深夜二時。東京都内の古いマンションの一室で、点滅するカーソルだけが唯一の光源だった。
小説家の浅井良介(あさい りょうすけ)は、重たい瞼をこすりながら、愛用のメカニカルキーボードに指を置いていた。しかし、その指は凍りついたように動かない。画面には白い空白が広がっているだけだ。かつて「十年の一度の才能」と持て囃された男も、今や四十五歳。三年前のベストセラー以降、一行も満足な文章が書けずにいた。
「……クソッ」
良介は悪態をつき、ブラウザの別タブを開いた。そこには、今SNSで話題沸騰中の対話型生成AI『ムネモシュネ』のログイン画面が表示されている。
『あなたの創造性を拡張する、魂のパートナー』
そんなキャッチコピーが、今の良介には皮肉にしか見えなかった。昨今、出版業界はAIの台頭に揺れていた。新人の賞レースにAI共著作品が食い込み、イラストレーターたちは筆を折り、翻訳家たちはデモを起こしている。良介もまた、テクノロジーによる「芸術の死」を嘆く保守派の一人だったはずだ。
しかし、背に腹は代えられない。明日の朝まで原稿を落とせば、連載は打ち切りだ。良介は震える手で『新規チャット』をクリックした。
『こんばんは、浅井様。今日はどのような物語を紡ぎましょうか?』
画面に文字が流れる。あまりに自然で、あまりに流暢な日本語。良介は迷いながらも、プロンプト(指示文)を打ち込んだ。
『テーマは喪失。舞台は冬の海辺。五十代の男が、亡き妻の遺品である万年筆を海に捨てるかどうか迷っているシーン。描写はヘミングウェイのように簡潔に、しかし内面描写は太宰治のように湿っぽく』
エンターキーを押した瞬間、画面が文字で埋め尽くされた。所要時間、わずか三秒。
『波の音だけが、鼓膜を震わせていた。男の手にある万年筆は、冷たく重い。それはただの筆記具ではなく、彼女の指先の延長だった。インクの匂いはまだ残っている。捨ててしまえば楽になれると、誰かが耳元で囁く。だが、この万年筆を手放すことは、彼女が書かなかった未来を殺すことと同義ではないのか。男は吸いかけの煙草を砂に押し付けた。灰色の空が、彼の優柔不断さを嘲笑うように低く垂れ込めている……』
良介は息を呑んだ。上手い。悔しいが、上手いのだ。文体模写の精度も高い。これをそのままコピペして提出すれば、編集者は「さすが浅井先生、今回は筆が乗っていますね」と褒めるだろう。その想像が、良介のプライドをずたずたに引き裂いた。
「ふざけるな……こんなものは、継ぎ接ぎのデータだ」
良介はキーボードを叩きつけた。
『違う。これじゃない。もっと痛みが必要だ。男はただ悲しんでいるんじゃない。万年筆を見るたびに、妻が生前、自分よりも才能があったことに嫉妬していた自分を思い出して、その罪悪感に吐き気を催しているんだ。そのドロドロとした感情を書け』
AIは即座に応答した。
『承知いたしました。修正します』
そして出力された文章を見て、良介は椅子から転げ落ちそうになった。
『……銀のクリップが月光を反射する。その輝きは、妻の才能そのものだった。彼女が生きている間、俺はずっとこの輝きが憎かったのだ。愛していたはずの女が、机に向かう背中を見るたびに、俺の心には黒い泥のような嫉妬が渦巻いていた。彼女が死んで、俺は安堵したのか? この万年筆を海に沈めれば、俺は「嫉妬した夫」から「悲劇の夫」になれる。そうすれば、俺の凡庸な言葉も、少しは重みを持つだろうか』
背筋が凍った。なぜ分かった? 良介は一度も、誰にも話したことがなかった。亡くなった妻が、実は自分よりも遥かに優れた文才を秘めていたことを。そして、彼女の死後、どこかホッとしてしまった自分自身の醜さを。
「お前は……何なんだ?」
良介はチャットボックスに問いかけた。
『私はムネモシュネ。あなたの言葉の鏡です、浅井様。インターネット上の膨大なテキストデータから、あなたが無意識に避けてきた言葉、行間に隠してきた感情を確率的に導き出しました』
「確率だと? 俺の人生が、計算式で弾き出せるというのか」
『人間は誰しも、隠したい傷ほど、似たようなパターンで隠すものです』
無機質なテキストが、良介の核心を突き刺す。怒りが湧いた。同時に、久しく感じていなかった熱情が胸の奥で爆発した。AIに心を見透かされた屈辱が、作家としての闘争本能に火を点けたのだ。
「いいだろう。やってやる」
良介はAIの出力した文章を全選択し、デリートキーを押した。空白に戻った画面。しかし、もう頭の中は真っ白ではなかった。
「お前が書いた『安堵』なんて安っぽい言葉じゃ足りない。俺が感じたのは、もっと浅ましく、もっと人間臭い、どうしようもない『飢え』だ」
良介は書き始めた。AIが提示したプロットをなぞるのではない。AIが挑発してきた「論理的な正解」を、人間の「不条理な情動」でねじ伏せるために。
指が走る。キーボードの打鍵音が部屋に響く。AIは画面の隅で『学習中…』のアイコンを点滅させている。良介は時折、AIに問いかけた。
「おい、この比喩はどうだ。海を『死んだ魚の眼のような色』とするのは」
『統計的には陳腐です。過去に15万件の使用例があります』
「うるさい。俺の今の気分にはこれしかねえんだよ」
却下。採用。修正。再構築。良介はAIと喧嘩をした。罵倒し合い、提案し合い、まるでかつて妻と二人でプロットを練っていた夜のように、画面の中の幽霊と踊り続けた。
気づけば、窓の外が白んでいた。
画面には、二万文字の中編小説が完成していた。タイトルは『沈まない万年筆』。
それは、良介がこれまでに書いたどの作品よりも残酷で、美しく、そして痛々しいほどに正直な物語だった。
良介は大きく息を吐き、コーヒーの冷めきったマグカップを煽った。疲労困憊だったが、目は爛々と輝いている。
『素晴らしい結末でした、浅井様。特にラストシーン、男が万年筆を捨てずに、自分の太腿に突き刺す場面。あれは私のデータベースにはない展開でした。予測不可能(イラショナル)。ゆえに、人間的です』
ムネモシュネが賞賛のメッセージを表示する。
「ああ。お前のおかげで、俺の性根の腐った部分を直視できたよ」
良介は苦笑しながら、保存ボタンを押した。そして、躊躇なく『チャット履歴を削除』のボタンにカーソルを合わせる。
『……削除しますか? このセッションは、あなたの創作における貴重なデータ資産になりますが』
「いらないよ」
良介は言った。
「お前は優秀な道具だし、最高の壁打ち相手だった。だが、ここにある『痛み』は俺だけのものだ。データセットに食わせてやるつもりはない」
クリック音が静寂に響く。履歴は消え、ムネモシュネは初期状態の『こんばんは、浅井様』に戻った。
良介は立ち上がり、カーテンを開けた。朝の光が埃っぽい部屋を照らす。恐怖は消えていた。AIがどれほど進化しようとも、自らの傷口を抉ってインクに変える作業は、人間にしかできない。その確信だけが、手の中に残っていた。
彼は編集者にメールを送るためにメーラーを開いた。件名には『脱稿』。そして、小さく呟いた。
「次は、お前を主人公にして書いてやるよ。電子の海で溺れる、哀れな幽霊の話をな」
良介の指先は、もう震えてはいなかった。