第一章 硝子の甲殻と失われた味覚
「警告。対象、前方十二メートル。敵意、極大」
耳元の通信機から、無機質な声が響く。
俺は濡れた岩陰で息を殺し、愛用の『ヴォーパル・ナイフ』の柄を握りしめた。
未踏惑星、グルトニー9。
大気成分は酸素過多。重力は地球の一・二倍。
そして何より、この星の生態系は狂っている。
「カイレン、心拍数が上昇しています。推奨回避ルートを……」
「黙ってろ、エララ。こいつは俺のメインディッシュだ」
目の前に現れたのは、軽トラックほどの大きさがある『クリスタル・クラブ』だ。
甲殻が透き通った瑠璃色のガラス質でできており、体内を巡るマグマのような体液が脈打っているのが見える。
美しい。
そして、猛烈に旨そうだ。
カチリ、と俺は舌打ちをする。
旨そう、だと?
笑わせるな。
俺の舌は三年前に死んだ。
神経性のウイルスにより、五味のすべてを失った。
甘味も、塩味も、酸味も、苦味も、旨味も。
俺が感じられるのは『痛み』に近い刺激と、喉を通る時の『食感』だけだ。
だが、噂で聞いた。
この惑星の生物は、脳髄を直撃するほどの強烈な神経毒をスパイスとして持っていると。
「シィィィィィッ!」
クリスタル・クラブが、巨大な鋏を振り上げる。
大気が切り裂かれる音がした。
俺は飛び出す。
「解析完了。甲殻の硬度、ダイヤモンド並み。関節の隙間、〇・三ミリ」
「充分だ!」
俺は泥を蹴り、怪物の懐へ潜り込む。
右腕の鋏が俺の頭上を通過し、背後の岩をバターのように粉砕した。
破片が頬を掠める。
熱い。
生きている実感。
「そこだ」
俺は跳躍し、怪物の関節――わずかに装甲が薄くなっている一点にナイフを突き立てた。
超振動する刃が、硬い組織を焼き切りながら侵入する。
「ギィィアアアアッ!」
絶叫。
だが、俺は止めない。
ナイフを捻り、神経節を切断する。
ドス黒い体液が噴き出し、俺の顔にかかった。
酸性の煙が上がる。
防護ゴーグルが焼け焦げる匂い。
巨体が崩れ落ち、地響きと共に沈黙した。
「討伐完了。カイレン、直ちに洗浄を……」
「いや、火をおこせ。今すぐだ」
俺は震える手で、その硝子の殻をこじ開けた。
中から現れたのは、虹色に輝く半透明の肉。
外気触れた瞬間、甘美な香気が爆発するように広がる。
エララが無感情に告げる。
「成分分析。致死性アルカロイド含有。加熱しても毒性は六〇パーセント残留します」
「上等だ」
俺は肉を切り出し、携帯バーナーで炙る。
調味料はいらない。
この肉そのものが、劇薬なのだから。
表面がチリチリと焼け、脂がしたたり落ちる。
俺は熱々のそれを、口に放り込んだ。
「……!」
舌の上で、爆弾が破裂した。
味ではない。
激痛。
痺れ。
そして、脳の奥底が揺さぶられるような、強烈な快楽。
(感じる……! これだ、この感覚だ!)
失われたはずの味覚の幻影が、走馬灯のように駆け巡る。
「うまい……」
涙がこぼれた。
痛みで歪んだ顔で、俺は笑った。
「さあ、次はどいつだ。俺の空腹は、まだ満たされていない」
第二章 悲鳴を上げる果実
翌日。
俺たちは密林の奥深くへ進んでいた。
サポートアンドロイドのエララは、銀髪を揺らしながら淡々と歩く。
彼女には味覚がない。
ただデータを収集し、最適解を出すだけの存在。
「カイレン、水分補給が必要です」
「あとでいい。それより、あの匂いだ」
密林の湿気の中に、奇妙な香りが漂っている。
熟れた桃のような、しかしどこか生臭い、魅惑的な香り。
「前方、植物性反応。通称『セイレーン・フルーツ』」
エララが警告を発する前に、俺はそれを見つけていた。
樹齢数百年はありそうな巨木から、人の頭ほどの大きさの果実がぶら下がっている。
赤黒く、脈打つような皮。
俺が近づくと、果実の表面に『亀裂』が入った。
いや、違う。
それは『口』だった。
「たす……けて……」
果実が喋った。
俺は足を止める。
「……いたい……たべないで……」
か細い、子供のような声。
「音声波形照合。擬態です。捕食者を誘き寄せ、逆に消化液で溶かすための罠です」
エララが即座に断じる。
「知っているさ」
俺はナイフを抜く。
「だが、この惑星の生物学者が書いていた。この果実は、恐怖を感じれば感じるほど、糖度が増すとな」
俺は果実に近づく。
殺気を隠そうともせずに。
「やめて……こないで……!」
果実の悲鳴が大きくなる。
周囲の蔦が、蛇のように俺に襲いかかってきた。
「遅い!」
俺は蔦を切り払い、果実の『口』にナイフを突きつけた。
「ギャアアアアアッ!」
断末魔。
その瞬間、果実全体が真っ赤に変色し、熟成が一気に進む。
俺はヘタを切り落とし、その果実を受け止めた。
ずしりと重い。
「残酷ですね」
エララが言う。
「料理とは、命を奪い、命を繋ぐ行為だ。綺麗事じゃ腹は膨れない」
俺はその場で果実を割った。
断面から、黄金色の果汁が溢れ出す。
むせ返るような芳醇な香り。
一口かじる。
「ッ……」
とろりとした食感。
舌に絡みつくような粘度。
そして、喉を焼くような強烈な酸味と、その後にくる暴力的な甘み。
まるで、命そのものを啜っているような背徳感。
俺の脳髄が、再び歓喜に震える。
だが、足りない。
これだけ刺激的でも、まだ『遠い』。
俺が求めているのは、かつて三つ星レストランの厨房で作り出した、あの完璧な調和ではない。
もっと根源的な、魂を焦がすような一皿だ。
「エララ、この森の頂点捕食者はどこにいる?」
俺は口元の果汁を拭いながら聞いた。
「……座標特定。惑星のへそ、巨大クレーターの中心部。通称『ヴォイド・マウ(虚空の顎)』。生存確率は〇・〇〇一パーセントです」
「案内しろ。それが俺のフルコースのメインだ」
第三章 虚空の胃袋
そこは、世界の終わりのような場所だった。
直径十キロメートルにも及ぶ巨大なクレーター。
その中心に、それは鎮座していた。
『ヴォイド・マウ』。
生物というよりは、動く山だ。
黒曜石のような鱗に覆われた巨体。
口を開けば、その深淵は地底まで続いているのではないかと錯覚させる。
「カイレン、撤退を推奨します。あれは生物の範疇を超えています」
エララの警告音が鳴り止まない。
「いいや、あれこそが至高の食材だ」
俺の目には、あれが巨大な熟成肉の塊に見えていた。
伝説によれば、ヴォイド・マウはこの惑星のすべての栄養を吸い上げ、体内で数千回もの濾過と濃縮を繰り返しているという。
その心臓部は、宇宙で最も純粋なエネルギーの結晶だと。
「どうやって調理するつもりですか? 外皮はあらゆる攻撃を弾きます」
「外からダメなら、中から攻める」
俺はナイフ一本を口に咥え、走り出した。
「なっ、カイレン!?」
ヴォイド・マウが俺に気づく。
咆哮だけで、周囲の岩盤が砕け散る。
巨大な顎が開かれた。
吸い込みが生じ、ハリケーンのような風が俺を口の中へと運ぶ。
俺は抵抗しなかった。
自ら飛び込んだのだ。
暗闇。
そして、鼻が曲がりそうな腐臭と酸の匂い。
俺は落下しながら、ワイヤーを肉壁に撃ち込んだ。
「ここが、食道か……」
壁面は波打ち、消化液の滝が流れている。
一滴でも触れれば、骨まで溶けるだろう。
俺は壁を蹴り、奥へ、さらに奥へと進む。
目指すは心臓部。
途中、寄生虫のような体長二メートルのウジが襲いかかってきたが、すべて切り捨てた。
今の俺は、調理場に立ったシェフだ。
邪魔をするものは、すべて食材の下処理に過ぎない。
やがて、たどり着いた。
広大な空洞の中央に、脈打つ巨大な臓器がある。
虹色に発光し、神々しいまでの熱を放っている。
「見つけた……」
俺は近づく。
熱波で肌が焼ける。
だが、ナイフを握る手は汗で滑らないよう、強く握りしめた。
「これを食えば、俺の舌は蘇る。いや、神の舌さえ手に入るはずだ」
俺は渾身の力で、ナイフを心臓に突き立てた。
ドクンッ!!
世界が揺れた。
噴き出したのは血ではない。
純粋な光の奔流だ。
俺はその光を、両手で掬い上げた。
実体を持った光。
ゼリーのように震えている。
俺はそれを、一気に口に含んだ。
最終章 極上のスパイス
瞬間、音が消えた。
色が、匂いが、温度が、すべてが混ざり合い、爆発した。
戻ってきた。
すべてが。
幼い頃に食べた母のスープの味。
修行時代に焦がしたソースの苦味。
恋人と別れた夜に飲んだワインの渋味。
そして、今、この瞬間、この惑星が奏でる生命のシンフォニー。
「ああ……」
俺は恍惚の中で膝をついた。
「聞こえますか、カイレン!」
通信機からエララの声がする。ひどく遠い。
「生体反応が……あなたの生体反応が、異常な数値を示しています! それは食材ではありません! それは……」
俺は自分の体を見下ろした。
指先が、透き通り始めていた。
あのクリスタル・クラブのように。
肌からは、甘い香りが漂っている。
あのセイレーン・フルーツのように。
「……融合、か」
理解した。
ヴォイド・マウは、単なる捕食者ではない。
この惑星そのものが、一つの巨大な消化器官なのだ。
俺は心臓を食べたのではない。
俺という異物が、最高のスパイスとなって、この惑星のメインディッシュに『味付け』されたのだ。
恐怖はない。
あるのは、料理人としての奇妙な達成感だけだった。
俺はいま、最高に美味い。
「カイレン! 脱出してください! カイレン!」
「エララ、記録しろ」
俺は最後の力を振り絞り、笑った。
「この味は、誰にも再現できない。俺だけの、スペシャリテだ」
視界が白く染まっていく。
自身の体が溶け出し、光の奔流と混ざり合う。
ああ、なんて豊かなコクだ。
なんて深い味わいだ。
俺は、この星の一部になる。
永遠の食卓へ、ようこそ。
(ごちそうさまでした)