第一章: 忘却の白と赫き椿
雪が音を吸い込む。
白一色の世界。ただ一つ、どす黒いほどの赫。
朽ちかけた洋館の中庭で、寒気を嘲笑うかのように季節外れの椿が狂い咲く。
氷室朔は硝子窓に額を押し当て、その悍ましいほどの赤を見つめていた。
色褪せた襟元を握り締め、厚手の外套を肩に引き寄せる。
硝子越しの冷気。血の気の引いた青白い頬を刺す痛覚。
光を宿さない黒瞳が、ゆっくりと瞬きを繰り返す。
鼻腔を突く、古い木材の湿った匂い。
背後で微かに響く絹擦れの音。
振り返る朔。純白の着物を纏った白雪が、敷居に細い指を食い込ませて立っている。
長く艶やかな黒髪に挿された赤い椿の髪飾り。彼女の透き通るような白い肌を、残酷なまでに際立たせる。
白雪「ごめんなさい、またあなたとの大切なことを忘れてしまったの」
消え入るような声。
微かに引きつる唇の端。伏せられた長い睫毛の小刻みな揺れ。
朔は歩み寄り、冷え切った彼女の小さな手を両手で包み込む。
指先から伝わる、氷のような冷たさ。
朔の胸の奥で脈打つ、鈍い痛み。
薄い唇が、白雪の凍える指先に落とされる。
息の温もり。彼女の白い肌に灯る、微かな朱色。
氷室 朔「大丈夫、君のことだけは絶対に忘れないから」
その細い肩を強引に抱き寄せる。雪と、微かに甘い白檀の香り。
村に棲むという「白狗」なる怪異。
人の記憶を喰らい、対価として命を繋ぐ不可視の獣。
朔は自らの記憶を切り売りし、彼女の命を繋いでいる。そう固く信じ切っていた。
ふと、視界の隅で赤い椿が黒く滲む。
左胸の奥。一瞬だけ止まる、心臓の鼓動。
あれ? 僕は今日、誰のために白湯を沸かしたんだ?
手の中にいる少女の顔が、靄がかかったようにぼやける。
脳の襞から、彼女の名前がずるりと剥がれ落ちていく。
背後の暗がり。喉を鳴らす何か。
首筋を撫でる、生温かい獣の息吹。
第二章: 帝都からの鴉
鈍く光る真鍮の留め具。仕立ての良いインバネスコート。
古びた絨毯を踏みしめる靴音の、なんと耳障りなことか。
九条蓮は銀縁の丸眼鏡の奥で鋭い三白眼を細め、部屋の隅々を値踏みするように見渡す。
神経質そうに整えられた短髪。そこには外の粉雪が微かに残る。
九条 蓮「非合理の極みだ。君たちは互いの首を絞め合っているに過ぎない」
静寂を切り裂く冷徹な声。
懐から取り出した葉巻。むせ返るような煙の匂い。
朔は外套のポケットで拳を握り込む。手のひらに食い込む爪。滴る生暖かい液体。
氷室 朔「部外者は口出ししないでほしい。僕は彼女を守るんだ」
九条 蓮「守る? 傑作だな。契約者はやがて自我を失い、怪異そのものになり果てる。君は自滅への道を全力で疾走しているだけだ」
冷たい刃となって朔の耳膜を突き破る、九条の言葉。
朔の口元に浮かぶ歪な笑み。
破滅など、とうの昔に受け入れた。
愛する者が生きながらえるなら、己が空っぽの肉塊になろうとも。
◇◇◇
夜。
微かな寝息を立てる白雪。その横で、朔は枕元に落ちていた手帳を拾い上げる。
鼻を突く革表紙の匂い。
ページを開く。
乱れた筆致で書き殴られた文字の群れ。
『朔が壊れていく』
『わたしのせいで』
『ちがう』
『わたしが』
ページを捲る指が、ひどく震える。
次のページ。
■■■■■■■■■■■■
黒く塗りつぶされた文字の群れ。
いや、文字ではない。
朔の網膜に焼き付いた、理解不能な言語の羅列。
ドクン、ドクン、ドクン。
自分が読んでいるのか? それとも手帳が脳髄に直接語りかけているのか?
暗闇の向こう。無数の白い目が朔を見下ろす。
第三章: 硝子の剥離
雪の反射。朝の光が網膜を灼く。
洗面台の鏡を見つめる朔。
ひたむきなはずの黒瞳の奥。ぽっかりと空いた黒い穴。
なぜ、僕は彼女のそばにいる?
喉の奥から這い上がる、泥のような虚無。
白雪の笑顔。温もり。彼女を守るという強迫観念。
その根底にあるはずの「熱」が、綺麗に削り取られている。
愛の理由が思い出せない。
冷水で顔を洗う。切れた唇から広がる、血の鉄の味。
廊下の角。開け放たれた書斎の扉から漏れる、押し殺したような声。
白雪「もう限界なの。彼の中から、わたしが消えてしまう」
九条 蓮「真実を告げるべきだ。君が契約者であると」
床に縫い付けられたように動かなくなる、朔の足。
呼吸の仕方を忘れたのか。肺が空気を拒絶する。
白雪「あの冬、雪崩に巻き込まれて瀕死だったのは朔なの。わたしは『白狗』に縋った。わたしの記憶を喰わせる代わりに、彼を生かしてと」
脳天を、巨大なハンマーで殴られたような衝撃。
白雪「今、朔の中から失われているのは、彼の記憶じゃない。彼の中に移し替えた、わたしの記憶の残滓……」
ぐらりと傾く視界。
壁に背を預け、冷たい板張りの床にずるりと滑り落ちる。
朔の記憶の欠落。それは、白雪が彼を生かすために注ぎ込んだ「彼女の命の欠片」の消滅過程。
自己犠牲の救世主だと信じていた日々。
すべては滑稽な幻影。
自分は、彼女に寄生して生き延びているだけの屍。
床を掻き毟る指先から滲む赤い血。自らの皮膚を裂き、痛みで真実を打ち消そうと足掻く。
世界を構成する法則。それが音を立てて崩壊していく。
第四章: 白狗の顎
朽ちた洋館の窓ガラスをけたたましく揺らす猛吹雪。
暖炉の火はとうに消え、凍てつく風が骨の髄まで侵食する。
銀縁眼鏡を押し上げながら、無慈悲な真実を口にする九条。
九条 蓮「白雪の肉体は、すでに魂を持たない空の器だ。君の中にある彼女の記憶が完全に消滅した瞬間、彼女はこの世界から永遠に消え去る」
氷室 朔「嘘だ!! そんなこと、あるはずがない!!」
喉が裂けんばかりの絶叫。
九条の胸ぐらを掴み上げる朔。
インバネスコートの硬い生地を握る手。ひどい震え。
抵抗せず、ただ憐れむような三白眼で朔を見下ろす九条。
九条 蓮「真実ほど残酷で、そして美しいものはない。受け入れたまえ」
急激に圧縮される部屋の空気。
獣の腐臭。充満する、濡れた毛皮のむせ返るような匂い。
暗闇の奥から、無数の白い手足が蠢きながら這い出てくる。
美しいほどに悍ましい「白狗」の顕現。
空っぽの器となった白雪の足元に絡みつく怪異。純白の着物をどす黒く侵食していく。
白雪「朔……ありがとう。もう、わたしを手放して」
涙を流しながら、自らの指を強く噛み締める白雪。
雪のように崩れかける白雪の輪郭。
音を立てて床に落ちる、赤い椿の髪飾り。
朔の前に突きつけられた選択。
このまま彼女の消滅を見届けるのか?
耳元で嘲笑うように開く怪異の口。
全てを寄越せ。そうすれば、器に残してやる。
迫り来る白い顎。白雪の首筋に食らいつこうとしたその瞬間。
朔の黒瞳に宿る、消えたはずの狂気の火。
第五章: 名もなき春風
「触るなああぁぁっ!!」
床を蹴り、白雪に群がる怪異の群れへその身を投じる朔。
猛吹雪。中庭から舞い込んだ幻影の椿。炎のように赤く渦を巻く。
白雪の細い体を掻き抱く朔。
彼女の冷たい頬に、自分の頬を強く押し当てる。
氷室 朔「君が僕を生かしてくれた。なら、今度は僕が返す番だ」
開く白雪の瞳孔。
朔の指が、彼女のうなじを優しく撫で上げる。血の混じった口付け。
脳裏を走馬灯のように駆け巡る、残された僅かな「愛の記憶」。
二人で飲んだ白湯の温かさ。雪に映える赤い椿。彼女が唄ってくれた子守唄。
それらすべてを、薪のようにくべる。
燃やせ。燃やし尽くせ。
氷室 朔「僕のすべてをくれてやる! だから、彼女を解放しろ!」
《魂の譲渡》
圧倒的な光の奔流。
真っ白に染まる視界。すべての感覚を奪い去る轟音。
朔の身体から抜け出した光の粒子。白狗の顎を内部から引き裂き、白雪の器へと流れ込む。
己が新たな怪異の器となること。
それこそが、朔の選んだ唯一の救済。
光の中、朔の頬に落ちる白雪の涙。
それが、朔が最後に感じた温度。
◇◇◇
鳥の囀り。
閉じた瞼を淡い赤に染める、差し込む陽光。
ゆっくりと目を開ける白雪。
洋館の跡地。崩れた瓦礫の上に滴る、柔らかな春の雪解け水。
体を起こし、周囲を見渡す。
泥に汚れた純白の着物。風に揺れる長い黒髪。
不思議なほど軽い体。
胸の奥に残る、満ち足りたような温かな感覚。
彼女の頬を撫でる、土の匂いを孕んだ春風。
白雪「わたしは……どうして」
傍らに落ちている、不器用に彫られた木彫りの小さな椿。
拾い上げる指先。
その木の表面の滑らかさに触れた瞬間。
理由もなく、ぽろぽろと溢れ出す大粒の涙。
白雪「誰の、顔も……思い出せないのに」
誰を探しているのかもわからない。
ただ、その名もなき春風の温もりに抱かれながら。
とめどなく流れる涙を拭うこともせず、空を見上げて優しく微笑む白雪。
雪は、もうどこにも残っていない。