忘却の彩度
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忘却の彩度

第一章 色のない街角

僕の目には、世界は常に未完成の絵画のように映る。

視線を向けたものだけが、束の間の実像を結ぶ。カフェの看板、街路樹の葉脈、行き交う人々のコートの皺。それらは僕が意識を注ぐことで、ようやくこの世に在ることを許されるかのように、確固たる輪郭を持つ。しかし、ひとたび視線を外せば、全ては不定形の『色と光の粒』へと解けていくのだ。万華鏡の中を漂うガラス片のように、ただ無秩序に煌めくだけの存在に。

問題は、再び視線を戻した時だ。昨日まで猫のシルエットだったカフェの看板は、今日、翼を広げた鳥の姿に変わっている。街路樹は、見慣れたはずの楓から、知らない銀杏へと姿を変えている。誰も、その変化に気づかない。僕以外の誰も。彼らにとっては、鳥の看板も、銀杏の並木も、最初からそこにあった『真実』なのだ。

僕だけが、世界が絶えず変質し続ける音を聞いている。だが、それよりも恐ろしいのは、世界そのものが薄れていく音だった。

『透明化現象』。人々はそう呼んだ。誰からも忘れ去られたモノや記憶が、その実体を失い、空間に溶けて消えていく現象。最近、その進行は恐ろしいほどに速まっていた。街の歴史を刻んできた時計台は、その輪郭をぼやけさせ、もはや正しい時刻を告げることはない。人々は口々に嘆く。大切な思い出が、まるで朝霧のように心から消えていく、と。

僕は思う。世界は忘れられているのではない。僕によって、絶えず『書き換えられて』いるのではないか、と。その疑念は、冷たい霧のように僕の胸にまとわりついて離れなかった。

第二章 揺らぐ記憶の輪郭

「ねえ、レン。昔、ここにあった噴水、覚えてる?」

公園の中央広場で、ユキナが呟いた。彼女の視線の先には、かつて白鳥の彫刻が水を吹いていたはずの場所がある。だが今、そこにあるのは半分透けた台座と、錆びた配管の残骸だけ。水音は聞こえず、代わりに乾いた風が吹き抜けていく。

「大きな白鳥がいて、夏になるとよく水遊びしたじゃないか」

僕がそう言うと、ユキナは困ったように首を傾げた。彼女の瞳が、何か遠いものを探すように宙を彷徨う。

「……そうだった、かな。ごめん、なんだか、よく思い出せないの」

その笑顔が、僕の胸をナイフのように抉った。彼女の記憶から、僕たちの夏が消えかけている。僕が視線を向けるたびに、この公園のベンチの色は変わり、花壇の花は咲き替わってきた。その度に、僕たちの共有したはずの過去が、少しずつ違う物語に侵食されていく。

ユキナの指先が、かすかに震えている。彼女もまた、失われていく何かを本能で感じ、怯えているのだ。

「大丈夫だよ」

僕はそう言って、彼女の冷たい手を握った。けれど、その言葉が誰よりも無力に響くことを、僕自身が一番よく知っていた。

僕がこの世界を見続ける限り、全ては変質し、失われていく。ユキナの笑顔さえも、いつか僕の知らない表情に変わってしまうのだろうか。その恐怖が、僕を行動へと駆り立てた。この現象の核心に、僕自身の眼の奥にある謎に、向き合わなければならないと。

第三章 無色のプリズム

自室の机の引き出しの奥に、それは眠っている。祖父の形見である、手のひらに収まるほどの『無色の鉱石』。どんなに強い光を当てても、それはただ光を素通しするだけで、色も、輝きも持たない。

この鉱石だけが、僕の世界の法則から外れていた。何度視線を向け、逸らし、再び見つめても、その形も、質感も、微塵も変わることがない。まるで、世界の絶対的な『原点』がここにあるとでも言うように。

僕は震える手で鉱石を掴んだ。ひやりとした感触が、僕の焦燥をわずかに鎮めてくれる。言い伝えでは、これは世界の『記憶の残滓』が結晶化したものだという。僕は祈るような気持ちで、鉱石を目に当て、公園の噴水があった方角を見つめた。

息を呑んだ。

鉱石を通して見る世界は、色と光に満ち溢れていた。透明化しかけた台座は、純白の輝きを取り戻し、優雅な白鳥の彫刻が勢いよく水を噴き上げている。水しぶきが太陽の光を浴びて、小さな虹を作っていた。そして、その傍らで笑い合う、幼い僕とユキナの姿が見えた。そうだ、これが僕たちの失われた夏だ。鮮やかで、揺るぎない、本来の世界の姿。

しかし、鉱石から目を離した瞬間、僕は絶望に突き落とされる。目の前の噴水の残骸が、先ほどよりもさらに透明化を進めていたのだ。台座の輪郭はほとんど消えかかり、背後の景色が歪んで見えている。

過去を見る行為は、現在の存在をさらに希薄にする。この鉱石は、失われたものへの追憶を許す代わりに、世界そのものの崩壊を加速させる、両刃の剣だった。

第四章 変質の告白

世界は、死にかけていた。

街の半分は色を失い、人々は自分の名前さえ時折忘れるようになった。ユキナは、僕を見ても、ただ静かに微笑むだけになった。その瞳には、親愛も、懐かしさも、何も映っていない。彼女の記憶から、僕という存在がほとんど消え去ってしまったのだ。

もう、失うものは何もなかった。僕は再び『無色の鉱石』を握りしめ、目を閉じた。この世界の始まりが見たい。なぜ、こんなことになったのか、その根源が知りたい。強く、強く願った。

鉱石が、掌で熱を帯びる。

目を開けると、そこに広がっていたのは過去の風景ではなかった。僕が見ていたのは、巨大な鏡に映ったかのような、僕自身の姿だった。

僕の視線が、老朽化した図書館に注がれる。すると、その壁のレンガは砂のように崩れ、代わりに滑らかなガラス張りの壁面が『再構築』されていく。僕が空を見上げれば、雲は渦を巻いて形を変え、太陽は蒼白い光を放つ月へと『変質』する。僕の無意識の視線、その一つ一つが、古い世界を消し去り、全く新しい景色を、歴史を、物語を『上書き』していたのだ。

僕は、世界の崩壊を嘆く被害者ではなかった。

僕こそが、この世界を絶え間なく破壊し、創造し続ける、唯一無二の『犯人』だった。

透明化現象は、僕が書き換える前の古い世界が、新しい世界に場所を譲る際に起こる、存在の軋轢だったのだ。

その事実が、雷となって僕の全身を貫いた。僕は、愛する人々の記憶を、この手で、この眼で、消し去っていた。

第五章 忘却か、再編か

膝から崩れ落ち、僕は鉱石を通して見えた光景の意味を反芻する。なぜ、僕にこんな力が?

その時、鉱石が再び淡く光り、僕の脳裏に直接、答えが流れ込んできた。それは世界の、悲痛な叫びだった。

この世界は、もうずっと前から『忘れられて』いた。神話も、歴史も、人々の営みさえも、より大きな何かの流れの中で語られなくなり、認識されなくなり、緩やかな消滅へと向かっていたのだ。透明化現象は、僕が生まれるずっと以前から、静かに、だが確実に進行していた。

僕の能力は、その完全なる『無』への流れに抗う、世界の最後の自己防衛本能だった。忘れ去られて消えるくらいなら、いっそ全てを書き換え、新しい物語として存在し続けたい。それが、世界の無意識の願いだった。僕の視線による『変質』は、破壊ではなかった。それは、消えゆく運命からの逃避であり、存在し続けるための、苦渋に満ちた『再編』だったのだ。

選択肢は、二つ。

このまま僕が『見る』ことをやめ、世界が静かに、完全に忘れ去られ、ユキナとの思い出と共に無に帰すのを見届けるか。

あるいは、僕が世界の願いを受け入れ、積極的に全てを『書き換える』か。そうすれば、世界は新しい物語として存続できる。だが、その世界に過去の記憶を持つ者は誰一人いなくなる。ユキナも、僕との全てを忘れ、全く新しい人生を始めるだろう。そして僕は、唯一の『記憶の担い手』として、永遠の孤独を生きることになる。

僕は、もう僕を覚えていないユキナの顔を思い浮かべた。彼女が存在しない世界など、僕には耐えられない。たとえ、彼女が僕を忘れてしまっても。

第六章 観測者のソリチュード

僕は立ち上がり、最後の決意を固めた。愛する世界と、愛する人の存在を守るために。

公園へ向かうと、ユキナはベンチに座り、虚ろな目で色を失った空を見上げていた。僕は彼女の隣に静かに座る。彼女は僕を一瞥したが、何も言わなかった。それでよかった。

「さよなら、ユキナ」

僕の呟きは、風に溶けて消えた。彼女には届かない。けれど、僕の心の中では、僕たちの夏が鮮やかに燃え盛っていた。

僕は『無色の鉱石』を強く握りしめ、立ち上がった。そして、ゆっくりと、世界全体を見渡した。僕の視線が、僕の意志が、奔流となって世界を駆け巡る。

見ていた。色を失った街を。枯れかけた森を。形を失った建造物を。記憶を失った人々を。そして、僕を忘れたユキナを。

僕の視線が触れた全てが、眩い光の粒子へと一度分解され、そして、全く新しい形と色彩を持って再構築されていく。悲しみも、後悔も、失われた記憶も、全てが新しい物語の苗床となった。世界は壮大な交響曲のように鳴り響き、生まれ変わっていく。

やがて光が収まった時、そこには新しい世界が広がっていた。街には活気が戻り、人々は笑顔で語り合っている。公園の噴水からは、白鳥ではなく、天馬の彫刻が力強く水を噴き上げていた。ベンチに座っていたユキナは、友人と楽しそうに笑い合っている。彼女の瞳には、僕の知らない輝きが宿っていた。

誰も、何も覚えていない。

僕を除いて。

僕は、この新しい世界の唯一の『記憶の担い手』となった。失われた世界の全ての美しさと悲しみを胸に抱き、孤独にこの世界を『見続ける』。それが僕の罪であり、僕が選んだ愛の形だった。

ふと空を見上げると、澄み切った青空の片隅に、僕だけが見える、かつての夏の色が、幻のように淡く滲んでいた。


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