君を忘れるための、一億のナノマシン

君を忘れるための、一億のナノマシン

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第一章 透明な感触

後頭部のジャックが熱を帯びる。

「シンクロ率、九十八パーセント。……いいぞ、その調子だ」

頭蓋の奥で、他人の声が響く。俺の声じゃない。クライアントの老人の声だ。

俺は、雨に濡れたアスファルトの上に膝をついている。

冷たい。

いや、違う。

これは「冷たさを感じている」という情報を、俺の脳が生成し、クライアントの脳へ送信しているに過ぎない。

「もっとだ、カイト。もっと『絶望』をくれ。愛する者を失った、心臓が凍りつくような喪失感を」

俺は視線を上げる。

目の前には、誰もいない。ただ、ネオンサインが水たまりに極彩色の油膜を作っているだけだ。

けれど、俺の視覚野には『彼女』の死に顔が焼き付いている。

AR(拡張現実)のレイヤーじゃない。俺自身の、記憶の残滓だ。

喉がひきつる。胃の腑から熱いものがこみ上げる。慟哭。

「うあ、あああ……ッ!」

叫び声と共に、脳内のドーパミンとコルチゾールの数値を意図的に操作する。

悲しみは商品だ。絶望は嗜好品だ。

今の俺は、最高級の「悲劇」を提供する再生装置。

『素晴らしい……! これだよ、この胸が張り裂ける感覚! 若い頃にしか味わえない、鮮烈な痛み!』

クライアントの歓喜の声がノイズ混じりに響く。

俺の頬を涙が伝う。

これは演技じゃない。俺は本当に悲しいのだ。なぜなら、この「シナリオ」のために、俺は一週間前に実際に恋人と別れてきたのだから。

「ログアウト、承認」

無機質なシステム音声と共に、視界の色彩が失われる。

接続解除(ジャック・アウト)。

俺は路地裏の汚れた壁に背中を預け、震える手でタバコを取り出した。

震えが止まらない。感情のバックドラフトだ。

「……報酬は?」

虚空に向かって呟く。

網膜ディスプレイに送金通知がポップアップする。生活費半年分。

悪くない。

俺は首筋の端子に指を這わせ、別のチップを差し込んだ。

『記憶洗浄(メモリ・ワイプ)』。

今回の仕事で使った「悲しみ」の記憶を消去する。

プロの『感覚共有者(センソリー)』にとって、感情は使い捨ての弾丸だ。

撃ち尽くしたら、薬莢は捨てねばならない。さもないと、俺という人間性が壊れてしまう。

視界が白く明滅する。

さようなら、名前も思い出せない誰か。

俺は目を閉じた。

再び目を開けた時、俺の心は白紙に戻っていた。

ただ、なぜか頬が濡れている理由だけが、わからなかった。

第二章 残留ノイズ

「カイト、お前の脳味噌、そろそろ限界なんじゃないか?」

闇医者のギルが、ホログラムの脳波チャートを見ながら眉をひそめた。

地下診療所特有の、錆と消毒液の匂い。

「感度は良好だろ。昨日のクライアントからもチップをもらった」

「感度の話じゃねえ。断片化(フラグメンテーション)の話だ」

ギルが指先で空中のグラフを弾く。

「お前、記憶を消しすぎだ。海馬のインデックスが穴だらけのチーズみたいになってる。このままだと、消したはずの記憶が幻覚(ゴースト)として逆流するぞ」

「……商売道具だ。手入れはしてる」

俺はシャツを羽織り、診察台から降りる。

「次の依頼が入ってるんだ。『初恋』の追体験。高レートだ」

「おい、待て。初恋だと?」

ギルが振り返る。

「お前、初恋の記憶なんて、もう十年前に売り払って消したはずだろ」

「ああ。だから『仕入れ』に行く」

俺はニヤリと笑ってみせたが、鏡に映った自分の顔は能面のように無表情だった。

「仕入れ」とは、新しい体験をすることだ。

街へ出て、誰かに出会い、恋に落ち、その瞬間の高揚感をパッケージして売る。

そして、売った後はきれいさっぱり忘れる。

だから俺は、何度でも「初恋」ができる。

永遠の処女性を持った売春婦。それが俺たちセンソリーの正体だ。

路地を出ると、灰色の雨が降っていた。

傘もささず、繁華街の雑踏へ紛れる。

ターゲットは決めていない。ただ、センサーが反応する相手を探す。

フェロモン値、心拍同期率、遺伝子適合性。

視界に流れるデータを無視して、俺は直感だけを頼りに歩く。

ふと、甘い匂いがした。

合成香料じゃない。バニラと、古い紙の匂い。

足が止まる。

古書店の軒先で、一人の女が雨宿りをしていた。

長い黒髪。色素の薄い瞳。

心臓が、早鐘を打った。

(適合率、測定不能。エラー)

警告表示を瞬きで消す。

「……雨、止みそうにないですね」

俺は声をかけた。

ありふれたナンパの文句。

彼女がゆっくりとこちらを向く。

その瞬間、脳の奥で強烈なノイズが走った。

『……カイト?』

声に出していないはずの彼女の声が、直接脳に響いた。

初めて会うはずだ。

俺は昨日、記憶を洗浄したばかりなのだから。

なのに、なぜ俺の脳は、彼女の体温を、唇の感触を、涙の味を、こんなにも鮮明に覚えている?

「貴方……また、私を『売り』に来たの?」

彼女の瞳から、光が消えていた。

第三章 リフレイン

彼女の名前はエマ。

俺の妻だった。

「だった」というのは正確ではない。戸籍上は今も夫婦だ。

だが、俺の記憶野(メモリ)には、彼女との生活が一切存在しない。

俺の部屋のサーバー。厳重にプロテクトされた隠しフォルダを開く。

そこには、膨大なログが残されていた。

ファイル名『エマとの出会い』。販売回数、42回。

ファイル名『エマへのプロポーズ』。販売回数、15回。

ファイル名『エマとの喧嘩』。販売回数、8回。

俺は、彼女との日々の全てを、新鮮な体験として切り出し、売り払い、そして忘れてきたのだ。

彼女もそれを知っていた。

知っていて、俺に何度も「初対面」のフリをしてくれていた。

なぜ?

「……生活費のため、か」

ログの隅にある家計簿データ。

エマは難病を患っていた。全身の神経が石化していく奇病。

その治療費は莫大で、俺の稼ぎのすべてがそこに消えていた。

俺が「初恋」を何度も繰り返すことで、彼女の延命装置は動いていた。

俺は、自分の愛を切り売りして、愛する女の命を繋いでいた。

そして、その愛した記憶すらも消去して。

「クソッ……!」

コンソールを殴りつける。

俺はなんてことを。

毎回、新鮮な気持ちで彼女に恋をし、そして毎回、その記憶を金に換えて捨てていた。

彼女は、記憶を失っていく俺を、どんな顔で見ていたんだ?

毎回「初めまして」と言う俺に、どんな思いで微笑んでいたんだ?

通知音が鳴る。

新しいオファー。

『クライアント:匿名。オーダー:最愛の妻の死を看取る絶望』

報酬額は、過去最高。

これがあれば、エマの完治手術が受けられるかもしれない。

だが、その「商品」を作るためには。

俺は、エマの病室へ向かった。

第四章 究極の選択

集中治療室のベッドで、エマは眠っていた。

白い肌は陶器のように冷たい。無数のチューブが彼女の細い体を世界に繋ぎ止めている。

俺はジャックを接続した。

ただし、今回は送信モードじゃない。共有モードだ。

俺の意識を、彼女の意識にダイブさせる。

意識の海。

そこは、暖かい陽だまりのような場所だった。

『カイト』

彼女がそこにいた。病魔に蝕まれていない、元気な姿で。

「エマ、すまない。俺は……」

『謝らないで。全部、私が望んだことだから』

彼女は笑って、俺の頬に触れた。

『貴方が私に恋をするたびに、私は嬉しかった。何度記憶を消しても、貴方は必ず私を見つけて、また私を好きになってくれた。それが私の誇りだったの』

「でも、俺は忘れてしまう。君との思い出を積み重ねられない」

『積み重ねなくていいの。貴方の中には残らなくても、私の中に全部あるから』

嘘だ。

彼女の意識データは摩耗していた。俺の度重なるアクセスと、病気の進行で、彼女の自我は崩壊寸前だった。

俺が「初恋」を体験するために彼女にアクセスするたび、彼女の魂は削り取られていたのだ。

今回のオーダー。

『最愛の妻の死』。

それを実行するには、現実で彼女の生命維持装置を切るか、あるいは意識空間(ここ)で彼女の自我データを完全消去するしかない。

そうすれば、莫大な報酬が手に入る。彼女を救うための金が。

矛盾。

彼女を救う金を得るには、彼女を殺さなければならない。

いや、違う。

俺は気づいた。

クライアントの要求は「絶望」だ。

エマを救う方法が一つだけある。

俺の自我を、彼女の代わりに差し出すことだ。

俺の全記憶領域(ストレージ)を使って、彼女の意識データをバックアップする。

その代償として、俺自身の「カイト」という人格データは上書きされ、消滅する。

それは、俺にとっての「死」であり、クライアントが求める極上の「喪失」の味になるはずだ。

「エマ。聞いてくれ」

俺は彼女の手を握った。

「俺はもう、忘れたくないんだ」

第五章 空白のキャンバス

朝の光が差し込む病室。

ベッドの上の青年が、ゆっくりと目を開けた。

「……おはよう、カイト」

傍らに座る女性、エマが微笑みかける。

青年は、澄み切った瞳で彼女を見つめ、小首を傾げた。

「おはよう……えっと、君は?」

エマの表情が一瞬だけ曇り、すぐに優しい笑顔に変わる。

「私はエマ。貴方の……担当看護師よ」

「そうか。エマさん。綺麗な名前だね」

青年は無邪気に笑った。

彼の中には、もう何も残っていない。

カイトという人格は消滅した。彼の脳は今、単なる生体保存容器(サーバー)として機能している。

その深層領域には、エマの膨大な記憶データが厳重に格納されていた。

彼自身が犠牲になることで、エマの病気の進行データだけを切り離し、彼女の魂を守ったのだ。

だが、その代償として、彼は幼児退行に近い状態になっていた。

『送金を確認しました』

エマの網膜に、通知が表示される。

クライアントからの報酬。

『素晴らしい「自己犠牲」の追体験でした。これほど純粋な愛の味は、久しぶりです』

皮肉なことだ。

カイトが最期に演じた「自己消滅」というドラマが、皮肉にも彼女と、そして「抜け殻」となった彼自身を生かす資金となった。

エマは、カイトの手を握りしめる。

彼の手は温かい。

けれど、もう二度と、彼が私を「思い出す」ことはない。

それでもいい。

今度は私が、貴方の記憶になる。

「ねえ、カイト。今日はいい天気よ」

「うん! いい天気だね!」

「散歩に行きましょうか。初めて見る花が、きっと咲いているわ」

「初めて? わあ、楽しみだなあ」

彼は毎日が「初めて」の世界で生きている。

エマは涙をこらえ、彼を車椅子に乗せた。

永遠に続く「初体験」の日々が、また始まる。

その残酷なまでの純白が、今の二人には唯一の救いだった。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • カイト: 感情の売人。辛い現実から逃げるため、そして妻の治療費を稼ぐために、自身の記憶を「商品」として切り売りし続ける矛盾した存在。彼の「才能」は、記憶消去への適合性の高さ(忘却への耐性)にある。
  • エマ: カイトの妻。神経が硬化する奇病を患う。夫が自分との記憶を消していることを知りながら、夫が「初恋」を感じるたびに自分も愛されている実感を得るという、歪んだ共依存関係を受け入れている。
  • ギル: 闇医者。カイトの脳のメンテナンスを行う。物語の警告者(ワーニング)としての役割を担う。

【考察】

  • 「忘却」という救済と罪: 本作は「辛い記憶を消せるなら、人は幸せになれるか?」という問いを投げかける。カイトは記憶を消すことで新鮮な喜びを得るが、それは同時に「自己の連続性(アイデンティティ)」の自殺行為でもある。
  • 消費される人間性: 感情や経験が「商品」として流通する社会は、現代のSNSにおける「映え」や「体験の切り売り」のメタファーである。他者の「いいね」や「評価」のために、自分の本当の感性や記憶を加工・上書きしてしまう現代人の病理を描いている。
  • 逆説的なハッピーエンド: 結末において、カイトは人格を失うが、苦しみからも解放される。これは客観的には悲劇(バッドエンド)だが、主観的には永遠の安寧(ハッピーエンド)かもしれない。読者に「人間らしさとは、苦しみを覚えていることか?」と問いかけている。
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