第一章: 永遠に降る銀の雨
灰色の空から、銀色の針のような雨が絶え間なく降り注ぐ。
少しやつれた青白い肌を、鳴海透は黒いレインコートの襟の奥深くへ沈め込んだ。
雨に濡れた黒髪。深い疲労と哀愁を宿した、暗い瞳。
泥と錆の混じった不快な匂いが、靴底がぬかるみを踏むたびに鼻腔を突く。
十年ぶりに足を踏み入れた故郷「雨泣村」。異常なまでに狂い咲く、青紫の紫陽花。
湿り気を帯びた冷気が、呼吸のたびに肺腑を侵す。
水没した神社の鳥居。錆びた朱色に視線が縫い留められる。
ドクン、と。
肋骨を打ち据える心臓。
そこに立っていたのは、十年前と寸分違わぬ姿の小夜。
透き通るような白い肌、長く真っ直ぐな黒髪から絶え間なく滑り落ちる水滴。
儚くも神々しいその輪郭。大きく上下する透の喉仏。
鳴海 透「小夜……?」
雨音に溶ける掠れた声。
ゆっくりと振り返った彼女の瞳。底なしの井戸のように空虚な闇。
小夜「帰って。ここはもう、あなたが居ていい場所じゃないの」
鈴を転がすような、だが感情の起伏が完全に抜け落ちた声。
伸ばしかけた透の指先をすり抜け、小夜の輪郭が銀色の雨粒と同化して崩れ去る。
残された圧倒的な孤独と静寂。
指先が微細な震えを帯びる。
透が視線を落とした水たまりの中。無数の白濁した眼球が浮かび上がり、一斉にこちらを見つめ返していた。
◇◇◇
第二章: 水底の儀式

水音。鼓膜の奥で鳴りやまない、粘り気のある水音。
葛城 蓮司「感情で怪異は殺せない。必要なのは理解と法則だ」
無精髭を撫でながら、葛城蓮司が紙煙草の煙を吐き出す。
常にくたびれたトレンチコートを羽織るこの男。漂う湿った煙草と古い紙の匂い。銀縁の丸眼鏡の奥、三白眼が鋭く透の青白い顔を射抜く。
鳴海 透「法則なんて……そんなもので、彼女が救えるのか」
葛城 蓮司「十年に一度、純真な少女を生きたまま水底に沈める。それが雨ノ神の怒りを鎮める『雨女の儀式』だ。君の幼馴染は、神隠しに遭ったんじゃない」
氷の刃となって透の胸を抉る蓮司の言葉。
村の大人たちの狂信的な眼差し。生贄として選ばれた少女。
ちがう。小夜は神隠しだ。突然いなくなったんだ。
紫陽花の陰から、膨れ上がった水死体の幻覚が覗き込む。肌が腐り落ち、泥にまみれた腕。
見ちゃいけない。
濁った水が、蓮司の落とした煙草の吸い殻を飲み込む。
自身の黒いレインコートのポケットが、不自然に重く膨らんでいる。
脈打つような感触。
恐る恐る差し入れた指先に絡みついたのは、氷のように冷たい水でふやけた、おびただしい量の黒髪の束だった。
◇◇◇
第三章: 逃亡者の記憶

口の中に広がる、生臭い血と泥の鉄の味。
息ができない。
鳴海 透「あ……ああ……」
膝から力が抜け、透は泥濘の中に崩れ落ちた。
音を立てて砕け散る、記憶の底の蓋。
十年前の夜。激しい雨。祭壇に縛り付けられた小夜。
『助けて』と伸ばされた彼女の冷たい手。
それを――恐怖のあまり振り払って逃げ出したのは、他でもない透自身だ。
自分を守るために作り上げた「神隠し」という醜悪な自己欺瞞。
喉の奥から漏れ出す、声にならない嗚咽。
水没した本殿の方角。小夜の澄んだ声が脳髄に直接響く。
小夜「私が永遠に苦しめば、透も世界も救われる。だから、これでいいの」
鳴海 透「違う! そんな嘘で……君を犠牲にして生きるくらいなら!」
泥に塗れた両手で頭を抱え込む透。
自身の爪が頭皮を力任せに掻き毟り、泥水に鮮血が滲む。
足元の水面。波紋が収まり、映る自分の顔。
水鏡に映る透の唇の端が三日月のように吊り上がり、肉が裂けるほどの凄惨な笑みを浮かべていた。
僕は、彼女が死んで安堵したんだ。
◇◇◇
第四章: 濁流と泥濘

ゴォォォォォォ……ッ!
村の境界が崩壊する音。
雨ノ神の怒りが頂点に達し、全てを飲み込もうと迫り狂う黒い濁流。
水没した本殿の中心。小夜の華奢な体は、すでに泥と水草に侵食され、無数の水死体を継ぎ接ぎした巨大な肉塊へと変貌し始めていた。
葛城 蓮司「もう手遅れだ! 彼女は人間ではない。退け、鳴海!」
蓮司の怒声。
だが、透は動かない。
黒いレインコートを脱ぎ捨て、荒れ狂う泥水の中へ踏み出す一歩。
肌を裂くような水草の腐臭。容赦なく体温を奪う冷たい水流。
足首に巻き付く、這い上がるような強い力。
見下ろした泥の中。透の足首を掴んでいたのは、亡者ではない。
十年前、小夜の手を振り払って逃げ出した『あの日の自分自身』の冷たい手だ。
鳴海 透「離せ。もう二度と、あの日からは逃げない!」
自らの過去の幻影を乱暴に蹴り砕く。
透は泥まみれのまま、水没した本殿の最深部へと身を投じた。
◇◇◇
第五章: 黄金の夕暮れ
黒い泥水で満たされた本殿の中心。
異形の怪異と化した小夜が、巨大な泥の腕を振り下ろす。
透は抵抗しない。
ただ両腕を広げ、その悍ましくも冷たい身躯を、力の限り強く抱きしめた。
鳴海 透「……やっと、捕まえた」
泥まみれの肌、腐敗の匂い。
それでも、透にとっては生涯ただ一人愛した女性の温もり。
腕の中で、異形が激しく身震いする。
小夜「だめ、来ないで……あなたが、沈んでしまう……!」
初めて感情を剥き出しにして震える、鈴を転がすような声。
透は微かに微笑み、小夜の冷たい唇に自身の唇を重ねる。
泥と血の味が混ざり合う、甘やかな冷たさ。
鳴海 透「今度は僕が沈むから。君は生きてくれ」
《身代わりの契約》
重力に逆らうことなく、深く暗い水底へと引きずり込まれていく透の体。
ゆっくりと離れる、絡み合う指先。
その瞬間――十年間降り続いた村の雨が、唐突に止んだ。
厚い灰色の雲が割れ、水没した雨泣村を照らし出す美しい黄金の夕陽。
水面を乱舞する光の粒。狂い咲いていた紫陽花の色が、鮮やかな瑠璃色へと変わる。
水草と泥が剥がれ落ち、人間の姿を取り戻した小夜。波の消えた静かな水面に、ひとり立ち尽くしている。
夕日を浴びて黄金に輝く、色褪せた白い麻の単衣。
水鏡には、もう誰も映らない。
小夜「あ……ああぁぁぁ……っ!」
膝をつき、水面に向かって伸ばされる両手。狂乱したように、彼女の爪が自身の首筋を血が滲むまでかきむしる。
陽の当たる縁側。甘い金平糖。透の笑顔。
すべてを引き換えにして手に入れた、痛いほどの静寂。
黄金の光の中で、少女の慟哭だけがいつまでも世界に響き渡っていた。