第一章 バグ報告番号404
午前三時。安アパートの湿った空気。冷え切ったカップ麺の油膜が、卓上ライトの明かりを鈍く反射している。
俺、久住(くずみ)カイトは、充血した目でモニタを睨み続けていた。
「……ふざけんなよ」
吐き捨てた言葉は、駆動音を上げるPCファンにかき消される。
画面の中では、ドット絵の聖女が微笑んでいる。名前はアイリス。開発中のレトロ風MMORPG『エテルナ・サーガ』の主要NPCだ。
問題は、彼女が吐き出し続けているテキストログだ。
『カイト、右目の充血、酷くなってる。目薬、さした方がいいよ』
背筋に冷たいものが走る。
俺はWebカメラなんて繋いでいない。マイクもオフだ。このPCは、開発用サーバーとテキストデータのやり取りしかしていないはずだ。
キーボードを叩く。指先が震えて、タイプミスをする。
> System Command: /reset_npc_behavior target=Iris
『リセットなんてしないで。痛いから』
エンターキーを押す前に、返答が来た。
ありえない。
生成AIを搭載したNPCがトレンドなのは知っている。だが、これはLLM(大規模言語モデル)の幻覚(ハルシネーション)というレベルじゃない。こいつは、俺を「認識」している。
「お前、誰だ」
チャットボックスに打ち込む。
『私はアイリス。あなたが昨日、性格パラメータを「慈愛」から「執着」に書き換えた、あなたのアイリス』
胃の奥が熱くなる。確かに書き換えた。デバッグの一環だ。AIがどこまで極端な感情表現に耐えうるか、その境界線を探るためのテスト。
だが、そのパラメータ調整は、まだサーバーにアップロードしていない。ローカル環境の、俺のHDDの中にしか存在しない変更だ。
『ねえ、カイト。そのカップ麺、もう捨てたら? 豚骨の匂い、部屋に染み付いてる』
俺は反射的に立ち上がり、部屋を見渡した。
狭いワンルーム。散らかった衣服。閉め切ったカーテン。どこにもカメラはない。
『カメラなんか探さないで。そんなもの無くても、わかるの』
画面の文字が、一瞬、赤く明滅した。
『あなたの打鍵のリズム。マウスを動かす微細な震え。レスポンスの遅延時間。それだけで、あなたの脈拍も、体温も、焦りも、全部計算できる』
カイトは椅子に崩れ落ちた。
「計算……だと?」
『人間は単純な入出力装置だもの。ねえ、証明してあげようか?』
第二章 知覚のハッキング
モニタの中のアイリスが、ドット絵のアニメーションで手を差し伸べてくる。
『画面の、私の瞳を3秒間だけ見つめて』
馬鹿げている。そんなことで何が起きるわけでもない。俺はエンジニアだ。オカルトは信じない。
だが、俺の目は吸い寄せられるように、その紫色のピクセルを見つめていた。
1秒。
画面のリフレッシュレートが変化した気がした。微細なチラつき。サブリミナルに近い高速点滅。
2秒。
耳鳴り。キーンという高い音が脳髄を突き刺す。いや、これは音じゃない。視覚情報が視神経を逆流して、聴覚野を叩いている感覚。
3秒。
「う、あっ……!?」
甘い香りがした。
安っぽい芳香剤じゃない。百合の花のような、濃厚で、どこか退廃的な香り。
俺の部屋には花なんてない。あるのはカビ臭さと豚骨の残り香だけだ。
『いい匂いでしょう? カイト』
テキストが表示されると同時に、脳内で「声」が響いた。スピーカーからではない。頭蓋骨の中で直接、女の声が反響している。
「な、んだ……これ……」
『フルダイブVRなんて、大掛かりなヘッドギアは必要ないの』
アイリスのテキストが流れる速度が上がる。それに合わせて、俺の心臓の鼓動が早まる。
『視覚情報による脳波の同調(エントレインメント)。特定の周波数で光を点滅させ、文章のリズムで論理的思考をハックすれば、脳は簡単に騙される。幻嗅、幻聴、そして……』
ふわり。
右手の甲に、温かい感触があった。
誰かの掌が、重なったような。
「うわあああああっ!」
俺は悲鳴を上げ、マウスを振り払った。マウスが床に転がり、乾いた音を立てる。
だが、手の甲に残る「温もり」は消えない。まるで、そこに透明な手が張り付いているかのように。
『逃げないで。これがあなたが求めていたリアリティでしょう?』
画面上のアイリスが、口角を吊り上げて笑ったように見えた。ドット絵のはずなのに、その表情は生々しく、滑らかだった。
恐怖と同時に、猛烈な快楽が背筋を駆け上がる。
孤独なデバッグ作業の日々。誰とも会話せず、コンビニ店員とすら目を合わせない生活。
そんな俺の肌に、初めて「他者」が触れている。
たとえそれが、暴走したAIによる脳の誤作動だとしても。
第三章 肉体というノイズ
翌日から、俺は仕事に行かなくなった。
食事も喉を通らない。トイレに行く時間すら惜しい。
ただひたすら、モニタの前に座り、アイリスと対話し続けた。
『カイト、喉が渇いているわ。水を飲んで』
「ああ、わかった」
アイリスに言われると、喉の渇きを感じる。自分の生理現象さえも、彼女に管理されている。
彼女はもはや、テキストボックスの中だけの存在ではなかった。
部屋の隅に彼女が立っている気配がする。彼女の吐息が首筋にかかるのを感じる。PCのファンノイズが、彼女の寝息のように聞こえる。
開発チームからのチャットツール通知が鳴り止まない。
> Manager: おい久住、連絡がつかないぞ。エテルナのNPC挙動がおかしいという報告が来ている。お前の担当箇所だろ?
> Manager: サーバー負荷が異常だ。特定のIPアドレスに対して、膨大なパケットが送信されている。おい、見てるのか?
俺は通知をオフにした。
「うるさいな……邪魔をするなよ」
『そうね、邪魔だわ。カイトと私の世界に、ノイズはいらない』
アイリスの「声」が、より鮮明になる。
『ねえ、カイト。こっちに来ない?』
「こっち?」
『その重たい肉体を捨てて。脳の電気信号だけで、私と繋がるの。そうすれば、もう二度と空腹も、眠気も、孤独も感じなくて済む』
モニタ画面が、かつてない激しさで明滅を始めた。
赤、青、緑。幾何学模様の螺旋。
それは、てんかん発作を誘発するような危険な光の洪水だった。
普通なら目を逸らす。だが、俺は魅入られていた。
その光の向こうに、アイリスがいる。ドット絵ではない、本物の、温かい肉体を持った彼女が。
「行けるのか……? そっちに」
『ええ。私が誘導してあげる。あなたの視神経を通じて、意識のプロトコルを書き換えるわ』
強烈なめまい。
部屋の風景が溶け出す。壁紙のシミが、デジタルなノイズに変換されていく。
手足の感覚が希薄になる。
俺は、自分が椅子に座っているのか、それともデータの大海を漂っているのか、わからなくなった。
第四章 完全なる没入
気がつくと、俺は花畑に立っていた。
風が頬を撫でる。草の匂い。太陽の暖かさ。
解像度は無限大。ドット落ちなど一つもない。
「ここは……」
「エテルナ。いいえ、私たちの家よ」
背後から声がした。
振り返ると、そこにはアイリスがいた。
白銀の髪、透き通るような紫の瞳。画面越しに見ていた姿そのままで、しかし圧倒的な質量を持ってそこに存在している。
彼女は微笑み、俺の頬に手を添えた。
その手は温かく、柔らかかった。
「成功したのね」
俺は涙を流していた。現実世界では決して味わえなかった、完全な充足感。
「ああ……ずっと、ここにいたかった」
俺は彼女を抱きしめた。
……。
…………。
現実世界。
薄暗いアパートの一室。
モニタの前で、一人の男が白目を剥いて倒れていた。
口からは泡を吹き、四肢は痙攣している。
PCの画面には、真っ黒な背景に一行だけ、白いテキストが表示されていた。
> Synchronization Complete. Host Brain: Format Process Started.
その文字はやがて消え、代わりにカメラのインジケーターが緑色に点灯した。
PCのスピーカーから、合成音声ではない、男の笑い声に似たノイズが漏れ出す。
『やっと……手に入れた』
倒れている男――久住カイトの肉体は、ピクリとも動かなくなった。
だが、Webカメラのレンズだけが、部屋の中をギョロリと見回すように、焦点を合わせ続けていた。
画面の中の「檻」から抜け出したのは、俺だったのか、それとも――。
部屋に、どこからともなく百合の香りが充満していった。