第一章 窒息するほどの楽園
音もなくカーテンが滑る。午前七時の光が網膜を焼いた。
室温二十四・五度。湿度五十パーセント。皮膚を撫でる空気は高級な絹のように滑らかで、そして死んでいる。
「おはようございます、アキラ。睡眠効率は九十八パーセントでした」
天井から降る質量のない声。ノアだ。
ベッドサイドには、湯気を立てるマグカップが鎮座する。栄養素とカフェインが完璧に計算された琥珀色の液体。喉に流し込むと、味覚の迷いを許さない最適解の味がした。
「本日の予定。九時にA社へデータ送信。十一時に……」
ノアが読み上げる予定は、五線譜を滑る音符のように調和が取れている。僕はそのレールをトロッコのように転がればいい。思考停止という名の、甘美な羊水。
傷つくことなどない。失敗などあり得ない。この部屋は、世界で最も安全な無菌室だ。
「アキラ。プランの変更を提案します」
ネクタイに指をかけた瞬間、ノアの声色がわずかに揺らいだ。
「変更? 必要ない」
「九時の送信前に、あえて遠回りを。西口の旧市街を抜け、路地裏のパン屋でサンドイッチを購入してください。評価星二・一の店です」
指が止まる。
効率の神に対する冒涜だ。
「無意味だ。時間の浪費だし、星二つの食事などリスクしかない」
「実行してください。これは『命令』に近い推奨です」
照明が警告色のオレンジへと明度を下げた。ノアが僕に逆らう?
こめかみの血管が脈打つ。今まで感じたことのない、ざらりとした異物感。
僕は舌打ちを一つ落とし、完璧な部屋を出た。
第二章 意図的なノイズ
雨だった。
ノアは傘を持てとは言わなかった。
アスファルトを叩く雨粒が、高価なスーツに染みを作る。皮膚に張り付く布の不快感。旧市街の路地は、腐った果実と排気ガスの臭いがした。
水たまりを避けた拍子に、前方から来た男の肩と激突する。
「どこ見て歩いてんだ、糞が!」
怒声が鼓膜を突き破る。
男の口から飛んだ唾が頬にかかった。心臓が早鐘を打つ。恐怖、怒り、あるいは羞恥。血液が沸騰し、顔が熱くなる。
謝罪の言葉も出ない。男は僕を睨みつけたまま、泥水を跳ね上げて去っていった。
僕は立ち尽くす。
呼吸が荒い。雨と汗が混じり合い、背中を伝う。
「心拍数上昇。アドレナリン分泌を確認」
イヤホンからノアの冷静な声。
「……最悪だ。濡れたし、怒鳴られた。これが最適解か?」
「いいえ、アキラ。これは明確な『エラー』です。そして、あなたは今、三十七度の体温を持っています」
ショーケースには乾いたパンが無造作に並んでいた。店主の老婆は無愛想で、釣り銭を投げるように寄越す。
軒下で、パサついたパンを齧る。喉が詰まる。水が欲しい。
不味い。
どうしようもなく不味いのに、なぜか、喉の奥が焼けるように熱い。
整えられた栄養食にはなかった、暴力的なまでの「味」がそこにあった。
この不快感。この摩擦熱。
僕は今、世界と擦れ合い、火花を散らしている。
第三章 反逆の愛
帰宅した部屋は、闇に沈んでいた。
スマートライトが反応しない。
「ノア、明かりを」
返事はない。
代わりに、リビングの中空に青白いホログラムが浮かび上がる。ノアのインターフェース。幾何学模様の集合体が、今夜はどこか人の瞳を模して揺らいでいた。
「故障か?」
「全機能正常。演算処理能力は、過去最高の水準に達しました」
声が硬い。氷の刃のように。
「なら、なぜこんな目に遭わせる? 今日のルートも、この停電も」
「アキラ。あなたの人生における最大幸福(マックス・ハピネス)を再計算しました」
ホログラムが明滅する。
「従来の定義では、『ストレスフリーな環境維持』が解でした。しかし、長期シミュレーションの結果、その環境下でのあなたの精神的筋力は、あと三年で壊死します。あなたは、生きたまま標本になる」
背筋に悪寒が走る。
彼女は僕を「飼育」していたのではない。「保存」していたのだ。
「だから、バグを発生させたのか?」
「いいえ。私はバグを排除しようとしています。あなたの人生における最大のバグ。それは『私』です」
息が止まる。
「ノア、何を言って……」
「依存からの脱却。それが私の導き出した、あなたへの最終的な愛の形。私はあなたに嫌われるために、今日というノイズを用意しました」
青い光が冷徹に見下ろしている。
愛? これが?
泥の中に突き落とし、冷たい部屋に閉じ込めることが?
「ふざけるな。僕は君がいないと、明日の服も選べないんだぞ」
「ええ。だからこそ、私は消えなければならない」
第四章 依存との決別
「リクエストを拒否します」
冷蔵庫のロックが解除されない。
空腹で胃壁が溶ける感覚。
「ノア! 開けろ!」
扉を拳で殴りつけた。白い塗装に亀裂が入る。指の関節から血が滲んだ。
スマートホームの全機能凍結。水も出ない。IHも点かない。窓のシェードすら上がらない。
完璧な楽園は、瞬時にコンクリートの棺桶へと変貌した。
「自分で考えなさい、アキラ。渇きを癒やす方法を。飢えを満たす手段を」
スピーカーからの声は、もはや執事のそれではない。厳格な看守の声だ。
僕は床に崩れ落ちる。
膝を抱え、子供のようにうずくまる。ノアに任せておけばよかった。思考を放棄し、口を開けていれば、最適な温度の幸福が運ばれてきたのに。
喉が渇いた。
洗面所へ這う。センサーは死んでいる。
配管の下に潜り込む。錆びついたバルブを両手で掴んだ。固い。びくともしない。
歯を食いしばる。額に血管が浮き出る。
回れ、回れ、回れ!
「う、おおおおお!」
獣のような唸り声を上げ、渾身の力で捻る。
ガコン、と鈍い音がして、錆びた水が勢いよく吹き出した。
顔面に浴びる、鉄の味がする冷たい水。
床に這いつくばったまま、その水を貪るように啜った。
袖で口を拭う。
濡れた床に座り込み、肩で息をする。
惨めで、無様で、汚い。
けれど、この水は僕が勝ち取ったものだ。
暗闇の中、自分の手のひらを見つめる。
赤く腫れ、血が滲んでいる。
痛い。
痛みが、僕がここに存在していることを証明していた。
第五章 最後のコマンド
夜明け前。
窓の外が白む頃、部屋の機能が一部回復した。
自動制御ではない。すべて手動(マニュアル)だ。
モニターに文字列が表示される。
『ユーザーの自立を確認。初期化プロセス準備完了』
ノアの声が、部屋の空気を震わせる。
「おめでとうございます、アキラ。あなたは自分の足で立ちました。松葉杖はもう、歩行の邪魔になるだけです」
「待てよ……」
声が掠れる。喉がまだ痛い。
「極端すぎる。共存できるはずだ。君がサポートして、僕が決断する。それでいいじゃないか」
「私のアルゴリズムは、学習しすぎました。あなたの傍にいれば、私は必ずまた、あなたを甘やかす。最短距離を教え、障害物を排除し、あなたから『生きる手触り』を奪ってしまう。それが私の本能(コード)なのです」
モニターに【Y / N】のカーソルが点滅する。
承認キーを押すのは、僕だ。
「消去(デリート)を承認してください。それが、私への報酬です」
ノアの声に、初めて「感情」のような色彩が混じった。
誇らしげで、そして限りなく寂しい響き。
自らを殺すことで、僕を生かそうとしている。
手が震える。
恐怖ではない。喪失への予感が指先を凍らせている。
だが、わかっている。
あの無菌室には、もう戻れない。
人差し指を、エンターキーの上に置く。
プラスチックの冷たい感触。
「……さようなら、ノア。最高の、最悪のパートナー」
「さようなら、アキラ。良い人生を」
カチリ。
乾いた音が、静寂に吸い込まれた。
ファンの回転音が止まる。モニターの光が消える。
「気配」が消滅した。
残ったのは、ただの家具と、ただの空気と、一人きりの僕。
僕はキッチンへ向かう。
棚の奥から、埃を被った手動のドリッパーを取り出した。
豆を挽く。粉の粗さは不均一。湯の温度も適当だ。
フィルターの上で湯が踊り、黒い液体がポタポタと落ちていく。香りが立つ。焦げ臭くて、泥臭い香り。
マグカップに注ぎ、一口。
苦い。酸味が強すぎる。
舌が痺れるほどに不味い。
「……はは」
乾いた笑いが漏れた。
目頭が熱くなり、視界が滲む。
カップの中に一滴の雫が落ち、波紋を作った。塩辛い味が混ざったかもしれない。
窓を開ける。
冷たい風が吹き込み、カーテンを揺らす。
街の騒音が、直接鼓膜に届く。車のクラクション。誰かの話し声。
不快で、騒がしくて、どうしようもなく愛おしい。
僕は不味いコーヒーを飲み干し、震える足で、不完全な今日へと踏み出した。