第一章: 灰雪の出会いと無自覚な奇跡
死に絶えた空。
音もなく降り積もる鉛色の結晶が、世界の輪郭をひたすらに削り落としていく。
肺を満たすのは、錆びた鉄と乾いたチョークが混ざったような酷く無機質な匂い。
「よし、この区画はこんなもんかな」
少し寝癖のついた亜麻色の短い髪を揺らし、青年は小さく息を吐く。
温和で垂れ気味の琥珀色の瞳。掃き清められた石畳を、彼は満足げに見つめていた。
使い古されたキャンバス地の清掃服。首元には灰除けのくすんだ緑色のスカーフ。
アルトと呼ばれる彼の右手には、年季の入った竹箒。
静寂。
ただ箒が石畳を擦る音だけが、廃墟となった街に響く。
その時。瓦礫の陰にできた灰の吹き溜まり。そこに、黒い塊が沈んでいるのが見えた。
駆け寄ったアルトの喉仏が跳ねる。
それは、少女だった。
星明かりのような銀糸の長髪が、酷い泥と灰にまみれて絡まっている。所々が破れた黒いドレスから覗く手足は痛ましいほど細く、靴すら履いていない裸足のつま先。凍りつくように冷え切っていた。
アルト「うわ、ひどく汚れた迷子だね。大丈夫?」
倒れたまま微かに目を開けた少女——ルミナの、色素の薄いアメジストの瞳がアルトを映す。
彼女の唇が微かに震えた。
ルミナ「お願い、私に触れないで……あなたまで、汚れてしまうわ」
随分と変なことを言う子だ。
アルトは全く気にしていない。箒を小脇に抱え、無造作に膝を突く。
そして、泥と灰にまみれた彼女の冷たい頬へ。躊躇いもなく素手を伸ばした。
荒れた指の腹が、少女の柔らかな肌を擦る。
冷え切った彼女の体温に、アルトの手のひらの熱がじんわりと移っていく。泥を拭うたび、銀色のまつ毛が微かに震え、ルミナの喉の奥から小さな吐息が漏れた。
その瞬間。
世界が反転した。
絶対に浄化不可能とされた致死の死の灰。それが、彼の手が触れた部分から爆発的な光の粒子へと変貌を遂げる。
空を分厚く覆っていた鉛色の雲が真っ二つに裂け、数百年ぶりに、瞬く星空が顔を覗かせた。
降り注ぐ星の瞬きの下、アルトは自分の手のひらを不思議そうに見つめる。
アルト「いやあ、僕の手汗で綺麗になったのかな。よかった」
その光景を、崩れた塔の陰から見つめる青い瞳。
歴戦の傷跡が残る重厚な銀の鎧。色褪せた赤いマントを羽織った大男、人類最後の騎士団長ガラハドの顎が、外れんばかりに下がる。
ガラハド「お、おお……! 見よ! 御使い様の深遠なる御業を!」
ドクン、と。
狂信の歯車が、甲高い音を立てて回り始めた。
第二章: 祀り上げられる清掃員と芽生える絆
ガラハド「太陽の王たる御使い様! どうか我ら愚かなる人類に、次なる啓示を!」
大理石の床に額を擦りつけ、ガラハドが絶叫する。
アルトは困惑しきっていた。ここは人類軍の野営地。彼がルミナを抱えて歩く道すがら、足を踏み出した大地から次々と緑が芽吹き、色とりどりの花が狂い咲いたのだ。
アルト「いや、ただの散歩だよ。それに道が汚かったから、ちょっと箒を振っただけで……」
ガラハド「ただの散歩! なんという慈愛! ああ、全ては記さねばならん!」
自分の指を噛みちぎらんばかりの勢いで羊皮紙に血文字を走らせる大男を放置し、アルトはテントの奥へと向かう。
簡易ベッドの上。灰を落とし、清潔な毛布にくるまれたルミナが座っていた。
アルト「起きたんだね。ほら、温かいスープを持ってきたよ」
木製の椀から立ち上る、塩とハーブの素朴な匂い。
ルミナは身を縮こまらせ、シーツをぎゅっと握りしめる。アメジストの瞳が、怯えるように揺らぐ。
ルミナ「どうして……私は、世界を滅ぼす呪われた存在。誰からも愛されてはいけないのに」
アルト「難しいことは分からないけど。ご飯が冷めちゃうよ」
木のスプーンを彼女の口元へ運ぶ。
戸惑いながらも、ルミナが小さく口を開いた。舌の上に広がる、野菜の甘みと温かな塩気。凍りついていた彼女の内臓が、嘘のように解けていく。
ルミナ「……おいしい、です」
頬にほんのりと差す朱色。
その横顔を、アルトは琥珀色の瞳を細めて見守る。
窓の外には、彼が「掃除」したせいで咲き乱れた異形の群生花。死の灰を無効化し、ただ温かいスープを作ってくれる不器用な青年。ルミナの胸の奥で、決して抱いてはいけないはずの淡い熱が、静かに脈打ち始めていた。
だが、平穏は長くは続かない。
天幕の外れ、影の濃い場所に立つ人影。氷のように冷たい翠緑の瞳が、右目の銀縁モノクルの奥で光を放つ。
セレス「不確定要素が多すぎますね。不浄は、速やかに焼き尽くすべきです」
純白の法衣に身を包んだ異端審問官セレスの手の中で、チェスの黒い駒が粉々に圧し折られた。
第三章: 致命的なすれ違いと灰の玉座への帰還
夜の帳が下りた野営地。
テントの薄い布越しに聞こえてきた密会中の会話。それがルミナの鼓動を早鐘のように打ち鳴らす。
セレス「あの『太陽の王』の力を使えば、灰の根源を断てる。同時に、不浄の器であるあの魔女を極秘裏に解剖し、内臓から焼き尽くしなさい」
ガラハド「な、なんと……御使い様の傍にいるあの小娘が、災厄の元凶だと!?」
視界が歪む。
呼吸が浅くなり、指先から血の気が引いていく。
やっぱり、私がいちゃいけなかったんだ。無垢で偉大な救世主様の隣に、私のような穢れた魔女がいては。
ルミナは自分の細い腕をきつく抱きしめる。彼が作ってくれたスープの温もりが、今はひどく遠い。
アルトを傷つけたくない。彼にこれ以上、迷惑をかけたくなかった。
決意を固めた彼女の瞳から、一筋の血の涙がこぼれ落ちた。
◇◇◇
翌朝。
アルトが目覚めたとき、隣のベッドは既にもぬけの殻。
乱れたシーツに手を触れる。氷のように冷たい。彼女の体温はとうの昔に失われている。
アルト「ルミナ……?」
テーブルの上に置かれた、破れたドレスの切れ端。
そこには灰の文字で『さようなら。汚してごめんなさい』とだけ記されていた。
ドクン。
胸の奥から込み上げる、得体の知れない鈍痛。
ガラハド「おお、御使い様! あの忌まわしき魔女は自ら死の地へ向かったようですぞ! さあ、我らも追討の軍を!」
ガラハドの甲高い声が耳障りに響く。
アルトは初めて悟る。自分が『救世主』として振る舞わされたことが、結果的に彼女を追い詰めたのだ。
アルト「……僕の、せいだ」
キャンバス地の清掃服を握りしめる。
膝から力が抜け、冷たい床に崩れ落ちた。喉の奥で詰まった嗚咽。
誰かが泣いている顔を見るのが、一番嫌いだった。
それなのに、たった一人の大切な友達を、泣かせてしまった。
アルト「世界なんかどうでもいい。あの子と一緒に、明日も掃除をしてご飯を食べるんだ」
立ち上がる青年。
琥珀色の瞳には、かつてない強固な狂気が宿っていた。
使い古された竹箒を、強く握り直す。
第四章: たった一人のための『大掃除』
死の灰が竜巻のように渦巻く魔境。
空は完全に黒く塗り潰され、巨大な灰の怪物が無数に蠢く。
その絶望的な光景のど真ん中を、たった一人で歩く影。
セレス「正気ですか! あなた一人で灰の最深部に向かうなど、単なる自殺行為です!」
軍勢を率いて後を追ってきたセレスが、モノクルをひび割れさせながら怒鳴る。
だが、アルトは足を止めない。
アルト「どいてよ。今は、ちょっと急いでるんだ」
ゴォォォォォッ!!
山のようにも巨大な灰の怪物が、凄まじい咆哮を上げて彼に襲いかかる。
アルト「道が散らかってるじゃないか……!」
両腕の筋肉が軋む。
ただの清掃員が、使い古された竹箒を大上段に構える。そして、渾身の力で振り下ろした。
光の嵐。
薙ぎ払う!!
本人は『行く手を阻む邪魔なゴミを掃き退けている』だけのつもり。
しかし、その竹箒の一振りは、数千の灰の怪物を一瞬にして消滅させる絶大な光の奔流となった。焦げた灰の匂いが風に吹き飛ばされ、視界を覆っていた黒い霧が晴れていく。
セレス「な……なんという……理不尽なまでの、力……」
銀の刺繍が施されたセレスの手袋が、微かに震える。冷徹な合理主義者の理解を完全に超えた、規格外の超越者。
滑稽なほど不器用なフォーム。
ただ箒を振り回し、息を切らしながらひた走る青年の姿。
それは決して洗練された騎士の戦いではない。必死に、ただ必死に、一人の少女を追い求める純粋な狂愛の形。
ガラハド「おおお……! あれこそが愛! 太陽の王の愛でありますな!!」
自らの眼球を抉らんばかりに見開き、涙と鼻水を流しながら祈りを捧げるガラハド。その狂信者を背に、アルトは灰の最深部——原初の地である『灰の玉座』へと飛び込んだ。
第五章: 涙腺崩壊のカタルシスと光の雪
灰の玉座。
そこは、世界のすべての呪いが凝縮された底なしの闇。
ルミナは空中に浮かぶ黒い結晶体に取り込まれようとしていた。
ルミナ「もう、いいの。私が消えれば、みんな幸せになる」
色を失ったアメジストの瞳が、ゆっくりと閉じられる。
その時。
「ルミナ!!」
清掃服はボロボロに引き裂かれ、亜麻色の髪を泥だらけにした青年が、壁を蹴破って飛び込んでくる。息を荒らげ、全身の皮膚が焼け爛れながらも、その琥珀色の瞳だけは真っ直ぐに彼女を射抜いていた。
ルミナ「アルト……どうして……!」
アルトは躊躇うことなく、呪いの塊へと腕を突っ込む。
凄まじい痛みが彼の肌を炭化させるが、構わず彼女の細い腰を引き寄せ、力強く抱きしめた。
「私に触れないで! 汚れてしまう!」
泣き叫び、胸を叩くルミナの背中に腕を回し、その体温を逃さぬように固く抱きすくめる。彼女の冷たい涙が、アルトの首筋に熱く焼け付いた。
アルト「大丈夫。僕が全部、綺麗にしてあげるよ」
優しく微笑むと、アルトは片手で竹箒を構えた。
それは彼にとって、日課の終わりの合図。
アルト「よし、今日も完璧に綺麗になったね!」
《魂の大掃除》
閃光。
彼が渾身の力で箒を振り抜いた瞬間。
星の裏側まで届く巨大な光の奔流。
玉座を覆っていた絶望の闇がひび割れ、砕け散る。
世界を覆っていたすべての死の灰が、きらきらと輝く『光の雪』へと変わっていく。
空を分厚く閉ざしていた呪いが晴れ、抜けるような青空。
光のシャワーが降り注ぐ中、二人の足元に無限の花畑が波打つように咲き誇る。
呪いから解放されたルミナの黒いドレスは、いつしか純白のワンピースへと変わっていた。
彼女は震える両手で自分の顔を覆い、子供のように声を上げて泣きじゃくる。
アルトはそっと箒を捨て、彼女の手に自分の手を重ねた。
炭化したはずの指先が、光の粒子に包まれて再生していく。荒れた指先と、滑らかな白い指。
見上げれば、灰が消え去った澄み切った青空。
ルミナ「綺麗……」
アメジストの瞳からこぼれる涙を、アルトの不器用な指が拭う。
光の雪が舞う世界の掃き溜めで、ただの手を繋ぐ少年少女に戻った二人。初めて心からの笑顔を交わし合う。
頬を撫でる風には、どこか甘く、新しい季節の匂い。
それは、世界が生まれ変わった証。
雨降る世界は終わり、今日から、彼らの本当の明日が始まる。