僕が咳き込むたびに、白いハンカチには彼岸花のような赤が散る。
「ルーカス! 大丈夫!?」
部屋に飛び込んできたのは、豪奢なドレスを纏った美女――僕の姉、エレオノーラだ。
釣り上がった瞳、きつい印象を与える真紅の唇。世間では『悪役令嬢』と呼ばれる彼女だが、今のその顔は、ただ病弱な弟を案じる慈愛に満ちていた。
(ああ、やっぱりだ。姉さんは悪女なんかじゃない)
僕は前世の記憶と、この世界の『シナリオ』を同時に理解していた。
乙女ゲーム『蒼穹のラプソディ』。
姉は、病弱な弟――つまり僕、ルーカスの治療費を稼ぐために、金に汚い悪女となり、最後には王家から断罪されて処刑される。
ふざけるな。
たかが金のために、僕の大事な姉さんが殺されてたまるか。
「……姉さん、帳簿を見せて」
「え? でも、あなたは安静にしていなきゃ……」
「いいから。僕の薬代がどこから出ているのか、知りたいんだ」
震える手で渡された羊皮紙の束。
僕はそれを開いた瞬間、前世の職業病が疼き出すのを感じた。
元・大手監査法人のパートナー。
冷徹に企業の膿を切り捨て、『死神』と恐れられた僕の手腕、この異世界で見せてやる。
第一章 死神の監査と、横領の証拠
「ひどいな。これは決算書とは呼ばない。ただの落書きだ」
薄暗い執務室。僕は机の上に帳簿を叩きつけた。
目の前には、冷や汗をダラダラと流す家令のボルマン。
長年、我が公爵家に仕えてきた古株だが、その腹は不自然に突き出し、身につけている指輪は領民の年収数年分に相当する代物だった。
「わ、若様には難しかったかもしれませんな。領地経営というのは複雑でして……」
「複雑? 単純明快だよボルマン」
僕は羽ペンを回し、特定の数字を赤いインクで囲った。
「治水工事の予算が計上されているのに、なぜか資材購入の履歴がない。代わりに『交際費』として王都の高級サロンへの支払いが激増している。しかも、このサロンのオーナーは君の義理の弟だね?」
「なっ……!?」
「過去五年分、遡って計算させてもらった。君が懐に入れた額は、金貨にして約三千枚。僕の薬代が払えないからと、姉さんが王太子殿下に頭を下げて借金をした額とほぼ同額だ」
室内の空気が凍りつく。
姉のエレオノーラが息を呑んだ。
「ボルマン……本当なの? 私は、あなたが『不作で税収が足りない』と言うから、屈辱に耐えて……」
「誤解ですお嬢様! これはその、必要な裏工作で……!」
「裏工作費は別項目にあるだろう。二重計上だ。初歩的すぎてあくびが出る」
僕は冷たく言い放ち、控えていた衛兵に目配せをした。
「全財産没収の上、鉱山送りだ。君の脂ぎった脂肪が落ちるまで働いてもらおう」
「若造がああああ!」
引きずり出されていくボルマンの絶叫を聞きながら、僕は姉に向き直った。
姉は呆然としていたが、やがてその瞳に涙を溜め、僕を抱きしめた。
「ごめんね、ルーカス。私が無知なばかりに……」
「謝らないで、姉さん。ここからが本番だ。我が公爵家は破産寸前だけど、資産はある。使い方を間違えていただけだ」
僕はニヤリと笑った。
病弱な美少年の皮を被った、金の亡者が覚醒した瞬間だった。
第二章 香水なんて生温い。先物取引で『空売り』を仕掛けろ
転生者がやることといえば、現代知識を使った新商品開発がお決まりだ。
マヨネーズ、リバーシ、石鹸。
確かに儲かるかもしれない。だが、そんなちまちました小銭稼ぎでは、来月に迫った姉の『断罪イベント』――つまり、王太子からの婚約破棄と借金の一括返済要求には間に合わない。
必要なのは、爆発的なキャッシュフローだ。
「姉さん、今年の王都の流行は?」
「ええと……『炎の魔石』を使った暖房器具が人気ね。今年も寒波が来るという予報だから、みんな買い占めているわ」
「なるほど。誰の予報?」
「王宮魔導師団よ」
僕は窓の外を見た。
庭の『霜知らずの花』が、例年より早く蕾をつけている。
前世で趣味だった気象学の知識と、この領地特有の植物の生態を照らし合わせれば、答えは明白だった。
「今年は暖冬になる。それも、記録的な」
僕は即座に動いた。
公爵家に残っていた『炎の魔石』の在庫を、現在の市場価格で全て『売却予約』したのだ。
現物は手元に残しつつ、高値で売る契約だけを結ぶ。
さらに、商人たちから証拠金を積んで『炎の魔石』を借り受け、それも市場に流して即座に現金化した。
「ルーカス!? 魔石を全部売るなんて正気!? 寒波が来たら私たちは凍え死ぬわ!」
「大丈夫。代わりに、暴落して捨て値同然になっている『氷の魔石』を買い占めるから」
「ええええ!?」
一週間後。
王宮魔導師団の予報は外れた。
異例の熱波が王都を襲ったのだ。
『炎の魔石』の価格は大暴落。
僕は市場で紙屑同然になった魔石を買い戻し、借りていた商人たちに返却した。
高値で売って、安値で買い戻す。
その差額――莫大な利益が、何もしなくても転がり込んできた。
さらに、暑さに喘ぐ貴族たちが求めたのは、僕が買い占めていた『氷の魔石』だった。
価格は十倍、二十倍に跳ね上がる。
「……信じられない。たった数日で、借金を返済してもお釣りが来るなんて」
通帳(に相当する魔導媒体)を見つめる姉の手が震えている。
だが、僕の目は笑っていなかった。
「まだだ。金はできた。次は、姉さんを貶めようとする『敵』を経済的に抹殺する」
ターゲットは、王太子とその恋人――ヒロインの男爵令嬢アリスだ。
第三章 断罪? いいえ、それは債権回収です
そして運命の夜会。
王城の大広間は、着飾った貴族たちで溢れかえっていた。
僕は体調を考慮して車椅子に乗り、姉のエスコートで入場した。
「エレオノーラ! 貴様との婚約を、今ここで破棄する!」
王太子ジークフリートが高らかに宣言した。
その隣には、ピンク髪の小柄な少女、アリスがしなだれかかっている。
「エレオノーラ様は、アリスの教科書を破いたり、噴水に突き落としたりしたそうだな! 心清らかなアリスになんという非道を!」
「殿下、それは誤解です。私は……」
「言い訳は聞かぬ! さらに貴様の実家は借金まみれだとか。そのような貧乏貴族が、未来の王妃に相応しいはずがない!」
周囲の貴族たちがヒソヒソと嘲笑する。
姉が悔しそうに唇を噛んだ。
その肩に、僕はそっと手を置いた。
「……姉さん、交代だ」
僕は車椅子を進め、王太子の前に出た。
ゴホッ、とわざとらしく一つ咳をする。
「お初にお目にかかります、殿下。エレオノーラの弟、ルーカスと申します」
「なんだ、その死に損ないは。下がれ!」
「『借金まみれ』という言葉が聞こえましたので。……確かに我が家には借金がありました。ですが、それは完済済みです」
僕は懐から、一枚の羊皮紙を取り出した。
「むしろ現在、我が公爵家は『貸す側』に回っております。……これに見覚えは?」
「な、なんだそれは」
王太子が紙を覗き込み、顔色を変えた。
それは、王家が発行した国債の証書。
「先日の魔石相場の変動で、王家は財政難に陥り、国債を乱発しましたね? 市場で暴落していたそれを、私が全て買い取らせていただきました」
「な……っ!?」
「つまり現在、この国の借金の七割は、僕が握っています」
静まり返る会場。
僕はニッコリと微笑んだ。目は全く笑っていないが。
「もし姉さんを侮辱し、不当な理由で婚約破棄をするのなら、構いませんよ? ただしその場合、王家に対する融資を即刻引き揚げさせていただきます。……国、傾きますけど大丈夫ですか?」
「き、貴様……王家を脅す気か!?」
「まさか。正当な『債権者の権利』を行使するだけです。ああ、それとアリス様」
僕はヒロインに視線を移した。
彼女は青ざめて震えている。
「貴女の実家の男爵家ですが、教会への寄付金を横領して『聖女活動』のドレス代に充てていましたね? その証拠、教会の監査部門に提出しておきました」
「うそ……どうしてそれを……」
「帳簿を見れば、金の流れなんて一目瞭然なんですよ」
その時、会場の扉が開き、教会の異端審問官たちが雪崩れ込んできた。
「アリス・フォン・メルローズ! 神聖な浄財を横領した罪で連行する!」
「いやあああ! 殿下、助けてぇ!」
王太子は動けない。
自分の国の財布の紐を握っている僕に、逆らえるはずもなかった。
最終章 公爵令息は静かに暮らしたい(無理)
騒動の後、王太子は廃嫡された。
経済観念のない人間に国を任せるのはリスクが高すぎる、という僕の進言(という名の圧力)が通ったからだ。
姉のエレオノーラは、その手腕を見込まれて、次期女王候補として再教育されることになった。
「ルーカス、本当にこれで良かったの? あなたが王になるべきじゃ……」
「冗談じゃない。僕は病弱なんだよ? 領地の屋敷で、のんびり本でも読んで暮らすさ」
そう言って、僕は公爵領のテラスで優雅に紅茶を啜る。
……はずだった。
「ルーカス様! 隣国の財務大臣が、通商条約の改定について面会を求めています!」
「ルーカス公爵! 魔導鉄道の敷設計画に、ぜひ出資を!」
「閣下! 国王陛下から『予算案の最終決裁をお願いしたい』との親書が!」
ひっきりなしに訪れる客、客、客。
どうやら僕は、姉を救うついでに国の経済を支配してしまい、『影の国王』と呼ばれるようになってしまったらしい。
「……ゴホッ。過労で死ぬ。これは絶対に、過労で死ぬ……」
血の気の引いた僕の顔を見て、姉が慌てて駆け寄ってくる。
「ルーカス! もう、仕事なんて休んで! 私が全部片付けるから!」
「姉さん……」
ブラコンの姉と、シスコンの元監査役。
僕たちの平穏な(?)日々は、まだまだ続きそうだ。
とりあえず、この国のGDPをあと二倍にしたら、今度こそ引退しよう。
そう心に誓い、僕は新たな決算書に赤いインクを走らせた。