編纂師と忘却のインク

編纂師と忘却のインク

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***第一章 白紙の頁と沈黙の少女***

埃と古紙、そして微かなインクの匂いが満ちる「時紡ぎの古書店」。その店主であるカイは、カウンターの奥で分厚い革装丁の本の修繕をしていた。窓から差し込む午後の光が、空気中を舞う無数の塵をきらきらと照らし出し、店内はまるで時が止まったかのようだ。カイにとって、この静寂こそがすべてだった。言葉が持つ途方もない力を知り、そしてそれに絶望した彼が、ようやく手に入れた安息の場所だった。

かつてカイは、「編纂師」を目指していた。万年筆に込めたインクに意志を乗せ、言葉を紡ぐことで無から有を生み出し、時に現実さえも書き換える神聖な書き手。だが、彼はその道を、自ら捨てた。あの日以来、カイは物語を紡ぐことをやめ、ただ古びた物語を修復するだけの、静かな日々に身を委ねていた。

その静寂を破ったのは、ドアベルの乾いた音だった。カイが億劫そうに顔を上げると、そこに一人の少女が立っていた。歳は十歳くらいだろうか。着古したワンピースに、大きな麦わら帽子。何より目を引いたのは、その大きな瞳だった。深い森の湖のような、底知れない静けさを湛えた瞳が、じっとカイを見つめている。

「いらっしゃい。何かお探しかな」

カイが声をかけるが、少女は何も答えない。ただ、こくりと頷くと、おずおずとカウンターに近づいてきた。そして、大切そうに抱えていたものを、そっとカウンターの上に置いた。

それは、一冊の本だった。だが、普通の本ではない。表紙には何の装飾もなく、ただ真っ白。カイが訝しげに手に取って頁をめくると、中もすべてが白紙だった。一行の言葉も、一つの挿絵すらない。

「……これは?」

少女は答えず、代わりにカイの手をとり、その指を白紙の頁の上に導いた。そして、何かを「書いて」とでも言うように、懇願する眼差しでカイを見上げた。彼女は、言葉を話せないらしかった。

カイは眉をひそめた。物語を書いてくれ、ということか。よりにもよって、この俺に。
「悪いが、うちは本を売る店で、書く店じゃない。それに、俺はもう物語は書かないんだ」
冷たく突き放す。それが、彼が自分に課したルールだった。しかし、少女は諦めなかった。彼女は首を横に振り、さらに強くカイの手を握りしめる。その小さな手のひらの熱が、カイの冷え切った心にじわりと染みるようだった。その瞳は、ただの願い以上の、何か切実な響きを宿していた。まるで、世界の終わりを前にした最後の祈りのように。

長い沈黙の後、カイは深いため息をついた。なぜか、この少女の瞳から目を逸らすことができなかった。忘れたはずの、心の奥底の何かが微かに疼くのを感じていた。
「……分かった。少しだけだぞ」
諦めたように言うと、少女の顔がぱっと輝いた。その笑顔は、埃っぽい古書店には不似K合なほど、眩しかった。

カイは引き出しから愛用の万年筆を取り出した。もう何年も、物語を紡ぐためには使っていない、インクの乾いたペン。彼は新しいインクを吸わせると、白紙の頁に向き合った。何を書けばいいのか分からない。だが、少女の期待に満ちた視線が、彼の背中を静かに押していた。

***第二章 綻び始める世界***

カイは、ごくありふれた、短い物語を紡ぐことにした。昔、子供の頃に読んだような、鳥と花の心温まる話。複雑な筋書きも、劇的な展開もない。ただ、穏やかで、優しいだけの物語。

『陽だまりの丘に、一輪の小さな花が咲いていました。花は歌うのが大好きでしたが、声が小さすぎて誰にも届きません。』

カイがそう書き進めると、不思議なことが起こった。万年筆のペン先から立ち上ったインクの粒子が、ふわりと宙に舞い、店の隅にある窓枠に集まったのだ。そして、それまで曇っていた空から陽光が差し込み、まるでそこだけが春の陽だまりであるかのように、柔らかく暖かい光で満たされた。

カイは息を呑んだ。これは、編纂の力。言葉が世界に干渉する、その兆候。忘れたはずの、捨てたはずの力が、自分の意思とは無関係に溢れ出している。彼は慌ててペンを置いたが、少女は嬉しそうにその光に手をかざし、くすくすと笑った。その笑い声には音はなかったが、カイの耳にはどんな音楽よりも鮮やかに響いた。

それから毎日、少女――カイは彼女をリナと心の中で呼ぶことにした――は店にやって来た。そしてカイは、リナのためだけに物語を紡いだ。初めは戸惑い、抵抗を感じていたカイだったが、物語を書くたびにリナが見せる純粋な喜びに、彼の頑なな心は少しずつ解かされていった。

『鳥は、花の小さな歌声に気づきました。そして、その歌を風に乗せて、森中に届けました。』

そう書けば、どこからともなく一羽の青い鳥が窓辺に舞い降り、美しい声でさえずった。
『悲しむ友のために、夜空の星が一つ、地上に落ちてきました。それは青白く輝く宝石になりました。』
そう書けば、リナの足元に、淡い光を放つ小さな石がころりと現れた。

カイが紡ぐ言葉は、ささやかな奇跡となって次々と現実を彩っていく。それは、かつて彼が目指したような、世界を根底から覆す強大な力ではなかった。だが、一人の少女を笑顔にするだけの、温かく優しい力だった。カイは、忘れていた創作の喜びを思い出していた。自分の言葉が、誰かを幸せにできるという、単純で、しかし何よりも尊い事実を。

リナとの静かで不思議な日々。それは、カイにとって失われた時間を取り戻すような、穏やかな時間だった。彼は、この少女がどこから来て、何者なのかを問うことを忘れていた。ただ、この幸せな時間が永遠に続けばいいとさえ、思い始めていた。だが、幸福な物語には、いつだって不吉な影が忍び寄るものだ。

***第三章 忘却のインク***

ある雨の日、カイは物語の続きに手こずっていた。リナに、もっと素晴らしい奇跡を見せてやりたい。その一心で、彼はより複雑で、より力強い言葉を選ぼうとしていた。そして、無意識のうちに、かつて自分が封印したはずの、強力な編纂の領域に足を踏み入れてしまった。

『嵐の夜、黒い竜が空を覆い、世界から光を奪おうとしました。しかし、勇気ある少女がたった一人で立ち向かい――』

その一文を書きつけた瞬間、店の空気が凍りついた。インクが頁の上で黒い染みとなって広がり、禍々しい冷気が立ち上る。窓の外では、穏やかだった雨が、雷鳴を伴う嵐へと変貌していた。店内のランプが激しく明滅し、積み上げられた本が音を立てて崩れ落ちる。

「しまっ……た!」

カイは叫び、慌ててペンを放り投げた。これは、制御できていない。あの日の悪夢が蘇る。力に驕り、制御不能な物語を紡いでしまった、編纂師の最終試験の日。絶望と悲劇に満ちた物語を創造してしまい、その結末の残酷さに耐えきれず、彼は禁忌とされた「忘却のインク」を使ってしまったのだ。物語そのものを、世界から消し去るために。

その時、カイの目の前で、恐怖に震えるリナの姿が陽炎のように揺らぎ始めた。彼女の足元が透け、その輪郭が曖昧になっていく。カイは、雷に打たれたような衝撃と共に、すべてを理解した。

リナは、現実の少女ではなかった。
彼女は、カイがあの日に消し去ろうとした物語の、主人公そのものだったのだ。

忘却のインクは、物語を完全に消滅させることはできなかった。不完全な消去は、物語から「言葉」と「結末」だけを奪い、声と記憶を失った主人公だけを、不完全な存在として現実世界に弾き出してしまったのだ。リナが言葉を話せなかったのも、白紙の本を持っていたのも、彼女自身が「言葉を失った物語」だったからだ。彼女がカイの元へ来たのは、偶然ではない。創造主であるカイに、失われた物語を完成させてもらうための、本能的な帰巣だったのだ。

「ああ……ああ……!」

カイは頭を抱えてうずくまった。自分が救おうとしていた無垢な少女は、自分の最も醜い過去の罪、目を背け続けてきた失敗の具現だった。彼女に優しくするたび、物語を紡ぐたび、彼は知らず知らずのうちに、自分の罪を慰めていただけだったのだ。その事実に、カイの心は粉々に砕け散った。

リナを救うことは、あの悪夢のような物語と再び向き合い、忌まわしい結末までをその手で書き上げなければならないことを意味する。それは、カイにとって拷問に等しい行為だった。

「無理だ……俺には、書けない……」

カイが絶望に打ちひしがれる中、リナの体はさらに希薄になっていく。嵐が、彼女の存在そのものを消し去ろうとしているかのようだった。

***第四章 君がための物語***

カイは震える手で、床に転がった万年筆を拾い上げた。もう逃げることはできない。リナをこのまま消滅させることは、自分の過去から再び逃げ出すことと同じだ。それは、彼女との間に生まれた、偽りない絆さえも裏切ることになる。

彼は、覚悟を決めた。
砕け散った心のかけらを集め、彼はリナに向き直る。透き通っていく彼女は、それでもカイを信じるように、静かな瞳で彼を見つめ返していた。

カイは白紙の本を開き、嵐の中心へとペンを走らせた。かつて書いた、悲劇の物語の続き。黒い竜との絶望的な戦い。仲間たちの喪失。世界を覆う深い闇。彼は、涙で滲む視界の中、一つ一つの言葉を、魂を削るように紡いでいく。それは、ただ悲劇をなぞる作業ではなかった。あの頃の自分には書けなかった、登場人物たちの痛み、苦しみ、それでも失われない一縷の希望を、今のカイは描くことができた。

そして、ついに物語は最後の場面にたどり着く。かつて、カイが書くことを放棄した、悲劇的な結末。少女は、世界を救うために、自らの命と引き換えに竜を封印する。

カイの指が止まる。この結末を書けば、リナは物語の筋書き通りに、消えてしまうのだろうか。しかし、彼は書かなければならなかった。不完全な物語に、真の結末を与えるために。それは、悲しい結末かもしれない。だが、意味のない消滅ではない。彼女の存在に、尊い意味を与えるための、唯一の方法だった。

カイは、最後の一文を書き記した。

『少女は最後の光となり、世界に朝を呼び戻した。彼女の名は、人々の心に、永遠の物語として刻まれた。』

その言葉がインクとなって頁に染み込んだ瞬間、荒れ狂っていた嵐がぴたりと止んだ。店内に、穏やかな光が満ちていく。
リナの体は、眩いほどの光の粒子となって、ゆっくりと宙へ舞い上がっていく。彼女は、消えゆく中で、カイに向かって微笑んだ。そして、初めて、その唇が動いた。

「ありがとう」

それは、澄み切った、鈴の音のような声だった。カイが物語の中で、最後に彼女に与えた、感謝の言葉。彼女は、自分の物語を取り戻したのだ。

光の粒子は、すべて白紙だった本の中へと吸い込まれていった。そして、カイの手元には、完成した一つの物語だけが残された。表紙には金色の文字で『声なき花の唄』と記されている。

カイは、独りになった古書店で、静かにその本を抱きしめた。喪失感はあった。だが、それ以上に、温かい何かが胸を満たしていた。彼は、一人の少女を、彼女がいるべき場所へ、彼女自身の物語の中へと帰してあげたのだ。

カイは編纂師の力を完全に取り戻していた。だが、もはや世界を書き換えるような大それた物語を紡ごうとは思わなかった。彼は知ったのだ。たった一つの物語を、心を込めて完成させることの重みと尊さを。

時折、カイは『声なき花の唄』を開く。頁をめくれば、そこにリナがいる。陽だまりの中で歌い、青い鳥と語らい、そして、世界のために勇敢に戦った少女が、生き生きと息づいている。彼女は消えたのではない。永遠になったのだ。

言葉は世界を創り、そして、物語は人を永遠にする。カイは万年筆を手に取り、新しい白紙の頁へと向かった。彼の紡ぐ物語は、もう誰かを傷つけたりはしないだろう。彼の心には今、あの沈黙の少女が教えてくれた、温かい光が灯っているのだから。

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