ドラゴンの返り血ほど、落ちにくいシミはない。
それだけは、断言できる。
私は溜息をつき、業務用の高圧洗浄機のノズルを握り直した。
「あーあ、目地の奥まで入り込んでる。これ、酸性洗剤じゃ落ちないな……」
第一章 Fランク清掃員の憂鬱
私の名前は、湊(みなと)レンジ。
職業は探索者ではなく、ダンジョン専門の清掃員だ。
覚醒したスキルは『完全洗浄(クリーン)』。
対象の汚れを分子レベルで分解するだけの、戦闘力ゼロのFランクスキル。
今の現場は、都内最大規模のS級ダンジョン『黄泉比良坂(よもつひらさか)』の深層70階層。
本来なら、私のような一般人が立ち入れる場所ではない。
だが、トップランカーたちの戦闘跡地は、とにかく汚い。
魔物の肉片、強酸性の体液、破壊された壁の粉塵。
それらを放置すると、ダンジョンの自己修復機能がバグを起こし、『異常個体(イレギュラー)』が発生する。
だから、私のような清掃員が高給で雇われているわけだ。
「よし、やるか」
私は愛用のノイズキャンセリングイヤホンを装着した。
流れるのは、モーツァルトのピアノソナタ。
外界の音を遮断し、目の前の「汚れ」と向き合う。
キュイイイイイーン!
高圧洗浄機の心地よい振動が手に伝わる。
頑固な血痕が、白い泡と共に弾け飛び、本来の美しい黒曜石の床が顔を出す。
この瞬間が、たまらない。
私は無心で床を磨き続けた。
背後の空中に浮かぶドローンカメラのランプが、赤く点滅していることにも気づかずに。
それは、先ほどすれ違った配信者パーティが置き忘れていったものだった。
さらに悪いことに、彼らはチャンネルを切り忘れていた。
『え、なにこれ?』
『誰もいないのにカメラ動いてる?』
『誰か映ったぞ。防護服?』
『清掃員じゃね? なんでS級に清掃員がいんだよww』
コメント欄が加速し始める。
同接数が、じわじわと上がり始めていた。
第二章 それは「汚れ」に過ぎない
「……ふぅ。ここまでは順調」
額の汗を拭い、私は顔を上げた。
通路の先、大広間の中央に、それはいた。
黒い霧のような塊。
不定形で、見ているだけで吐き気を催すような、ドロドロとした粘液の集合体。
本来なら、ここで恐怖に震えるべきなのだろう。
だが、私に見えているのは「絶望」ではない。
「うわあ……最悪だ」
私は顔をしかめた。
「油汚れとカビの複合体……? いや、これはヘドロか? とにかく不衛生極まりない」
あれは、S級ダンジョンの主(ぬし)――『深淵の捕食者』と呼ばれる災厄だ。
物理攻撃無効、魔法吸収。
触れたもの全てを腐食させる、生ける死。
配信のコメント欄はパニックに陥っていた。
『おい逃げろ!!!』
『ボス部屋じゃねーか!』
『死んだわこれ』
『なんで棒立ちしてんだよ!』
だが、私にはコメントなど見えていない。
私の視界にあるのは、黒曜石の美しい床を侵食する、許しがたい「シミ」だけだ。
「これ放置したら、乾いてこびりつくやつだ」
私は洗浄機のタンクを切り替えた。
通常の洗剤では歯が立たない。
ならば、奥の手を使うしかない。
私は深く息を吸い込み、スキルを発動した。
「――『完全洗浄(クリーン)』、出力最大」
私の手から、青白い光が溢れ出す。
それは攻撃魔法のような派手さはない。
ただ、ひたすらに「清浄」なだけの光。
私はその光を帯びたモップを構え、あろうことか『深淵の捕食者』に向かって全力疾走した。
『は!?』
『突っ込んだああああ!』
『モップwwwww武器モップwwww』
怪物が触手を伸ばす。
触れれば骨まで溶ける死の鞭。
私はそれを、スッとかわした。
いや、かわしたのではない。
「邪魔です。掃除の邪魔をしないでください」
触手が私に触れた瞬間、ジュワッという音と共に蒸発したのだ。
私の周りには、半径2メートルの『無菌領域』が展開されている。
汚れ(・・)は、私に触れることすら許されない。
私は怪物の懐に飛び込むと、その核と思われるドロドロした中心部に、モップを突き立てた。
「そこ! しつこい!」
ゴシゴシゴシゴシッ!
高速でモップを動かす。
『ギャアアアアアアアアアアア!』
怪物が聞いたこともないような悲鳴を上げる。
それは断末魔ではない。
存在そのものを「洗濯」されている悲鳴だ。
「落ちろ! 落ちろ! 白くなれ!」
『洗浄』とは、即ち『浄化』。
『汚れ』として認識された存在は、私のスキルの前では等しく分解される運命にある。
たとえそれが、神話級の怪物であっても。
第三章 神を消した代償
数分後。
そこには、ピカピカに輝く床と、一点の曇りもない空間だけが残っていた。
怪物は跡形もなく消滅していた。
ドロップアイテムすら残らない。
なぜなら、あれもまた「燃えるゴミ」として処理されたからだ。
「……ふぅ。スッキリした」
私は満足げに頷き、モップの水を絞った。
「これで今日のノルマは達成かな」
その時、ポケットのスマホが異常な振動を始めた。
恐る恐る画面を見ると、清掃会社の社長からの着信だ。
「はい、お疲れ様です。湊です。え? 配信? なんのことですか?」
背後で赤く点滅し続けるドローンに、私はようやく気がついた。
空中に投影されたホログラムウィンドウ。
そこには、信じられない数字が表示されていた。
『同時接続数:12,000,000人』
コメントの流れは、もはや肉眼では追えない。
『神回確定』
『掃除のお兄さん最強説』
『世界救ってて草』
『【速報】S級ボス、汚れとして認定され消滅』
『洗剤のCM来るぞこれ』
「……え?」
私は凍りついた。
私の平穏な清掃員ライフが、音を立てて崩れ去っていく。
しかも、ダンジョン管理センターからの緊急アラートも鳴り響いていた。
『警告。第70階層のエネルギー反応が消失。ダンジョンコアが"洗浄"されました』
どうやら私は、汚れと一緒に、ダンジョンの核(システム)まで初期化してしまったらしい。
「あ、あの……これ、弁償ですか?」
私の怯えたつぶやきは、全世界に鮮明な音質で配信された。
これが、後に『破壊の清掃神(デストロイヤー・クリーナー)』と呼ばれることになる私の、最初で最後の配信事故だった。