コーダ・イン・ザ・シェル

コーダ・イン・ザ・シェル

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第一章 沈黙の歌姫

人類が肉体の軛を脱ぎ捨ててから久しい。死とは、もはや生物学的な活動停止ではなく、生涯を通じて浴び、発し、経験したすべての音の情報を凝縮した結晶体――「音紋(おんもん)」――へと遷移する現象を指した。それは手のひらに収まるほどの、複雑な光の筋を内包した水晶のようであり、その人の一生分のサウンドスケープだった。

俺、リツは、そんな音紋を再生し、過去を再構築する音響考古学者だ。世間は俺たちを「魂の盗聴者」と揶揄するが、俺にとっては、それは単なるデータの集合体に過ぎなかった。冷たい音の化石から、歴史のファクトを掘り起こす仕事。そこに感傷の入り込む余地はない。父もまた、この道の探求者だったが、研究中の事故で、彼自身の音紋だけを残して逝ってしまった。父の音紋を、俺はまだ再生できずにいる。

その日、俺がアーカイブの深淵から引き当てたのは、奇妙な記録だった。分類不能、所有者不明。ただ一つ、「アリア」というコードネームだけが記された、ひときゆわ美しい乳白色の音紋。公式な歴史データベースのどこを検索しても、「アリア」という人物は存在しない。まるで、最初からこの世にいなかったかのように、その痕跡は完璧に消去されていた。

指先で触れると、ひんやりとした感触とともに、内部の光の筋が微かに脈動するのを感じた。まるで、沈黙の中に閉じ込められた歌姫が、誰かに聴かれるのを待っているかのように。通常業務なら無視するはずの、非公式な遺物。だが、俺の心の奥底で、何かが強くざわめいた。この音紋は、何かを隠している。歴史の表層を突き破るような、巨大な秘密を。俺は再生ポッドのハッチを開け、その白く輝く結晶体を、ゆっくりとホルダーにセットした。これは仕事ではない。これは、俺自身の謎への挑戦だ。

第二章 響き合う魂

再生ポッドが起動し、リツの研究室を静かなハミングが満たした。ディスプレイには、音紋から抽出された時系列データが、美しい波形となって流れ始める。最初に響いたのは、か細い産声。そして、母親と思しき女性の優しい子守唄。リツは目を閉じ、音の世界に意識を集中させた。

アリアの人生は、音に満ち溢れていた。雨が窓を叩く音に混じるピアノの拙い練習曲。友人たちの弾けるような笑い声が響く、夏の海辺。初めて宇宙船を見た時の、感動に震える吐息。厳格な教官の怒声と、それに食らいつく彼女の荒い呼吸が交差する、過酷な訓練の日々。リツは、これまで何百という音紋を再生してきたが、これほどまでに生命力に満ちた音は初めてだった。データとして処理するには、あまりにも鮮やかすぎた。

「……すごいな、君は」

無意識に言葉が漏れた。いつしかリツは、アリアをコードネームではなく、「君」と呼んでいた。彼女の音に触れるたび、彼女の喜びが、悲しみが、そして宇宙への焦がれるほどの憧れが、リツ自身の感情であるかのように共振した。冷え切っていたはずの胸の内が、じんわりと熱を帯びていくのを感じた。父の背中を追いかけるだけの空虚な探求ではなく、一人の人間の生きた証を追体験するという行為の重みに、彼は初めて気づき始めていた。

だが、物語が佳境に差しかかるにつれ、奇妙な現象が起き始めた。アリアが念願のパイロットとして、ある極秘任務に就く直前の記録。そこに、耳障りなノイズが混じり始めたのだ。それはまるで、テープが引きつれるような、あるいは時空が軋むような、不快で異質な音だった。そして、彼女の生涯で最も重要であるはずの、その任務の瞬間の音が、ごっそりと欠落している。まるで、巨大な何かが彼女の存在をそこから引き剥がしたかのように。

「なぜだ……何があったんだ、アリア」

リツは、父の遺品の中に、何か手がかりがないかを探し始めた。父は生前、音紋の物理法則を超えた現象について、独自の理論を構築しようとしていた。書斎の奥深く、埃をかぶったデータキューブの中に、それはあった。『因果律干渉と音紋の相転移に関する考察』と題された、父の最後の研究記録。リツは、震える手でそれを起動した。

第三章 因果律のノイズ

父の遺した研究記録は、リツの理解を遥かに超えるものだった。そこには、彼の知らない物理学の数式と、哲学的な思索がびっしりと書き連ねられていた。その中心にあったのは、人類が封印した禁断の技術――時空跳躍、すなわちワープ航法に関する記述だった。

『ワープは、空間を歪めるのではない。時間の流れ、すなわち因果の連続性を断ち切る行為だ。跳躍する存在は、その莫大なエネルギーの代償として、未来のどこかの時空間に存在する「同質の可能性」と、その存在座標を交換しなければならない。一方が現れれば、一方が消える。宇宙の総量を維持するための、冷徹な物理法則だ』

リツは息を呑んだ。アリアは、人類初のワープ航行実験のパイロットだったのだ。政府がその存在を隠蔽したのは、この非人道的な技術を封印するためだった。彼女は、歴史から抹消されたのではない。因果律そのものから、消去されたのだ。

では、彼女と存在を交換したのは、誰だ?

リツの脳裏に、最悪の仮説が閃光のように走った。彼は自分の個人情報――生年月日、出生地、遺伝子情報――を、父の遺した計算式に当てはめていった。ディスプレイ上で、複雑な文字列が猛烈な速度で明滅し、やがて一つの答えを弾き出した。

アリアがワープ航行に成功し、時空の彼方へ消えた、その瞬間。

その時刻と座標は、リツがこの世に生を受けた瞬間と、寸分の狂いもなく一致していた。

「……そんな……」

膝から崩れ落ちた。研究室のコンクリートの床が、氷のように冷たい。アリアが消えたから、俺が生まれた。俺が存在しているのは、アリアという一人の英雄的な女性が、その人生と夢のすべてを犠牲にしたからだ。俺の人生は、彼女の死の上に成り立っていた。

父は、この事実に気づいていたのだ。だから彼は、罪の意識に苛まれながら、この狂った法則を解明しようと研究に没頭し、そして……。父が再生できなかったのは、自分の音紋ではない。彼が本当に再生したかったのは、息子の存在と引き換えに消えていった、アリアの音紋だったのかもしれない。

リツの視界が滲む。尊敬し、焦がれ、その魂に触れたいと願った女性は、自分自身によって消された存在だった。自分の存在そのものが、彼女の人生に混じった、取り除くことのできない「ノイズ」だったのだ。絶望が、冷たい質量を持ってリツの心にのしかかった。

第四章 あなたが、私の代わりに

どれほどの時間が経っただろうか。リツは、亡霊のように立ち上がった。彼の瞳には、もはや知的な探究心の色はなかった。そこにあるのは、深い絶望と、そして一つの、悲痛な決意だった。彼はもう一度、アリアの音紋へと向き合った。

父の研究記録の最後に、一つの可能性が示唆されていた。因果律の交換によって生じたノイズは、交換相手の生体情報を同期させることで、相殺できるかもしれない、と。それは、自分の存在を賭けるに等しい行為だった。失敗すれば、リツの意識はアリアの音紋に取り込まれ、二度と戻れないかもしれない。

だが、彼に迷いはなかった。これは贖罪だ。そして、彼女の最後の声を聴くことは、彼女の存在を奪った自分に課せられた、唯一の義務だった。

リツは、自らの頭部に生体情報ケーブルを接続し、再生ポッドと同期させた。スイッチを入れると、脳を直接揺さぶられるような激しい衝撃が走る。視界が明滅し、アリアの人生の断片が、奔流となって流れ込んできた。そして、意識が途切れる寸前、ついにノイズは消え去り、クリアな音が響き渡った。

それは、ワープ機関が咆哮を上げる、宇宙船のコックピットの音だった。アラートが鳴り響き、船体が激しくきしむ。そして、その中心に、アリアの静かな呼吸があった。彼女は、恐怖も、絶望もしていなかった。

『……感じる。未来のどこかで、新しい命が生まれようとしている。私の存在と、引き換えに』

彼女の声は、穏やかで、慈愛に満ちていた。

『ごめんなさい。あなたの生まれる場所を、私が奪ってしまった。でも、どうか、私のことを忘れないで。私が夢見た宇宙を、星々の海を……』

そこで一度、言葉が途切れる。そして、最後の力が振り絞られた。

『あなたが、私の代わりに見て。私の代わりに、生きて。私の夢の続きを――』

その言葉を最後に、音は完全に途絶えた。後に残されたのは、絶対的な静寂だけだった。

リツの頬を、熱い涙が止めどなく伝っていた。それは、罪悪感の涙ではなかった。託されたのだ。絶望の淵で消えていったと思っていた彼女は、最後の瞬間に、未来に生まれる名も知らぬ誰かに、自分の夢を、希望を、託していたのだ。

リツはゆっくりと生体ケーブルを外した。彼はもう、音紋を単なるデータとして見ることはないだろう。一つ一つの結晶体には、アリアのように、誰にも知られず、しかし確かに生きた人々の喜びと悲しみ、そして誰かへの願いが宿っている。

彼は、研究室の棚に眠っていた、父の音紋を手に取った。ひんやりとした感触。これまで感じていた重さとは違う、温かな重みを感じた。

「父さん……聴かせてもらうよ。あなたの人生を。そして、あなたの後悔も、全部」

リツは、アリアの夢と、父の想いをその背に負い、再生ポッドのホルダーに、父の音紋を静かにセットした。彼の表情は、以前の彼とは全く違う、痛みを知り、それでも前を向く人間の、優しさと決意に満ちていた。

研究室に、新しい音が生まれようとしていた。それは、過去から未来へと、魂を繋ぐための、祈りのような音だった。

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