬い表紙に目が留まった。
それは、分厚いアルバムだった。
ためらいは一瞬だった。湊は、まるで盗人のように素早くそれを抜き取ると、コートの下に隠して足早にその場を去った。部屋に戻り、心臓の鼓動を鎮めるように深く息を吸う。そして、震える指でアルバムの表紙に触れた。
瞬間、これまでの残響とは比較にならないほどの、巨大な情報の津波が彼を襲った。
いくつもの光景が、凄まじい速度で脳内を駆け巡る。赤ん坊の泣き声。よちよち歩きの足元。初めて自転車に乗れた日の、誇らしげな笑顔。七五三の記念写真。その全てが、一つの家族の、愛に満ちた歴史を物語っていた。そして、その中心にいるのは、いつも同じ少年だった。
ページをめくるように記憶を辿っていく。場面は、ひだまり公園に切り替わった。砂場で遊ぶ、赤い長靴を履いた少年。見守る、今よりもずっと若い千代。
『ばあば、見てて!』
あの声だ。間違いない。
だが、次の瞬間、湊は息を呑んだ。アルバムの中の千代が、少年に向かってこう呼びかけたのだ。
『湊ちゃん、気をつけてね』
――みなとちゃん?
湊。それは、自分の名前だ。
全身の血が凍りつくような感覚。混乱する頭で、湊はさらに記憶の深淵へと潜った。引越しのトラック。泣きじゃくる自分。トラックの窓から、千代が手を振っているのが見えた。自分も必死に手を振り返した。その時、足元に違和感を覚えた。いつも履いていたはずの赤い長靴が、片方だけない。
『ばあば! また明日ね!』
幼い自分が、涙声でそう叫んでいた。千代も泣きながら、何度も頷いていた。
『ええ、また明日、湊ちゃん』
それが、最後だった。
全ての光景が、一本の線で繋がった。赤い長靴の持ち主は、見ず知らずの少年ではなかった。幼い頃の、水島湊自身だったのだ。
湊は、その場に崩れ落ちた。忘却の彼方に押しやっていた記憶。両親の離婚で、母親に連れられて、隣町に住む大好きだった「ばあば」――母方の祖母の友人だった千代さん――に別れも告げられずに引っ越した日の記憶。千代さんは、実の孫のように自分を可愛がってくれた、たった一人の理解者だった。
湊がゴミ袋から拾ったあの赤い長靴は、引っ越しの日に彼がなくした片割れだった。千代さんは、それをずっと、ずっと大切に持っていてくれたのだ。そして、湊が触れて感じたあの温かい記憶は、千代さんがその長靴を撫でながら、遠い日の「湊ちゃん」を思い出していた、彼女自身の記憶の残響だった。
最近になって認知症が進み、記憶が混濁し始めた千代さんは、ついにその宝物さえも、他のガラクタと一緒に捨ててしまったのだ。
湊は、自分の机の上にある赤い長靴を手に取った。涙が、止めどなく頬を伝い、ゴムの表面を濡らした。これは、他人の記憶ではなかった。置き去りにしてきた自分自身の過去であり、自分に向けられた愛情の証だった。能力を呪いだと感じていた。だが、この呪いこそが、失われた記憶の糸をたぐり寄せ、奇跡的な再会へと導いてくれたのだ。
第四章 また明日、が聞こえた日
翌日、湊は古書店を休んだ。片方の赤い長靴と、シミの浮いた古いアルバムを大切に抱え、千代のアパートのドアの前に立っていた。呼び鈴を押す指が、わずかに震える。自分は何を伝えればいいのだろう。彼女は、もう自分のことを覚えていないかもしれない。それでも、伝えなければならないことがある。
ドアがゆっくりと開き、千代が顔を覗かせた。その表情は、いつもの公園での穏やかなものだったが、目の前に立つ湊を見て、かすかに戸惑いの色を浮かべた。
「……公園の」
「ご迷惑かと思いましたが、どうしてもお渡ししたいものがあって」
湊は、震える声でそう言うと、赤い長靴とアルバムをそっと差し出した。
千代は、怪訝そうな顔でそれを受け取った。そして、古びたアルバムの表紙を、皺の刻まれた指でゆっくりと撫でた。その瞬間、彼女の瞳が大きく見開かれた。時間が、止まったように感じられた。彼女の視線は、アルバムと湊の顔との間を、何度も、何度も往復した。
「……あなたは」
かすれた声が漏れる。湊は、こみ上げてくる感情を抑え、まっすぐに彼女の目を見つめた。
「僕です。湊です。千代さん」
千代の唇が、わなないた。瞳の奥で、失われた記憶の欠片が、必死に像を結ぼうとしているのが分かった。彼女は、赤い長靴を手に取り、その小さな形を確かめるように、愛おしそうに撫でた。
「この長靴……。あの子は、いつもこれを履いて、砂場で……」
言葉が途切れる。長い、長い沈黙が流れた。湊は、ただ静かに待った。
やがて、千代は顔を上げた。その瞳には、薄い涙の膜が張っていた。記憶は完全には戻らないのかもしれない。それでも、彼女の心の奥深くに眠っていた何かが、確かに目を覚ましたのだ。
「……おかえりなさい、湊ちゃん」
そのか細い、しかし確かな響きを持った言葉を聞いた瞬間、湊の心の壁は、音を立てて崩れ落ちた。
その日、湊は千代の部屋で、何時間も話をした。アルバムを一枚一枚めくりながら、忘れていた自分の幼い日々を、千代の途切れ途切れの言葉と共に拾い集めていった。千代の記憶はまだら模様だったが、彼女が語る思い出の断片は、どれも陽だまりのような温かさに満ちていた。
帰り際、湊は玄関で振り返った。
「また、来ます。明日」
千代は、ドアのそばに立ち、赤ん坊にするように優しく長靴を抱きしめながら、静かに、そして深く頷いた。その皺だらけの顔には、この数週間、湊がずっと探し求めていた、あの記憶の中と同じ柔和な微笑みが浮かんでいた。
街の夕景が、オレンジ色に染まっている。湊は、もうゴミの残響を恐れてはいなかった。世界は、無関心と諦めだけでできているわけではない。捨てられたモノたちの中にも、誰かの愛した記憶が、声なき声となって眠っている。
彼の能力は、呪いではなかった。それは、置き去りにされた愛を拾い上げ、失われた繋がりを再び結ぶための、ささやかな奇跡だったのだ。湊は、明日もまた、夜明け前に街へ出るだろう。しかし、それはもう孤独な儀式ではない。世界に散らばる温かい残響を探す、希望に満ちた日々の始まりだった。彼の足取りは、驚くほど軽やかだった。どこか遠くで、「また明日」という優しい声が聞こえたような気がした。