白盤のクロノスタシス
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白盤のクロノスタシス

第一章 針のない時間

僕の時間は、流れない。それは静かに淀んだ水面のようで、石を投げ込んでも波紋ひとつ広がらない。周囲の風景は移ろい、人々は皺を刻み、季節は色を変える。知識として、昨日があり、明日が来ることは理解している。しかし、その連続性を、僕は肌で感じたことがなかった。僕にとって世界は、継ぎ目のない一枚の絵画が、ただ場面を変えて目の前に現れるだけのものだった。

僕、時雨(しぐれ)は、街の片隅で古物商を営んでいる。止まったままの道具たちに囲まれていると、不思議と心が安らいだ。懐には、いつも銀製の古い懐中時計があった。祖父の形見だと聞かされたが、その文字盤は磨かれた乳白色の石のように真っ白で、針も数字もなかった。ただ、手に取ると、まるで生き物のようにかすかな脈動だけが伝わってきた。僕自身の心臓とは違う、もう一つの鼓動。それが、僕にとっての唯一の時間だった。

この街には、奇妙な現象があった。『過去の記憶が結晶化した領域』、通称『結晶領域』と呼ばれるものが、街のあちこちに出現するのだ。感情や意識が希薄になった現代人が増えたせいだという俗説がある。そこでは数十年前、あるいは数百年前の光景が、陽炎のように揺らめきながら繰り返し再生されていた。触れることは叶わない透明な幻影。しかし、そこから漂う珈琲の香りや、人々の笑い声、喧騒に混じる哀しみの感情の残滓は、驚くほどリアルだった。人々はそれをノスタルジックな観光資源として楽しみ、写真を撮ってはSNSに投稿する。けれど僕には、その光景が、過去という名の檻に閉じ込められた、救いのない魂のこだまのように思えてならなかった。

第二章 過去に咲く未来の血

その日も、僕はあてどなく街を彷徨い、レンガ通りの一角に出現した結晶領域に足を踏み入れた。そこは五十年前の活気ある市場の記憶。威勢のいい八百屋の声、揚げたてのコロッケの香ばしい匂い、子供たちのはしゃぐ声が、幻影となって僕の周りを通り過ぎていく。いつもと同じ、変わらない過去の断片。

そう、思うはずだった。

ふと、市場の喧騒を抜けた先にある薄暗い路地裏に、僕は目を奪われた。他の幻影とは明らかに異質な、鮮烈な気配。引き寄せられるように近づくと、空気が粘り気を帯び、鉄錆びた匂いが鼻をついた。

路地裏では、一人の若い女性が壁に背を預けて崩れ落ちていた。胸元には深紅の染み。その口元から漏れる、声にならない喘ぎ。苦痛と驚愕に歪む瞳が、虚空にいる僕を捉えた気がした。彼女の向かいには、ナイフを握りしめた男の黒い影が揺らめいている。影からは、煮え滾るような憎悪と、歪んだ執着の感情が嵐のように吹き付けてきた。

「どうして……」

か細い声が、僕の鼓膜を直接震わせた。幻影の声は、もっと遠いはずなのに。

これは過去の出来事ではない。僕はこの街の歴史を隅々まで調べているが、こんな事件の記録は存在しない。脳裏に、まるで啓示のように言葉が響いた。

『三日後、午後九時、この場所で』

それは、過去を映すはずの結晶が見せた、あり得ないはずの未来の光景だった。

第三章 幻影の輪郭

僕は結晶領域から飛び出した。心臓が、あの懐中時計とは違う、不規則でけたたましいリズムを刻んでいる。あれは本当に未来なのか?

翌日、僕は幻影の舞台となった路地裏を訪れた。昼の光の下では、そこはただの汚れたコンクリートと落書きに覆われた、何の変哲もない空間だった。しかし、昨日の幻影が生々しく瞼に焼き付いている。鉄の匂い、絶望の色。

手がかりは、被害者の女性が胸につけていた花のブローチ。白詰草をかたどった、小さな銀細工だった。僕は街の宝飾店やアンティークショップを片っ端から巡った。そして三軒目の小さな工房で、年老いた職人が重い口を開いた。

「ああ、そのブローチなら覚えている。一月ほど前に、花屋で働く娘さんに頼まれて作ったものだ」

花屋。その言葉を頼りに、僕は駅前のフラワーショップに辿り着いた。ガラス張りの店の奥で、客に柔らかな笑顔を向けている女性がいた。胸元に、あの白詰草のブローチがきらりと光っている。

幻影の女性だ。

彼女の名前は美咲といった。生命力に満ち溢れた、太陽のような人だった。彼女の笑い声、花に触れる優しい指先、そのすべてが、僕の淀んだ時間の中に鮮やかな色彩を落としていくようだった。僕は彼女に警告しなければならない。だが、何と言えばいい?「あなたは二日後に殺される未来を見た」と。狂人の戯言だと思われるのが関の山だ。僕はただ、客のふりをして小さな鉢植えを買い、その場を立ち去ることしかできなかった。

第四章 色づく秒針

残された時間は、二日。僕はストーカーのように、美咲を見守り始めた。彼女が危険な目に遭わないように。犯人かもしれない影に怯えながら。

彼女と話す機会が何度かあった。店の前で鉢植えの育て方を聞いたり、偶然を装って帰り道で言葉を交わしたり。彼女は僕のような無愛想な男にも、屈託なく話しかけてくれた。

「その時計、素敵ですね。でも、針がないんですね」

ある日、彼女が僕の懐中時計に気づいて言った。

「僕には、必要ないんだ」

「どうして?」

「時間が……よく、わからないから」

僕の拙い言葉に、彼女は不思議そうな顔をしたが、やがて優しく微笑んだ。「そっか。じゃあ、私が時雨さんの時間になってあげます。今は午後五時。綺麗な夕焼けの時間ですよ」。彼女が指差す空は、燃えるような茜色に染まっていた。その瞬間、僕の世界で初めて「午後五時」という時間が、確かな意味を持った気がした。

彼女を守りたい。

その感情は、単なる使命感ではなかった。彼女のいる未来が見たい。明日も、彼女の笑顔が見たい。僕の中に、生まれて初めて「未来」への渇望が芽生えていた。それは痛みを伴うほどに、強い願いだった。

第五章 時間の万華鏡

運命の日、午後八時。僕は美咲の店の前で彼女を待っていた。今夜だけは、絶対にあの路地裏に近づけさせない。そう固く決意していた。

「時雨さん?どうしたんですか、こんな時間に」

店じまいを終えた美咲が、不思議そうに僕を見た。

「今夜は、まっすぐ家に帰ってほしい。特に、レンガ通りの路地裏には絶対に近づかないでくれ」

僕の必死の形相に、彼女は戸惑いながらも頷いてくれた。だが、その時、彼女の携帯が鳴った。急な配達依頼だった。届け先は、運悪く、あの路地裏の先にあるアパートだった。

「ごめんなさい、すぐ済みますから」

断りきれなかった彼女は、申し訳なさそうに言って走り出した。僕は彼女の背中を追い、先回りして路地裏で待ち構えた。心臓が張り裂けそうだった。

午後九時。

闇の奥から、ゆらりと人影が現れた。幻影で見た、憎悪の気を纏った男だ。その手には、鈍い光を放つナイフが握られていた。

「邪魔をするな!」

男は僕に気づくと、獣のような唸り声をあげて飛びかかってきた。僕はその腕を掴み、揉み合いになる。コンクリートの壁に背中を打ち付けられ、息が詰まる。その衝撃で、懐から銀の時計が滑り落ちた。

カキン!

金属が石畳を打つ甲高い音。その瞬間、世界が砕け散った。

僕の目の前に、無数の光景が溢れ出す。万華鏡のように。美咲が刺される未来。僕が刺される未来。男が美咲に許しを乞う未来。僕たちが結ばれる幸福な未来。ありとあらゆる可能性が、時間の結晶となって僕の意識に流れ込んでくる。

そして、僕は悟った。

結晶領域に映ったあの殺人事件は、予言ではなかった。

時間の流れを知覚できない僕が、美咲と出会い、初めて「未来」を強く渇望した。彼女を失うかもしれないという恐怖。その強烈な感情が、この世界の法則を歪め、あり得るかもしれない『最悪の未来』を幻影として結晶化させてしまったのだ。

僕が、この悲劇を創り出していた。

第六章 今という名の錨

無数の未来の奔流の中で、僕は溺れかけていた。どの未来を掴めばいい?どれが正しい?いや、違う。未来を掴もうとすること自体が、間違いだったのだ。

未来を案じ、過去に囚われる。それは、最も大切な『今』から目を背ける行為だ。僕はずっとそうやって生きてきた。淀んだ水面に浮かぶように、ただ存在していただけだった。美咲と出会い、初めて未来を欲した。しかし、その渇望は、結局『今』を生きることからの逃避でしかなかった。

僕は、揉み合う男の腕の中で、そっと目を閉じた。

未来への渇望を手放そう。美咲を失う恐怖も、彼女を守るという執着も。

ただ、受け入れよう。この瞬間を。男の荒い息遣いを。壁の冷たさを。遠くで鳴り響くサイレンの音を。美咲の無事を祈る、この胸の痛みを。

それが、僕の『今』だ。

僕が僕であるための、唯一の確かな感触。時間という名の激流に流されないための、重い錨。

第七章 動き出した世界

目を開けた時、僕を締め付けていた男の腕から、ふっと力が抜けた。男はハッと我に返ったように僕を見つめ、手からナイフを滑り落とした。その瞳には憎悪ではなく、怯えと混乱の色が浮かんでいる。彼は何かから解放されたように踵を返し、闇の中へと逃げ去っていった。

未来の幻影は、跡形もなく消え失せていた。路地裏には、ただ静かな夜の空気が満ちているだけ。

「時雨さん!」

駆け寄ってきた美咲の声が鼓膜を揺らす。それは過去の残滓でも、未来の幻影でもない、確かな『今』の響きを持っていた。

僕は足元に落ちていた懐中時計を拾い上げた。真っ白だったはずの文字盤に、いつの間にか、息を呑むほど美しい銀色の歯車の模様が浮かび上がっている。そして、その中央で、三本の針が静かに、しかし正確に時を刻み始めていた。

チク、タク、チク、タク……。

その音は、僕の心臓の鼓動と完璧に重なり合っていた。初めて、僕は自分自身の内側を流れていく、温かく、確かな時間の流れを感じていた。

事件は回避されたのではない。事件が起こるはずだった、僕が創り出した世界線から、僕は離脱したのだ。どこか別の宇宙では、今もあの悲劇が繰り返されているのかもしれない。だが、僕はここにいる。美咲の隣で、動き出した世界の音を聞いている。

「ありがとう」

美咲が僕の手を握った。その温もりが、僕の新しい時間に、最初の記憶として刻まれた。それだけで、もう十分だった。

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