時の澱に眠る言祝ぎ(ことほぎ)

時の澱に眠る言祝ぎ(ことほぎ)

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第一章 触れることのできない感情

水島湊(みずしまみなと)の世界は、音のない感情で満ちていた。彼が古道具屋「時の澱(ときのおり)」の引き戸に手をかけると、ひんやりとした木の感触と共に、幾人もの客が残した「期待」や「落胆」の微かな残滓が流れ込んでくる。湊には、人が触れたモノに残る、最後の感情を読み取る力があった。

それは呪いであり、ささやかな救いでもあった。街を歩けば、手すりや吊り革、自販機のボタンに残る無数の感情のノイズに眩暈がする。苛立ち、焦燥、虚無感。他人の生の感情は、湊にとって強すぎる奔流だ。だから彼は、持ち主を失い、長い時間をかけて感情の角が丸くなった古道具に囲まれるこの仕事を愛していた。ここにあるモノたちの感情は、まるで陽だまりで微睡む猫のように静かで、穏やかだった。

「湊くん、ちょっと頼めるかい」

店の奥から顔を出したのは、店主の佐伯さんだ。猫背の好々爺然とした老人だが、その目はいつも品物の来歴を見抜くように鋭い。彼が指差したのは、昨日運び込まれたばかりの雑多な品が入った木箱だった。

「ああ、例の療養所の引き取り品だね。整理、お願いするよ」

「はい」

湊は頷くと、布を被せた作業台に木箱を置いた。埃っぽい匂いの中に、消毒液と古い木の香りが混じっている。一つ一つ、丁寧に品物を取り出し、布で拭いていく。古い医療器具、黄ばんだ書籍、手鏡。それぞれに、「諦め」や「郷愁」といった、淡く沈んだ感情が宿っている。療養所という場所柄、仕方のないことだった。湊はそれらの感情に静かに寄り添い、拭き清め、棚に並べていく。それが彼の仕事であり、弔いにも似た儀式だった。

その時、箱の底で何かがカタンと音を立てた。他の品物の下に埋もれていたのは、一台の小さな木製のオルゴールだった。彫刻も何もない、素朴な長方形の箱。表面はところどころ傷つき、ニスも剥げ落ちている。湊はごく自然にそれを手に取った。

次の瞬間、彼の全身を、経験したことのないほど鮮烈で、純粋な感情が貫いた。

それは、「安堵」だった。長い、長い旅路の果てに、ようやく故郷の我が家にたどり着いた旅人のような、深いため息の出るような安堵感。そして、その奥から湧き上がってくるのは、どこまでも温かく、澄み切った「感謝」の念だった。

「ありがとう。やっと、会えた」

そんな声が聞こえた気さえした。湊は思わずオルゴールを胸に抱きしめていた。涙が滲みそうになるほどの、圧倒的な肯定感。

彼は混乱した。このオルゴールは、閉鎖された療養所の遺品のはずだ。長い闘病の末に、ここで息を引き取った人も少なくなかっただろう。そんな場所から出てきた品に、なぜこれほどまでに幸福な感情が宿っているのか。まるで、待ち望んだ奇跡が起きた瞬間のようだ。

湊はネジを巻いてみたが、錆びついているのか固くて回らない。鳴らないオルゴールに込められた、謎めいた幸福感。彼の静かな日常に、一つの小さな、しかし無視できない波紋が広がった瞬間だった。

第二章 失われた旋律の行方

その日から、湊の心は鳴らないオルゴールに囚われてしまった。仕事の合間に、彼は何度もその木箱に触れた。触れるたびに、あの温かい「安堵」と「感謝」が、寄せては返す波のように彼を包む。それは心地よくもあったが、同時に彼の探究心を激しく掻き立てた。この感情の源流には、一体どんな物語が眠っているのだろうか。

「佐伯さん、このオルゴールについて、何かご存知ですか」

昼下がり、客足が途絶えたのを見計らって、湊は店主に尋ねた。佐伯さんは焙じ茶をすすりながら、オルゴールを検分する。

「ああ、あれか。確か『海風の丘療養所』の閉鎖時にまとめて引き取ったものの一つだな。もう三十年以上も前の話だ。持ち主までは、さすがに……」

「海風の丘療養所……」

湊はその名前を反芻した。手がかりはそれだけだった。その日の仕事を終えると、湊は市立図書館の郷土資料室へと向かった。

古い新聞の縮刷版や、閉架書庫から出してもらった市の記録を何時間もめくった。指先がインクと古紙の匂いに染まる頃、「海風の丘療養所」に関する一冊の私家版の文集を見つけ出した。元職員が退職後にまとめた、ささやかな回顧録だ。その中に、彼の心を捉える一節があった。

『……結核病棟には、千尋(ちひろ)という名の少女がいた。いつも窓から海を眺め、恋人から贈られたというオルゴールを大切にしていた。病状が悪化してからは、彼女がそのオルゴールを鳴らすことはなかったが、ただ、慈しむように撫でている姿が思い出される。彼女は二十歳になる年の冬、静かに息を引き取った……』

千尋。湊の胸が高鳴った。これだ。このオルゴールは、きっと彼女のものだ。

しかし、新たな謎が生まれる。若くして亡くなった彼女が、なぜこれほどの「安堵」と「感謝」をオルゴールに残したのか。恋人との思い出の品だとしても、病に倒れ、会うことも叶わなかったのなら、そこに宿るのは「悲しみ」や「未練」であるはずだ。湊がこれまで触れてきた、持ち主を失った品々の感情と同じように。

湊はさらに調査を進めた。役所の戸籍係に事情を話し、古い記録を調べさせてもらうと、彼女の没年や家族構成が判明した。その中に、療養所に入所する直前まで交際していたという男性の名前も見つかった。湊は、その男性がまだ存命であれば、何か知っているかもしれないと考えた。しかし、記録によれば、彼は千尋が亡くなった数年後、事故で他界していた。

手がかりは途絶えたかに見えた。オルゴールに宿る感情と、千尋という少女の悲しい生涯。二つの事実は、まるで水と油のように混じり合わず、湊の心の中で乖離し続けていた。彼は途方に暮れながら、古びたオルゴールの木肌をそっと撫でた。やはり、温かい感情が流れ込んでくる。それはまるで、迷子の湊を「大丈夫だよ」と励ますかのようだった。

第三章 時を超えた贈り物

諦めきれない湊は、最後の望みをかけて、再び「海風の丘療養所」の跡地を訪れた。高台にあった建物は既に取り壊され、今は雑草の生い茂る空き地が広がるばかりだ。潮風が、かつてここに満ちていたであろう人々の溜息を運び去っていくようだった。

何も見つからないまま、とぼとぼと坂を下りかけた時、ふと、空き地の隅に小さな石碑が建てられているのが目に入った。療養所で亡くなった人々を偲ぶ、ささやかな慰霊碑だった。その傍らに、風雨に晒された小さな地蔵があり、その足元に、誰かが供えたらしい古びたブリキの缶が置いてあった。

何かに引かれるように、湊は缶を手に取った。錆びた蓋をこじ開けると、中にはビニールに包まれた数枚の紙片が入っていた。それは、千尋が残した日記の断片だった。おそらく、彼女の死後、遺品を整理した家族が、人目に触れぬようここに供えたのだろう。

湊は震える手で、黄ばんだ紙片を広げた。インクは滲み、文字はか細かったが、懸命に綴られた言葉がそこにはあった。

『……もう、長くはないと先生に言われた。この身体では、あの人の元へは帰れない。悲しい。寂しい。でも、泣くのはもうやめる。私がこの世から消えても、私が生きていた証は、このオルゴールの中に残る。あの人がくれた、大切な宝物だから』

日記は続く。

『もし、このオルゴールが、私の知らない誰かの手に渡る時が来たら。その人が、もし私のように、孤独だったり、心に静けさを求めている人だったとしたら。私の悲しみや苦しみで、その人を曇らせたくない。だから、私の最後の想いは、未来のあなたへの贈り物にしようと決めた』

湊は息を飲んだ。心臓が早鐘を打つ。

『このオルゴールに触れてくれた、未来のあなたへ。

見つけてくれて、ありがとう。

あなたに会えたこと、それが私の安堵です。

あなたの心が、どうか穏やかでありますように。

私の代わりに、美しい世界をたくさん見てください。

心からの感謝を込めて。

千尋』

湊はその場に膝から崩れ落ちた。全身から力が抜け、日記の紙片を握りしめたまま、空を仰いだ。

そういうことだったのか。

彼が読み取った「安堵」と「感謝」は、千尋が恋人や過去の思い出に向けたものではなかった。それは、時を超え、空間を超え、いつかこのオルゴールに触れるであろう、見ず知らずの誰か――今、ここにいる水島湊、その人に向けられた、あまりにも純粋で、途方もない優しさの結晶だったのだ。

モノに残るのは「最後の感情」だと思い込んでいた。だが、違った。それは「最後の願い」でもあり得たのだ。彼の能力の前提が、根底から覆された。彼はこれまで、過去から流れてくる感情の奔流を受け止める、孤独な受信者でしかなかった。だが今、初めて、時を超えて届けられた「手紙」を受け取ったのだ。送り手の明確な意志と、祈りを受け取ったのだ。

千尋という少女は、自らの死の淵で、絶望の代わりに、未来の誰かの幸福を祈った。その祈りが、三十年の時を経て、今、彼の胸に届いた。

湊の頬を、熱い涙が止めどなく伝っていった。それは、悲しみの涙ではなかった。

第四章 世界は静かな想いで満ちている

店に戻った湊は、まるで宝物を扱うかのように、オルゴールを作業台に置いた。彼は何時間もかけて、丁寧に、根気強く、錆びついた部品を磨き、油を差し、調整を重ねた。これはもう、単なる古道具の修理ではなかった。時を超えて届いた手紙への、彼からの返信だった。

夜が更け、店の窓から差し込む月明かりが、彼の指先を照らす頃。ついに、固く閉ざされていたネジが、ゆっくりと回り始めた。カチ、カチ、と心地よい音を立ててゼンマイが巻かれていく。湊は息を殺して、蓋を開けた。

――ポロン……ポロロン……

かすれてはいたが、信じられないほど優しく、穏やかなメロディが流れ出した。それは、寄せては返す波のように、静かで、どこか懐かしい旋律だった。湊は目を閉じ、その音色に耳を澄ませる。千尋の祈りが、旋律となって彼の心に満ちていくようだった。ありがとう、と彼は心の中で呟いた。僕が、受け取ったよ。

翌日、湊は店の奥の、自分の私物が入った箱から、一本の古い万年筆を取り出した。それは彼が小学生の頃、亡くなった祖父からもらった、唯一の形見だった。祖父が亡くなった直後、悲しみに暮れる中で一度だけ触れてしまい、その時に流れ込んできた強烈な「無念」と「苦しみ」の感情に打ちのめされて以来、彼は二度とこの万年筆に触れることができなかった。祖父の最期の感情に触れるのが、怖かったのだ。

だが、今は違う。

湊は深く息を吸い、そっと万年筆を握りしめた。

流れ込んできたのは、予想していた苦しみではなかった。確かに、病への無念の情はあった。しかし、その奥深くから、もっと大きく、温かい感情が湧き上がってきた。

それは、幼い孫である自分に向けられた、「誇り」と「期待」の感情だった。

――お前なら、大丈夫だ。強く、優しく生きろ。

声なき声が、祖父の温かい手のひらが、時を超えて湊の心を包み込んだ。最後の感情は、一つではなかった。それは複雑で、多層的で、そして何よりも、愛に満ちていた。

湊の目から、また涙が静かにこぼれ落ちた。今度は、自分自身の為の涙だった。彼は万年筆を胸に当て、窓の外に目を向けた。人々が行き交い、車が走り、陽光がアスファルトを照らす、ありふれた日常の風景。

しかし、その光景は、昨日までとは全く違って見えた

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