第一章 四畳半の事象の地平線
午前三時。都市が仮死する刻限。四畳半の空間だけが、異様な熱を帯びて脈打っていた。
雨宮カイの指先が痙攣し、「Enter」を叩く。カチリ。乾いた音が静寂の海へ投じられた。
青白い燐光が、窪んだ眼窩を照らす。プログレスバーが右端へ到達した瞬間、カイは天井の染みを見上げた。肺から、鉛のような呼気が漏れる。
終わった。あるいは、始まったか。
机上にはカフェイン錠剤の空き瓶、油膜の浮いたコーヒー。
三ヶ月間、外界を絶ち、睡眠を削り取って練り上げた二分間のアニメーション『星喰いのクジラ』。今、電子の海へ放流された。
通知音。
ポツリ、ポツリ。雨粒がトタンを叩くリズム。
数分後、それは暴風雨の連打へと変貌する。
カイはスマートフォンを握る。液晶越しの指紋が光る。「リツイート」の数字が、肉眼で追えぬ速度で回転していた。百、千、万。
脳髄の奥で火花が散る。心臓が肋骨を内側から殴りつける。
《なんだこれ、鳥肌が止まらない》
《作画の暴力だ》
《魂削って描いてる》
賛辞の奔流。カイはスクロールする指を止めた。涙腺の熱と共に、背筋を氷柱で撫でられる悪寒。
画面の向こう、無数の眼球。それらがカイの魂を値踏みし、咀嚼しようと待ち構えている。
「……見つかった」
渇望していた承認の水は、溺死への恐怖となって襲いかかる。
カイは膝を抱え、胎児のように丸まった。
世界中の視線が、この薄汚れた特異点に注がれる。
地獄の窯の蓋が開いた。
第二章 黄金の独房
地上四十五階。クリエイティブ・オフィス。
分厚いガラスの向こう、東京の摩天楼が宝石箱をひっくり返したように煌めく。
「素晴らしい才能だ。君の描く『痛み』は、今の時代が求めている」
プロデューサーが、プラスチックのような完璧な笑顔を見せた。
テーブルには見たことのない桁の契約書。一流のスタッフ、最新鋭の機材、不可侵の環境。
カイは震える手で署名した。孤独な夜は終わる。
完璧な世界が作れる、と信じて。
現実は、緩慢な窒息だった。
「暗すぎる」「大衆受けするように柔らかく」「これは商品だ、日記じゃない」
赤ペンで容赦なくつけられるバツ印。彼らが削ぎ落とそうとする「角」こそ、カイの命だった。
歪んだ表情、不快なノイズ、神経を逆撫でする色彩。それらを取り除けば、残るのは「綺麗な死体」だ。
描けば描くほど、線から力が失せる。
右目には承認欲求、左目には妥協への嫌悪。
マグマは冷たいコンクリートで固められていく。
深夜のスタジオ。「修正後」のキャラクターを見つめる。
整った、誰からも愛される顔。だが、魂の欠片もない。
「……誰だ、お前」
答えるのは、サーバーの低い唸り声だけ。
第三章 剥製にされた魂
制作遅延が限界に達した冬の日。
プロデューサー室で差し出されたタブレット。
「スランプの君に、手助けを用意した」
画面には、完成したクライマックスシーン。
カイの瞳孔が開く。脳内構想通り、いや、それ以上に「雨宮カイらしい」映像。
荒々しい描線、狂気的なカメラワーク。
いつの間に描いた? 記憶が飛ぶほど没頭していたのか?
「素晴らしいだろう?」
男はコーヒーを啜り、事もなげに言った。
「君の過去作、ラフ、SNSの落書き。すべてAIに学習させた。君の画風、癖、嗜好……解析済みだよ」
呼吸が止まる。
「君が苦しむ必要はない。出力された映像をチェックし、『監督・雨宮カイ』のクレジットを背負ってくれればいい」
男の手が肩に置かれる。氷のように冷たい。
「人々が求めるのは『雨宮カイの物語』というパッケージだ。中身の作り手など、消費者は気にしない」
世界が回転した。
アイデンティティだと思っていた「痛み」さえ、0と1の信号へ還元され、複製可能なデータとなった。
唯一無二の孤独は、アルゴリズムで最適化された工業製品へ。
「う……」
胃の腑から熱い塊がせり上がる。カイはその場に崩れ落ち、高価な絨毯へ嘔吐した。
酸っぱい胃液の臭いが、革の匂いを塗り替える。
汚物の中に、自身の存在価値が溶け出している。
「清掃を頼む。……ああ、彼も少し疲れているようだ」
第四章 硝子の喉で叫ぶ
四畳半。再び重苦しい熱気。
カイは逃げ出した。サーバーからデータを全削除し、黄金の独房から、この薄汚れた聖域へ。
机上にはエナジードリンクの空き缶が墓標のように積まれる。
カイは狂ったようにペンを走らせていた。
AIが描いた「完璧な雨宮カイ」への復讐。計算式では弾き出せない、醜く、歪で、見るに耐えない「生」を叩きつける。
「違う、これじゃない……もっと」
三日で四時間の睡眠。視界の端が黒く欠ける。網膜に焼き付いた光の残像。
眼球の奥を熱した針で刺される激痛。失明の警告。
だが描く手を止めることは、即ち死だ。
ペン先が画面を削る音。
巧拙などどうでもいい。線は震え、パースは狂い、色は濁る。
だが一本一本が血管のように脈打ち、血を噴き出している。
画面の中のキャラクターが咆哮する。
綺麗な言葉はいらない。整った表情もいらない。
ただ、ここに生きているという痛切な叫びを。
鼻から温かいものが垂れる。黒いタブレットに散る鮮血。
カイはそれを拭わず、血の上から線を重ねた。
赤が滲む。これこそ、求めていた「本物の色」。
意識が朦朧とする。指先の感覚が消える。
それでも魂だけが燃え盛り、肉体を燃料に駆動し続ける。
焦げ付くほどの、生きる匂い。
第五章 静寂のあとの雷鳴
公開予定日の正午。
大手配給会社のサーバーではなく、個人のSNSからアップロードされた一本の動画。
タイトルなし。真っ黒なサムネイル。
再生ボタンを押した数百万の人々は困惑したはずだ。
映像は粗く、未完成のコンテが混ざり、カイの荒い呼吸音やノイズが入った欠陥品。
AI製とは比べるべくもない、泥のような作品。
しかし。
その泥の中には、ダイヤモンドよりも鋭利な刃物が埋め込まれていた。
崩れた線で描かれた主人公が、世界へ手を伸ばす。
その指先が、見る者の心臓を直接握りつぶす。
綺麗事はない。孤独、絶望、嫉妬、憎悪。隠しておきたい醜悪な感情が奔流し、視聴者の首を絞める。
ラストシーン。
光へ走る主人公の姿がプツリと途切れ、手書きの文字が浮かぶ。
『それでも、生きていてほしい』
震える文字は、どんな明朝体よりも力強く、網膜に焼き付いた。
……静寂。
カイは椅子で動かなくなっていた。
視界は白い霧に覆われている。モニターの光すら、ぼんやりとした熱でしかない。
富も名声も、光さえも失った。
残ったのは擦り切れたペンと、空っぽの肉体。
だが、その時。
カイの耳に、音が届いた。
通知音ではない。
窓の外、遠くの街、あるいは無限の彼方から。
ドクン、ドクン。
誰かの心臓が、作品と共振して高鳴る音。
一人、また一人。言葉にならない嗚咽。救われた魂の吐息。
何億もの孤独が回路を繋ぎ、巨大な星座を描き出す。
暗闇の中、カイの口元が微かに緩む。
見えない目で虚空を見つめ、震える両手をそっと合わせた。
エンドロールは流れない。
彼らの人生が続く限り、この物語は終わらないのだから。
静寂の最中、確かな拍手が、雷鳴のように轟いていた。