ゼロ・タイムの羅針盤
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ゼロ・タイムの羅針盤

第一章 予知された雨音

世界は完璧な楽譜のように奏でられていた。アスファルトを叩く雨粒は、一滴たりとも互いの軌道を乱さず、1.5秒前に定められた寸分違わぬ一点に着弾する。人々は傘の森を縫うように歩き、誰の肩も濡れることはない。衝突も、つまずきも、予期せぬ出会いすら、この世界には存在しない。全ての存在が、常に自身の1.5秒後の未来を予知し、その確定した未来へと完璧に収束し続けるのだから。

俺、カイはこの窒息しそうな調和の中で、唯一の不協和音だった。

裏路地の湿った空気の中、俺は情報屋から渡された小さなメモリー・チップを握りしめていた。銀色の表面が、ネオンの光を鈍く反射する。これをこめかみのポートに挿せば、他者の意識が流れ込んでくる。そして、その人物が人生で経験した、最も強烈な感情の奔流が、俺の肉体を通して現実を歪める。

「気をつけな。こいつは『赤区の英雄』の最期の記憶だ。とびきり業が深いぞ」

情報屋は1.5秒後に俺が差し出すコインを受け取る動作をしながら、そう囁いた。彼の言葉も、動作も、全ては予知された通り。俺は無言でコインを渡し、闇に紛れた。

ポケットの中の古い羅針盤が、冷たく指先に触れた。祖父の形見だというそれは、奇妙な代物だった。針は決して北を指さず、ただ静かに、揺らぐことなく「現在」という一点を指し示し続けている。世界の誰もが1.5秒先の未来を見ているというのに、こいつだけが頑なに今を見つめていた。

第二章 燃える追憶

自室の固いベッドに腰を下ろし、俺は意を決してチップをポートに差し込んだ。網膜の裏を、膨大なデータノイズが滝のように流れ落ちる。そして、それは来た。

灼熱の砂塵。怒号。血の匂い。

革命の炎の中で、たった一人、家族を奪われた兵士の記憶だった。裏切りへの憎悪、守れなかった者への悔恨、そして世界そのものへの、焼き尽くすような激しい怒り。その感情が、俺の神経を乗っ取り、骨の髄まで染み渡る。

「う…ぁ…っ!」

声にならない呻きが漏れた。部屋の空気が陽炎のように揺らめき、俺が思わず手をついた壁際の鉄製の本棚が、じりじりと音を立てて赤熱し始めた。塗料が焼け焦げる、鼻をつく異臭が立ち込める。制御できない。怒りの奔流が、物理法則を捻じ曲げていく。

その瞬間、世界が軋む音を聞いた。

アパートの外で聞こえる、完璧なリズムを刻んでいた雨音が、ほんの一瞬、乱れた。窓の外を行き交う人々の、流れるような動きが僅かにぎこちなくなり、予知されていたはずの軌道からコンマ数ミリずれた男が、隣の女の傘に軽くぶつかった。女は驚いたように目を見開く。この世界ではありえない、「アクシデント」の誕生だった。

ドアが蹴破られる。そこに立っていたのは、灰色の制服に身を包んだ男たち――世界の調和を維持する「監査局」だった。

第三章 監査官リヒト

「対象『ノイズ・ゼロセブン』を確保する。抵抗は世界の崩壊を早めるだけだ」

冷徹な声が響いた。監査官たちの中央に立つ男、リヒトと名乗った彼は、他の誰とも違う空気を纏っていた。彼の動きだけは、俺が生み出した予測不能な揺らぎの中でも、完璧な予知に裏打ちされたように滑らかだった。

「なぜ…」

俺は喘ぎながら問うた。赤熱した本棚を盾に、後ずさる。

「なぜ、俺を追う? 俺が何をしたっていうんだ」

リヒトは感情の窺えない瞳で俺を見据えた。「お前は『可能性』という名の疫病を撒き散らしている。この世界は、完璧な安定の上にある。たった1.5秒の予測のズレが、いずれは世界全体の存在基盤を揺るがす亀裂となるのだ」

彼の言葉と同時に、監査官たちが一斉に動く。俺は窓を突き破って外へ飛び出した。雨に打たれながら、濡れた路地を駆ける。背後から追う彼らの足音もまた、完璧なアンサンブルだ。だが、俺の周囲だけ、世界の法則が歪む。水たまりが不自然に跳ね、壁のポスターが理由なく剥がれ落ちる。俺の存在そのものが、この決定論の世界に対する反逆だった。

ポケットの中で、羅針盤が微かに熱を帯びているのを感じた。

第四章 羅針盤が映す幻

袋小路に追い詰められた。リヒトがゆっくりと距離を詰めてくる。彼の目は、まるで遥か昔から俺を知っているかのように、深い色をしていた。

「終わりだ、カイ」

もはや逃げ場はない。俺は最後の抵抗として、ポケットに忍ばせていたもう一つのチップを、震える手でポートに差し込んだ。それは、不治の病で愛する伴侶を失った、老いた科学者の記憶だった。

次の瞬間、世界から音が消えた。

怒りではない。今度は、魂が凍てつくような、深い、深い悲しみが俺を支配した。失われた温もり、二度と触れることのできない手、虚空に響く最後の言葉。涙が頬を伝うより早く、周囲の空気が急速に冷却されていく。降りしきる雨粒が、空中で静止し、美しい氷の結晶となってキラキラと舞い落ち始めた。俺の足元から、白い霜が放射状に広がっていく。

そして、信じられないことが起きた。

完璧な動きを誇っていたリヒトが、その場で凍り付いたように動きを止めたのだ。彼の周囲で、1.5秒後の未来が完全に消失したかのように。予知が、乱れるどころか、空白になったのだ。

その時だった。握りしめていた羅針盤が、胸元で淡い光を放った。針は変わらず「現在」を指している。だが、そのガラスの表面に、幻が映し出されていた。

見たこともない、紫色の空。双子の月。そして、その星空の下で、俺が誰かと穏やかに微笑み合っている姿。この決定論の世界には存在しないはずの、不確定な未来の断片。

「…そうか」

動きを止めたまま、リヒトが絞り出すように呟いた。その声には、初めて驚愕と、そしてどこか安堵のような色が混じっていた。

「始まったのだな。『選択』の時が」

第五章 ゼロ・タイムの真実

舞い落ちる氷晶の中、リヒトはゆっくりと語り始めた。それは、この世界の創生に関わる、禁忌の物語だった。

「遥か昔、この世界は一度、終わりを迎えた。全ての未来が消失し、時間が意味をなさなくなる『ゼロ・タイム』と呼ばれる空白の瞬間に飲み込まれたのだ」

彼の言葉は、凍てついた空気に静かに響いた。

「我々の祖先は、二度とそれを繰り返さぬよう、この『1.5秒予知システム』を構築した。全ての事象を確定させ、未知の可能性を排除することで、永遠の安定を手に入れた。だが…」

リヒトは俺を真っ直ぐに見つめた。「安定は停滞と同義だ。世界は進化を止め、ただ同じ一日を無限に繰り返す、美しい牢獄になった。システム自身が、その矛盾に気づいていたのだ」

彼は自分の胸に手を当てた。

「システムは、自らを乗り越えるための『鍵』をプログラムした。それが、予測不能な感情エネルギーによって未来の可能性をこじ開ける存在…つまり、お前だ、カイ」

信じられない言葉の連続に、俺は息を呑んだ。

「そして私は…」リヒトの姿が、僅かに揺らぎ、光の粒子を放ち始めた。「システムが未来のお前から抽出した意識データを元に作り出した、お前をここまで導くための監査官。お前を追い詰めることで、その力を覚醒させ、世界に『選択』の時をもたらすための存在だ」

「世界は、未知の可能性を恐れていたのではない。心の底から、それを渇望していたのだ」

第六章 現在を指す針

リヒトは、俺自身の未来の姿だった。世界は、破壊されるのではなく、解放されることを待っていた。

羅針盤の裏に刻まれた、見慣れない文字。その意味が、雷に打たれたように理解できた。

『選べ』

予知された未来ではない。誰かの記憶でもない。自分自身の意志で、不確定な未来を選び取れ、と。

俺は最後のチップをポートに差し込んだ。それは、このシステムを設計した、名もなき創設者の記憶。絶望の淵で、それでも未来への「希望」を託した、その強烈な感情。

温かい光が、身体の芯から溢れ出した。それは、底知れぬ喜びと、無限の可能性への信頼。俺の身体が、ふわりと宙に浮いた。周囲の瓦礫や氷の結晶もまた、重力から解放されたように、ゆっくりと舞い上がる。

世界の歯車が、狂い始める。予知されていた軌道を外れ、人々は初めて互いにぶつかり、驚き、謝り、そして、笑い合った。空を見上げ、予測不能な雲の形に目を見張った。偶然の出会いに、戸惑いながらも頬を染めた。

「行け、カイ」

リヒトの身体が、完全に光の粒子となって霧散していく。その顔には、満足げな微笑みが浮かんでいた。

「ここから先は、誰も知らない未来だ」

俺は、ゆっくりと地上に降り立った。世界の喧騒が、まるで新しい生命の産声のように聞こえる。胸の羅針盤は、変わらず、ただ静かに「現在」を指し示していた。

無限の可能性が広がる空の下、俺は、まだ見ぬ明日へと、最初の一歩を踏み出した。

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