第一章 英雄の賞味期限
「ねえ、見てよ。英雄アレンの剣だって。すっげー、まだ光ってる!」
ガラスケースの向こうで、修学旅行生の少年が声を張り上げる。指紋のついたガラスの向こうには、模造品の聖剣が鎮座している。本物はとっくの昔に折れたというのに、観光客たちはこの「ピカピカの嘘」を見て涙ぐむのだ。
「……あーあ。また指紋つけて。拭くのは私なんだからね」
私はモップを片手に、小さくため息をついた。エルフの聴覚は、余計なノイズまで拾いすぎる。
「ガイドさん、質問いいですか!」
振り返ると、分厚い眼鏡をかけた少女が手を挙げていた。制服の胸元には、蒸気機関工学の記章。最近の人間の流行りだ。
「はいはい、何でしょう。アレン様の身長は182センチ、好きな食べ物は干し肉。これでいい?」
「違います。歴史書には『魔王討伐の際、英雄は光となって消滅した』とありますが、質量保存の法則的に矛盾しませんか? 現場に残されたエーテル残滓のデータとも合致しないんです」
私はモップの柄を握る手に、思わず力を込めた。
「……魔法だからよ。君たちのその新しい科学とかいう物差しで、彼を測らないで」
冷たく言い放ち、背を向ける。心臓が嫌なリズムで跳ねていた。
鋭い子供は嫌いだ。特に、真実に近づこうとする無邪気な手つきが。
英雄記念館の閉館ベルが鳴る。夕日が、白亜の壁を赤く染め上げていく。
観光客たちが去り、静寂が戻ってくる。この瞬間だけが、私の心を少しだけ安らかにする。
私は「関係者以外立入禁止」の札がかかった重い扉の前に立つ。
首から下げた鍵を取り出す。それは記念館のマスターキーではない。百年前、アレンが私に託した、決して開けてはならないパンドラの箱の鍵だ。
「……ただいま、アレン」
返事はない。あるはずがない。
地下へと続く螺旋階段。空気はひんやりと冷たく、カビと、それから濃厚な腐臭を隠すための香草の匂いが混じり合っている。
階段を降りるたび、私の体感時間は百年前へと巻き戻される。
地上では蒸気機関が唸りを上げ、人々は空を飛ぶ機械を夢見ている。けれど、この地下室だけは時間が凍りついている。
最深部。結界に守られた石の台座。
そこに「彼」はいた。
かつて黄金の髪をなびかせ、爽やかな笑顔で私をからかった青年。
今は――どす黒い肉塊と化し、無数の管に繋がれ、ただ浅い呼吸を繰り返しているだけの「ナニカ」。
「今日の客入りは悪くなかったわよ。君のグッズ、また新しいのが出たの。ひどいデザインだったけど」
私は肉塊のそばに座り込み、濡らしたタオルでその表面を優しく拭う。
ピクリ、と肉が痙攣する。
「う……ぁ……」
濁った声。言葉ではない。ただの空気の漏れる音。
魔王の呪い。不死の呪い。英雄は光になってなどいない。彼はすべての呪いをその身に引き受け、死ぬことさえ許されず、こうして百年もの間、私が施す延命処置によって「生かされて」いる。
世界を守るため? 違う。
平和の象徴を失わないため? それも違う。
「私を、一人にしないでよ……アレン」
ただ、私が寂しいからだ。
エルフの長い寿命の中で、彼と過ごしたたった三年の冒険が、残りの千年に勝ってしまったから。
私は嘘つきだ。
世界に対して、彼が美しく散ったと嘘をつき。
彼に対して、もうすぐ治療法が見つかると嘘をつき。
自分に対して、これは愛なのだと嘘をつき続けている。
その時。
背後で、カツン、と乾いた音がした。
「……やっぱり、ここに隠していたんですね」
心臓が止まるかと思った。
ゆっくりと振り返る。
そこには、昼間の眼鏡の少女が立っていた。
手には小型の蒸気ランプ。そして、震える手でカメラを構えている。
「入り口の鍵、ピッキングさせてもらいました。構造が古かったので」
「……見たわね」
私は立ち上がる。指先にマナを集める。
目撃者は消す。記憶を消すか、あるいは――。
「撮らないで! それは英雄じゃない!」
「いいえ、撮ります」
少女はカメラを下ろさず、涙目で叫んだ。
「これが、私のお祖父ちゃんが憧れた英雄の、成れの果てなんですね」
フラッシュが焚かれた。
その瞬間、地下室の闇が白く弾けた。
第二章 呪いよりも重い鎖
「データを渡しなさい。そうすれば、五体満足で帰してあげる」
私の手から風の刃が生まれ、少女の頬を浅く切り裂いた。警告だ。
少女は腰を抜かしそうになりながらも、カメラを抱きしめて首を横に振る。
「どうして隠すんですか! 彼がまだ戦っていることを、どうして世界に教えないんですか!」
「戦っている……?」
「魔王の因子を体内で抑え込み続けているんでしょう? 教科書で習いました。魔王は不滅、ただ封印されるのみだと。彼は自分の体を檻にして、百年も耐えている……!」
少女の言葉に、私はハッとした。
そうか。人間たちの目には、これは「戦い」に映るのか。
私は自嘲気味に笑う。
「違うわ。彼はもう、戦ってなんていない」
私は肉塊――アレンの方を向く。
「彼は、ただ苦しんでいるだけ。私が『死なせない魔法』をかけているから、死ねないだけ。魔王の因子なんて、とっくの昔に霧散しているわ。今、彼を蝕んでいるのは、私の魔力よ」
少女が息を呑む気配がした。
「嘘……だ」
「本当よ。見てみなさい」
私はアレンに繋がれた管の一本を指差す。そこを流れているのは、淡い緑色の液体。高純度のエルフの霊薬。
「百年前、彼は言ったわ。『殺してくれ』って。魔王の血を浴びて、理性を失う前に、私の手で終わらせてくれって」
記憶が蘇る。
燃え盛る魔王城。片腕を失い、半身が黒く変色し始めたアレン。
彼は笑っていた。最期まで、かっこいい英雄として死のうとしていた。
『エララ、頼む。君にしかできない』
そう言って差し出された剣を、私は受け取れなかった。
代わりに私は、彼を眠らせ、時間を止める禁呪を使った。
「私は彼を英雄として死なせたくなかった。私のものとして、生きていてほしかった」
「そんなの……ただのエゴじゃないですか!」
「ええ、そうよ。長命種(エルフ)のエゴよ。あなたたち人間みたいに、すぐに死んでいなくなる生き物には分からない執着よ!」
感情が爆発した。
私は叫び、床を蹴る。
「百年よ! 私は百年、毎日毎日、彼の腐っていく体を洗い、排泄物を処理し、言葉の通じない肉の塊に話しかけてきた! これが愛じゃなくて何なの!?」
地下室に私の悲鳴が反響する。
アレンが、また「う……ぁ……」と呻いた。
その声は、私の叫びに呼応するように、以前よりも大きく、苦しげに響いた。
少女は、怯えながらも、静かに言った。
「……聞こえませんか?」
「何が」
「彼、泣いてますよ」
私はハッとしてアレンを見る。
肉に埋もれた、かつて瞳だった場所から、黒い涙のような体液が溢れ出していた。
「愛しているなら……どうして彼の願いを聞いてあげなかったんですか」
少女の言葉が、鋭利なナイフのように私の胸に突き刺さる。
分かっていた。
本当はずっと、分かっていたのだ。
私が保存していたのはアレンではない。
「アレンと一緒にいた時間」という、私自身の過去だ。
私は、彼を博物館の展示品にしてしまったのは、他ならぬ私自身だった。
「……機械いじりが得意なのよね、あなた」
唐突に、私は少女に尋ねた。
「は、はい。工学部ですから」
「蒸気機関は、圧力が限界を超えたらどうなるの?」
「え? それは……爆発しないように、安全弁を開いて蒸気を逃がします。止めるんです、機関を」
「そう」
私はアレンの枕元に歩み寄る。
彼が握りしめているものがある。肉に埋もれて見えなくなっていたが、それは百年前、私が渡したお守りのペンダントだった。
「止めなきゃね。この、長すぎた機関を」
第三章 葬送のあとに、朝が来る
生命維持装置の魔力供給をカットする。
管を一本、また一本と外していく。
「何をするつもりですか!?」
「あなたの言う通りにするのよ。英雄を、解放してあげる」
管が外れるたび、アレンの体が激しく痙攣する。強制的に循環させられていた生命力が途絶え、本来あるべき「死」が急速に彼を迎えに来る。
黒い肉塊が、しゅ、と音を立てて萎んでいく。
魔法で無理やり繋ぎ止めていた細胞が崩壊を始める。
「アレン。聞こえる?」
私は彼の耳元――と思われる場所に唇を寄せる。
「遅くなってごめんね。やっと、約束を守れる」
魔力を指先に集中させる。
治癒魔法ではない。攻撃魔法でもない。
彼が安らかに眠れるための、鎮魂の術式。
すると。
崩れゆく肉塊の中から、一本の腕が伸びた。
骨と皮だけになった、枯れ木のような腕。
それが、私の頬に触れた。
「……エ……ラ……」
百年ぶりに聞く、意味のある言葉。
空気の漏れる音ではなく、彼の魂が絞り出した音。
「……笑っ……て……」
指先が、私の涙を拭おうとするように動く。
視界が滲んで、彼の顔がよく見えない。
でも、私には分かった。
今の彼は、あの日のような、生意気で爽やかな笑顔を浮かべているはずだと。
「……馬鹿。こんな顔、笑えるわけないじゃない」
私は彼の手を握りしめ、自分の頬に押し付ける。
温かい。まだ、温かい。
「おやすみ、アレン。私の英雄。私の……初恋」
腕から力が抜けた。
ゴト、と音を立てて手が床に落ちる。
同時に、地下室を充満していた重苦しい魔力の圧力が消え失せた。
後に残ったのは、小さな骨と、古びたペンダントだけ。
百年間の呪縛が、解けたのだ。
「……終わったん、ですね」
少女が恐る恐る近づいてくる。
私は涙を袖で乱暴に拭い、立ち上がった。
「ええ。終わったわ」
不思議と、心は軽かった。
胸にぽっかりと穴が開いたような喪失感はある。けれど、あの鉛のような罪悪感はもうない。
私は少女に向き直る。
「そのカメラのデータ、どうするつもり?」
少女は少し考えてから、フィルムを取り出し、光に晒した。
「え?」
「質量保存の法則は守られました。英雄は光となって消えた。それでいいと思います」
少女は少し大人びた顔で笑った。
「それに、素敵なラストシーンでしたから。私だけの秘密にします」
「……生意気な子供」
私は初めて、心からの苦笑を漏らした。
地上に出ると、夜が明けていた。
東の空が白み始めている。
遠くから、朝一番の蒸気列車の汽笛が聞こえた。
ポーッという力強い音が、新しい時代の到来を告げている。
「さて、と」
私は伸びをする。
もう、暗い地下室に降りる必要はない。
もう、過去を磨き続ける必要もない。
「ねえ、君。名前は?」
隣を歩く少女に尋ねる。
「リナです。リナ・スチームハート」
「変な名前。……ねえリナ。この近くに、美味しい朝ごはんの店、知らない?」
「知ってますけど……エルフってお酒と木の実しか食べないんじゃないんですか?」
「失礼ね。ベーコンエッグも食べるわよ。これからはね」
風が吹いた。
百年前とは違う、オイルと煤(すす)の混じった風。
けれどそれは、停滞していた私の時間を動かす、新しい風だった。
私は歩き出す。
英雄のいない、素晴らしい世界へ。